日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

1月12日 鉢かづき姫

2009年01月12日 | Weblog
日刊ミヤガワ1838号 2008 1.12

「鉢かづき姫」

この話はちょっと考えさせられる。鉢は実は鉢でなく無表情な顔そのものを語っているのかも知れない。あるいはき不細工に整形しているとも考えられる。花嫁のベール。イスラムの何とかいう覆い。顔を見せないとか隠す文化は随所にある。御簾もそういう質だ。
特定の者にしか見せないとしたら、眠れる森の美女になる。茨のバリアーで覆われている。
鉢姫の母親はなぜこれを被せたか。人の、特に女の幸せへの教示がある。多分この母親は美人ではあったが幸福ではなかったに違いない。実際薄命だ。夫が金持ちだというのは分かるが、美人だから娶っただけかも知れない。鉢姫の鉢を取ろうとして取れなかったことでも分かる。つまりなぜ鉢を被せて妻が逝ったかの洞察が出来ていない。しかも後添えの女は悪女だ。見抜ける力量がない。きっと二度目も美人だったのだろう。しかし姦計を用いて、鉢姫を迫害し追い出す。嫉妬の対象にすらならないのにだ。それに対しても父は無力すぎる。そしてこの父は途中で落魄し乞食坊主に成り果てている。
しかも最後には「詫びた」。
こういう一連から察するにこの人は、浅薄で表層を生きている愚かな男ということになる。きっと母はそれを見抜いていたし、だからこそ顔を鉢で覆って生きさせた。
父親が影の主役のように思う。そして短命であった母。これがこの物語の基本構造だろう。鉢姫の道はどうも構想され、予定されていた感がある。これは母の洞察。一種の芝居、演出と考えてもいい。顔で運命が決まるのは古今の作品には多い。所詮は一過性のものなのに。
辛酸は人を作る。その人柄や生きる姿が顔にも反映する。繭から飛び出ていくような鉢の自壊はそれだ。金銀財宝は培った内面の宝か。
若君は素晴らしい姫だと云い続けていた。それは人をも変えていく。そういうシナリオを母は予見していた。それは現実が何によって動くかを熟知していたからだ。
と、ここまではいい。しかしどうも気に入らない。読解が平坦すぎる。突き抜けたいのだが、物足りなさに鬱鬱としている。
ここ二日ほど考え続けている。
何かもっと根源的なテーマを摑み出さないとならないように思う。頭を掻き毟っている。

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