日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

6月30日 バカの振り

2006年06月30日 | Weblog
日刊ミヤガワ 911号    2006.6.30
「バカの振り」

 極めて好意的に考えてみよう。実は現代日本は世界に向けてバカの振りをしているのだと。プレスリーモニュメントの訪問総理を笑う米国の記者。何で云うとおりになって保身に走り、油断させて、刃をかわす。
 世界からも無視されるほどの浅薄ぶり。バカそのものの芸人たちの世界訪問。かつての真面目で勤勉で何を考えているかわからぬ日本人が、尊敬されつつも奇異に映ったことを返上しようという戦略と考えたらどうか。
 愚民化という国内向けの自堕落蔓延を企図しているだけをみても仕方ない。弱く愚かで金しかない国民を世界で演出していくことで、強国の慢心を促し、下手に出て油断させ増長させる深い意図があるとすれば、それも一理とうなづかぬわけでもない。
 それほどにしょうもない者たちが表に出ている。ゴールデンタイムのテレビなど見られたものではない。政治家もそうだしトップ官僚も似たようなものだ。
 揃って競い合うのは知性ではなく、笑いかしょうもなさだけ。
 これはしかし個人のレベルでは本当に賢い者が使う常套手段だ。相手が調子に乗れば露わになる。国レベルというのもどうか。それほど戦略がないのか、津々浦々まで圧迫状況があるかということになる。
 日本はひどいね。昔日の面影がないね。みんなおかしくなってるよ。力もないね。と思わせておくことでのメリットは何か。
 油断させて何を得る。尊敬されぬ国を演じて何を残す。肉を切らせて骨を切れるか。密かになんらかのプランでも進行しているならいいのだが。そんなしたたかで大きな絵を描けるような雰囲気は感じられない。あったら面白いが。

 「バカの壁」に皆共感した。その通りだが、実に不思議でもある。なんで皆が納得するのだ。これは既にリトマス試験紙の効用を持ったのではないかと穿ってみたくなる。なんで皆が思っていながら、その「バカ」が続いていくのだ。
 多分に確認とガス抜きだ。共感してそしてどうなった。考えてみればおかしなことだ。
 逆にわかった上で惚けていきましょうと云っているようなものだ。実際そうしている。笑いに誤魔化し、冗談に紛らわし、ボクらは結構本質を真面目に語ったり、読み合ったりしている。それは流行でもあるが、それを纏いつつ案外真摯だ。そして見るものは見ている。
 一旦ガラッと雰囲気が変わればまた多くの国民は意匠を変えていくのだろう。そういうしたたかさを時々喝を入れながら、持続させ、鍛えているのかもしれない。

 と、考えてみたらそれはそれで成立しそうだ。しかし本当に振りではない者たちの闊歩が目立つと不安になり、好意的仮説が根本から崩れそうになる。
 バカな振りをしていれば本当にバカだと思う素直な人間もいる。時にバカバカしくなる。もっとも振りをしている人は自分は振りをしているとは云わないものだが。

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6月29日 セレブ嬢誘拐

2006年06月29日 | Weblog
日刊ミヤガワ 910号    2006.6.29
「セレブ嬢誘拐」

 目と鼻の先での事件。娘を持つ身としては他人事ではない。もっとも何億の準備も出来ず云いたい放題の舌禍親父の子を営利誘拐してもなんの犯人側のメリットはない。そう考えるとなにやら世の中でたいして役にも立たぬ人間のような気がしてきて、肩の力が落ちる。そっと娘の顔を見て申し訳ないような気さえしてくる。
 これも無事開放されたから戯言で語れる。犯人は稚拙だと報道されていたが、願わくは常にそうであって欲しいものだ。高尚であるということはどういうことか。ついつい揚げ足取り的に想像してしまう。
 今後の犯罪予備軍に徒な教育はしない方がいい。犯人も捕まり結果としては胸をなでおろす事件だから、いろいろ想像するとつい噴出してしまうことにも気がつく。
 間違えて踏み込まれたという305の住人の弁。突然七、八人の警察の訪問を受け、ここではない、と云われたという話。考えればなんとも人迷惑で情けない話だ。
 間違った情報だったか、前々からあいつのところが怪しいと思われたか。踏み込まれてきっと唖然とし、焦っただろう。「女はどこだ」と問われて、寝入りばなに冷静に答えられたのだろうか。ついつい同情のあまり気になってしまう。「えっ」「女」「おっ」と呆然としつつ踏み込まれたのだろう。
 可哀想に。そして「ここではない。間違えた」と相手が叫んで出て行ったとすればなんの予備知識もないこの住人は、狐につままれたようなものだっただろう。
 あるいはリアルな夢だと思ってまた寝たのかも知れぬ。
 この住人のその前後のいきさつが妙に気になる。インタビューへの答え方もなんとも間延びしていて味がある。この人もとんだ被害者だ。
 「まあ、よかった」では本当は済まされない。といって人命優先の犯罪捜査だ。協力しないわけには行かない。
 これに関しては他人事ではないと思えた。誘拐はされないだろうが、怪しいと間違えて踏み込まれる恐れはある。知ってる人は知ってるが、知らない人は知らない。ボクは本人の意に反してそういう風貌を具備している。ましてここ数日は分析・原稿と共に体調を崩して引きこもりになっている。誇大妄想の世界に入っている。
 危ないところだった。近隣住民の評価はもっとも注意を払わないとならないと知った。
 事件のたびに「近所の声」というものがいち早く流される。「どういう人でしたか」という定式質問にこの近隣はなんと答えるだろう。
 階下はきっと「突然水が落ちてきまして」になる。亀屋は「タバコとかめ饅頭」の話になる。丸正は「いつも決まったものだけを買っていく」になる。床屋は「この間バッサリ」の話。マンション住人の何人かは「怖い人」ときっと思っている。そしてあることないこと喋る。深夜に奇声を上げて走ったとか。夜中二時にコンビニに行くとか。夜中中電灯をつけているとか。布団を干すところを見たことがないとか。杖をついていた翌日に走っていたとか。・・・。
 どう考えてもそこから健全な一般市民の風貌には帰結しない。混乱だ。
 気をつけなくてはならない。そういえば近隣からの見られ方というものにまったく無頓着だったのに気がついた。
 社会の平和はそういう近隣の意識包囲網によって形成される。そうだったそうだった。
 この事件のとばっちり君からボクはいいことを学んだ。

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6月28日 波

2006年06月28日 | Weblog
日刊ミヤガワ909  2006.6.28
「波」

 鏡のような水面がいいと昔思っていた。水鏡、明鏡止水、そんな言葉もある。だから心をいつも静かな湖面に喩えようとしていた。しかしこれは難しいことだ。心の範囲がその人の器に応じて水を湛えているとそれは何とか出来そうにも思う。
 しかし人の心の幅も深さも水の量も濁りも一定ではない。むしろ流れる川の如くある。
 自己を限定しないとこの説は成り立たないのではないかと思えた。無理矢理静寂を作り、風も魚の動きも凍結しないとこれは出来ない。湖面の揺れに対応していく自己の揺れがあれば固定して見えるが、そんな器用なことはできそうもない。結局は他者の介入も新規なことも拒否して防衛していく成長なき自己のままを保全することに汲々となる。これは本来の意味とは違ってくる。
 多分、瞬間だろう。そういう静止の状態の鏡を持つ落ち着きと透徹を、混濁や混乱を生きる者への戒めとして述べられたのではないかと思う。
 川の如く。そう当時ボクの師匠から云われたことがある。その一言をボクは「真流自浄の教え」と勝手に命名して以後の基軸のひとつとした。急流も氾濫も干上がりもありつつも流れ行くべき道を問い、次第に量を増やし、大河となる人の生き方、濁りは流れの中で自ら浄化していく作用。それは取り澄まして水鏡にしがみつくだけの生き方よりも自然ではないかと思うのだ。
 清濁は分離しているものではない。清は濁が自分の重さで沈んでいく物理の原理をもって結果として見えていく。清だけを見ようとするものはそれが濁りであることに気づかぬこともある。清は普遍とは限らない。ボクは浄化しようとする営みや浄化されていく体質そのものが清だと考える。清のままにいようとする者を額面通りに是認するわけにはいかないのだ。枠が狭い。切り捨てて成立するものが清か。

 波を起こす者が心掛けるべきは起こした波の反動を知ることだ。起こした本人が翻弄され、漂流しているとしても、波をキャッチした者はそれを時に打ち消し、時に増幅させ、時に撹拌していく別な波の作用をしていかなくてはならない。
 洞察の必要、作用のための力学の必要。一人が波を起こせるし、消し去ることもできる。それをみんなで打ち消し合い、限定されたコップの中のさざ波にしていく。分断して個別にしていくだけではない。多様性とはその打ち消し合いの作用もあることを忘れてはいけない。それは世の中を混濁させる。
 清く正しく美しくあろうとする者に心を開けと云ってはならない。それは混濁に翻弄され染まる。やっと防衛している自己をそっとしておかなくてはならない。弱さは愛すべきか。保護すべきか。・・・だから光が必要なのだ。憧憬と渇望が、縋るものが必要なのだ。
 ならば自己浄化はどうなる。半魚人やスフィンクスの示唆しているものをちょっと考えたくなった。

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6月27日 やかん

2006年06月27日 | Weblog
日刊ミヤガワ 908号    2006.6.27
「やかん」

 麦茶を煮出して別な容器に移し替えるという手間について今日は考えていた。
 煮出したのだから熱い。しかもそのままにしておくことで原料からまた別な、異質な味が醸される気がする。苦くなることもあるがそれこそ探求しつくし吸収しつくすことによって生まれる本質というもので、人間の探求に似ている。このくらいでいいだろうと引き上げることが申し訳なく思えるようになる。
 しかもだ。熱いときに飲むのもまたいい。五臓六腑に染み渡る。冷蔵庫のように冷やして自己を保存していこうとする夏の書斎にあって、熱い麦茶は刺激的だ。本来猫舌でありながら、こういう対極は嬉しい。
 やかんのままに置いといて何時間置きに飲むとそのたびに味は違う。次第に苦くなると思うがそうでもない。トロトロになっていく。温く緩くなっていく。一晩も立てば色は飴色になる。最後になれば黒い細かい破片が混ざる。舌触りがざらつく。実体に触れることでやっと本体にアプローチしていく気分になる。
 飲み終えてやかんの蓋を開けると、役割を終えたような表情の一部破損のある原料が傾きながら集合している。その段階でやかんを揺さぶると鈍い動きだが、次第にバラバラに底に散乱する。疲れきったスポーツ選手のようなくたびれて一歩も動けぬ原料の粒が瞑目している。
 感動してしまうのだ。ご苦労様と云うべきではなく尊敬に値する。それをまた新しい原料を足して煮るなどは出来ない。丁寧に取り出して灰皿の中に積む。コーヒーの出涸らしではない。次の役割という効能があるかも知らないが、今捨てるということが出来ない。灰皿に積んだ原料はいずれ乾いていく。触るとカサカサする。力を入れると潰れて粉になる。水気がなくなって間が抜けた軽さになっているが、これを口に入れると旨い。正確に云えば旨い気がする。全て食べ尽くすという貪欲さはない。みんな潰して一部口に入れて、次にサラサラしたところで高いところから観葉植物の鉢に落としてみる。
 なんで別な容器に移し替えるのだろう。その際には均一になり、変化はやかんほどではなくなる。いろんな局面での味や色を賞味していくこともできない。それに中身が透けて見えるのが非劇場的というところか。隠蔽されたやかんのシルバーの中の世界でのドラマを想像していく楽しみがなくなる。
 ただテーブルの上のやかんという姿は貧しそうな雰囲気がある。鍋のままインスタントラーメンを食べているような時代意識が蘇る。
 冷蔵庫にやかんごと入れようとしたが昨年末のコンクールの副賞で余った鯨の缶詰が占拠していて、スペースがない。やかんを持ち歩いてこぼしたりでまた手間が増える。
 うろうろしてまたもとに戻して腕組みをする。こんなことをしていること自体が手間なのだが。
 人はこだわりを持つと手間を厭わなくなるものらしい。合理主義とはこだわりを捨てることで成立するのか。
 やかんに映る像のなんと間延びしていることか。

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6月26日 執着

2006年06月26日 | Weblog
日刊ミヤガワ 907号    2006.6.26
「執着」

 人に執着しているのではない。その人の持つ広い意味での文化性に魅かれているのだ。それはまた自分の求めているものをそこに見ているということなのだろう。それを人と混同する。
 もっともその人の文化性なのだから属性とはいえ、その人自身だと言い張ればそれはそれで、まあそうでもあるか、とうなづくしかない。このそれぞれの範疇の違いが噛み合わないから面倒なことになる。丁寧に説明していくのも理解を求めようというのも面倒になる。
 不断に努力と研鑽をしている者に、それをしない者がいつまでもつながろうとすることは土台無理なことだ。いずれ甘え相手の好意と幅の広さにぶら下がっていくしかなくなる。そして更に齟齬を拡大させていく。
 優しさは罪だと書いたことがある。相手を溶かして無力にすることになるという一種の思い上がりを戒めてのことでもある。しかし本当は罪などであるものか。時に自分を壊してまでも優しくあろうとする者に、気づかぬ者こそ罪人なのだ。包まれすぎて何も見えなくなる傍若無人さをこそ戒めたい。
 賢くなければならない。想いだけで縛れるものなど何一つないのに。つながりとはどういうものか、何が必要かがわからぬ者が随所で目に付く。
 努力とは相手に気に入られることではない。自己を研鑽していくことでしかない。尊敬という言葉が介在しないで何があるのだろう。見下しても思い上がってもいけない。無理に対等である必要もない。魅力や敬愛していけるものがなくてなんでつながっていけるのだろう。
 親の子への執着、友人への執着、男女間の執着もそうだろう。人そのものなのか。その人の文化性なのか。
 親は子の持つ文化性をどう見抜いているのだろうと思うことがよくある。

 仏教者はよく執着を捨てろ、離れろと諭す。ボクはそれは首肯できない。捨てても拾いに行き、離れてもまた近づいてくる。衆生の多くが出来ないだろうと見越してあえて語っているとさえ邪推する。
 ボクは克服だと思う。執着を克服していく姿勢こそ大切だと考える。溶かせば心許ない。切ってもつながる。捨てることに執着する逆転も起きる。煮ても焼いても形が変わる。ならば執着しつつ克服し、乗り越え、突き抜けていく境地を獲得していく方を選ぶ。ささやかだが実践してきた。
 モノへの執着はまだ克服しやすいが、人へはなかなか難しいものであるようだ。のた打ち回る地獄にいる者を何人も知っている。執着している方もさせている方も。
 わからなければならぬことをわかりたくないのだ。わかっていてそれができないししたくない。悲しいことだ。わからせればいいと云うのは易いが厳密にはわからなくてはならない。そこに根がある。

 苦しめばいいと思う。うんと苦しみ、泣き喚いて暮らせばいい。そのうちにズボンのポケットからポロリと地面に落ちるように取り払われることもある。苦しみながら人は苦悩を丸めて小さくしていく。ダメならダメでまた喚いていればいい。生涯そうしているのも自己保全だ。ただ相手は朧になる。
 差は認め合わなければ埋められない。埋める必要もない。生彩を放つ自己であることになぜ立ち戻れないのだろう。そんなに孤立は怖いものなのだろうか。人間関係の相談事はほぼそこに収斂している。甘え続ける関係は当然破綻が来る。優しさを逆手に取る者には罰が来る。喚く者は疎ましい。優しすぎる者は讃えられるのか。そうしてあげたい。しかし愚かだ。

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6月25日 醜いアヒルの子

2006年06月25日 | Weblog
日刊ミヤガワ 906号    2006.6.25
「醜いアヒルの子」

 この子は努力したのだろうか。何をしたというのだろう。逃げていただけ。そして出自が白鳥だから、自然にそうなった。いじめられ、嫌われ、排除された、そして逃げ回った。居場所はない。醜いことではなく、それをひとつの理由として母からも遠ざけられたことが彼を流浪へと追いやった。アヒルの種族になんでそんなに執着するのだろうか。孤独になるのは早いか遅いかの違いか、鈍感でいられるか、ではないのか。認められたとしてそれでどうだというのだろう。異質さは見下すか仰ぎ見るか遠ざける。これは基本中の基本だと思う。
 白鳥種族は彼を迎え入れ、褒めそやかす。それは帰属社会の価値観の相違に他ならない。彼はあるいは白鳥ですらないのかもしれない。評価されてホッとして幸せになったというなら、彼は孤独の流浪の過程で何を培ってきたかということになる。
 他者の評価を生きる。それは確かに本質だ。しかしここで提示されているのは別な評価社会が並存している現実だ。階級エレベータとして見ればシンデレラに似ている。絶対性をアンデルセンは根底に敷いている。国民国家や多種民族・文化社会と見れば居場所論になる。
 評価されるところで生きる。それまでは流浪だという。そうなのか。人は人を簡単に受け入れない。生涯流浪したままのケースさえあるではないか。
 桃太郎のでも思う。なぜ鬼が島を牙城としないのか。のこのこと村に帰る必要があるのか。ウラシマもなぜ竜宮城を拠点にしないのか。のこのこと村に帰る必然はあるのか。
 アヒル種族から疎外されたら、それをプラスと転化して自由に場所を確保すればよかったではないか。
 どうもこの話が気になる。始めから「醜い」という価値言語が来る。おいおい誰の基準だよ。外在か内在か。醜いことは固有性とすればむしろ一寸法師のようにそれによってこそ生きる場が出来上がるのに。
 ギリシャ神話の黄金ベッド。その規範と基準が鋳型になる。この子はこれで幸福になったとしたら、なんと安易で浅薄な人生だろうかとむしろ同情する。
 受け入れられることだけを志向していく生き方。それこそ醜いともいえるのではないだろうか。孤高という言葉がある。孤絶という言葉もある。孤立とは違う。積極的にその立場を受容していく精神の気高さのような響きがある。
 高校の時に友人の一人に自他共に認める不細工な男がいた。そいつはいつも鏡を持ち歩き顔を眺めて髪を撫でつけている。「お前努力してるんだ」と云ったら「今まで劣等感の塊だったが、顔をいつも眺めていると愛おしくなってきてさ。いい顔だと思えるようになった」と話していた。一緒にいた連中と本人は笑い転げたが、ボクは感動していた。正直な奴だ。ナルシというのではない。そういうことを起点として顔を作り上げていくのだと思えた。厳密に客観的に云えば何とかなるという程度のものではない。かなり深刻と云うべきだが、それでもこちらも卒業まで見ていたら味のある顔に思えてきた。彼は自信を醸し出していた。そこから逃げることはしなかった。
 よく云われることだが八十年代以降、女性たちが誰も諦めなくなったという。今日街を闊歩していく自信に溢れた姿はほとんど女性たちだ。逆に男たちはしおれてうつむいている。男が選ばれるようになっている。金かポストか顔かキャリアか。外れた男は元気がなくなった。そういう連中が「変身」を潜在的に渇望していくようになる。
 アヒルの子は自己を鏡に映して多様な観点をもってそれを評する能力も術もなかった。遭遇他者を鏡としていた。卑屈でこぢんまりとしてこそこそしていく自信のない人生を生きる。容姿が変身したら羽ばたける。自由を手にする。そうかな。
 あるいは白鳥種族の陰謀かもしれないのに。

 奈良の少年は優等生だと評するのは誤りだ。そういう評価基準が土台おかしい。彼は何から逃げたのだ。何を除去しようとしたのだ。人格に目が行かずレールと点数の評価。医者になれる資質の研鑽はどうした。見事調教された子は中学まではまだ大人しい。それが既に危機なのに、今日の評価社会は優秀でいい子という。彼も問い、親も問い、周囲も問い、一般感覚も問わねばならぬ。そこまでできるか。無理だ。無理だからさしたる教訓も生まれない。
 アヒルの子は現代日本では量産されている。

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6月24日 会議

2006年06月24日 | Weblog
日刊ミヤガワ 905号    2006.6.24
「会議」

 実に下らない会議にうつつを抜かす人たちをボクはなかなか理解できないでいる。会社人の宿命らしいが、ボクの現場にこれは必要を感じたことがない。大切なことは自分でいろんな人の意見は聞くもののいつも決断して遂行してきた。そのための実行部隊は欠かせないが。
 決めたことだって、ギリギリまで考える。ひとつの要素が加わったり、なくなったり、変化があるだけで瞬時に全面的に書き換えになるというのが第一線で生きている人間には必要なことだ。事前の予定通りにやればいいという発想は微塵もない。直前まで求め続け考え続けることこそ現場人の宿命ではないか。
 そのための態勢が肝要であり、それ以外はむしろ邪魔になる。「こうだったはず」という発想は「そうですか」と聞き捨てる。
 一応の暫定的なシナリオ、決定というのが正しい。それに縛られるべきではない。誠実であるとすれば本当はそうなる。個人主体に生きてきたからだとよく云われる。それはそうだ。でなければとっくにボクも作文研も停止している。また変質させられている。
 縛られぬことの必要はこういうときにこそ求められる。日々崩して再編していくことが真っ当な生き方だ。限定自己で生きようとするから組織に依存する。組織とは道具であり、機関に過ぎない。そこで馴化した人たちは、それが正しいと信じ込んでしまう。
 暇な人間と指示待ち人間は、常に細部にこだわる。自分の理解できる範囲の言葉を求める。これは読解力とイメージが不足している。言葉ではなく、イメージとして把握して摺り合わせればいいのに。
 人を動かすのは人をその気にさせることと動線を設定していくことだ。その力量が問われる。できない人は人を動かす立場に立つべきではない。
 合議は一見個々を尊重しているように見えるが、卓越を潰すこともある。鈍い者が集まる会議はさしたる結論は出せない。卓越した者同士はまとまらないか、引き合う。本当に賢い者同士ならいいが、それは今日では稀だ。
 鶏頭がそれぞれの領域で全権を握ってやっていった方がいい。責任の所在もはっきりするし、話はすぐつく。
 会議はどうでもいいテーマでやっていて、構成員をその気にさせればいい。要はやるかどうか、どうやるか、それしかない。全権個人こそふさわしい。
 学校ではそれを抑制する。会議ごっこが民主的で、だから正しいと信仰している。その癖が企業でも抜けない。
 潰し合いと抑制し合いのどこが民主的なものか。その人の能力を発揚させていくものでなければ、欺瞞というべきだ。
 「持ち帰って協議します」という人には「もういい」とボクは云う。「なら来るな」だ。ものにもよるが、待っていてうまくいった験しがない。
 瞬時に展開図を描く人間が社会では求められる。部品の替わりはいくらでもいる。めっきり減った。

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6月23日 見せしめ刑

2006年06月23日 | Weblog
日刊ミヤガワ 904号    2006.6.23
「見せしめ刑」

 光市の母子殺人事件について掲示板に書き込みがあった。ボクなりの問題提起をしておきたい。
 現行法については既に著作の中でも指標に過ぎないと考えを述べている。法律者はそれを絶対視していくのはわかる。秩序維持機能の軸はそれでいい。そして少年法改正を提起していくのは順当な論理回路と云える。
 ボクは教育の専門者として位置づけている。教育というのは秩序を育成していくあるいは検証していくことを通じて社会の進化に寄与していく後進を創出していく機能だと考えている。これが両輪となって社会はバランスが取れる。
 教育の場が秩序維持を教え込むだけなら、一見秩序の安定が図られると考えられがちだが実際は違う。教え込み制約させ矯正していく機能が全面化すれば問題意識は発露を失い、倦怠と心の崩壊が到来する。
 社会の中にいて、遊離して、一旦切り離して、客観的に捉えて、吟味して、それをまた現実の中に持ち込んでいくサイクルが、後進の育成の必須事項としてある。今はここまでの社会だが、これをどうしていくべきかを問わないでどこに目的が生まれるだろうか。
 その立場からすれば、本来的には死刑ではなく、その罪の何倍もの社会的貢献をさせていく贖罪論を現実化していくのが妥当と思う。また死刑という制度も是認はしない。被害者の塗炭の苦痛や感情は忍びないが、それを聞き過ぎて同情しすぎて一面化していくことは避けなくてはならない。
 だが、だからそのままを語っていればいいというものではない。要は法とは弾力的に運用すべきだと思うのだ。
 状況に鑑みて是々非々でいくべきだというのがボクの見解だ。少年法を改正し何かプラスがあったか。しなくてはならないとしてもそれで問題が是正されるものではない。法を守ろうという意識がない者に強化をしても効果はさしてない。しかし法律者はそれをしていくしか方途がない。改正しないよりもマシだという根拠の設定に目的がある。見せしめによる国民教化が刑政のひとつの眼目だ。
 守ろうという意識の醸成と涵養は法律者の軸だけでできるものではない。むしろ教育の軸のテーマになる。
 この事件に関しては論理としては被害者の夫に正当性はある。云われる通りだ。個人の感慨を越して死刑を求めるのは現行法の規定への問題提起として意味がある。亡くなった者は帰らない。しかし、これは両者に云える前提だ。
 反省してお詫びをして判決に従って刑期を終える、それで贖罪にはならない。二人殺したら何万人も生かすことをさせなくてはならない。それは個人の道徳律、内在律の問題としてある。問われるのはそこだ。
 その意志と可能性と矯正環境があるなら死刑判決をしても、猶予を与えればいい。ないなら見せしめのために死刑は不可避だ。

 加害者の父親がコメントしていた。この人はその資格はない。中一で母を自殺で失った子に添うことが出来ない。この子を育てたのはこの父だ。メディアレベルの問題として思索していくことは賢明ではない。親の責任といえば現在は関係ないもののように云われるが、教育の軸としては外せない。沈黙し反省し親としての贖罪をすべきだ。
 法という外在律の問題としてではない。それのみに目が行くのはよろしくない。内在律を問うのが監視するのが「国民内在法廷」というものだ。それが機能していないことが問題なのだ。
 「殺され損」という言葉がある。生きている者はいつどんな奇禍に遭遇するとも限らない。おかしな人間が増加している。それは社会のせいなどではなく、本人とそれを生み育てた親や教育の責任でもある。社会としてはそれを教訓化して活かさないと本当の殺され損になる。
 しかし、もうひとつ。人は変わるものだということも忘れてはいけない。教育がそれを認めなかったら世の中に光はなくなる。肥大化した秩序維持機能は自身を持て余しているようにも見える。

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6月22日 白十字

2006年06月22日 | Weblog
日刊ミヤガワ 903号    2006.6.22
「白十字」

 白山通りの神保町から水道橋に向かうところにある。通りをはさんだ向かいは日大の経済学部だったか。いろんな店が立ち並ぶ一角にその喫茶店はある。
 喫茶店・・、懐かしい響きだ。高校や大学の頃はたまり場だった。マスターと顔馴染みになり、手伝いの女の子たちと打ち興じ、レコードに耳を傾け、書生論を闘わせたり、相談事を聞き合ったり、タバコを燻らせたり。大人でなくガキでない、中間項の時を過した。
 雨の日の喫茶店、あまり人がいないとき、落ち着いた。カウンターの隅でなくてはならない。そこで道行く人たちを眺める。読んだふりの難解そうな本をテーブルにおいて、ぼんやりしていた。アパートに一人でいることが耐えられなかった。
 コーヒーの味も種類も覚えた。どこの町に行っても喫茶店を探して腰を落ち着けた。京都の「ほんやら洞」大阪の「ポポロ」・・。お茶の水は「ウイーン」だったか。高円寺には「デラックス」という小さな店もあった。ほとんど忘れたが今でも店の佇まいは鮮明だ。
 よく待ち合わせをした。相手は覚えていない。ただそこに行くのが日課のような頃もあった。
 神保町はまだそういう店が残っている方だ。多くは消えた。あの、味もそっけもない外資系の禁煙のセルフサービスの安い店など入る気もしない。第一椅子が腰高で狭いときている。落ち着かない。
 白十字は古い店だ。何十年も変わっていないのではないかと思わせる。半地下に降りる。椅子もテーブルも古い。しかし変えない。たまに行く。夏はよく行く。カキ氷を食べに行くのだ。イチゴがうまい。腹を冷やしてはいけないと思うから昆布茶も一緒に頼む。この取り合わせは絶妙だ。ひそかにこの選択を誇りに思う。
 テーブルに肘をつくとガタンとなる。だから足でテーブルの脚を踏んで抑える。やや広いが若い連中は少ない。だいぶ古い頃の学生気分の連中が隅の席を占領して難解な議論をしている。店内は時間が止まっている。六十年代、七十年代を店内に残している。すっと学生の頃に戻れそうな錯覚がある。これが気に入っているのだ。
 メニューもほぼ変わらない。なんで「おでん」があるかわからぬところがいい。このマスターは中年だから後継者だろう。この人は人見知りする。ボクの注文を後ずさりしながら聞く。手伝いの中国からの留学生の云うことはよくわからない。しかしなんとかやっている。静かな静かな人たちだ。いつも苦笑する。二階もあるが行ったことはない。
 ここがいい。残っている感じがいい。積み上げていく品格がある。もっともらしくセンスを競う店は飽きる。凝った味も品がない。店員の気取りも透けて見えてしまう。
 ボクは気に入っているがあっちはどうかわからない。客の、何だお前はという視線にこめられた文句や訝しさを感じる。店の大きな鏡に写る自分を見るとき、心の時と今とのギャップに少したじろぐ。
 まだ学生のままなのに、時の何が削いでいくのだろう。ボクがウラシマだった。

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6月21日 情報通

2006年06月21日 | Weblog
日刊ミヤガワ 902号    2006.6.21
「情報通」

 ひと頃情報過多とか情報処理という言葉が流行った。洪水のように日々流される情報に人は翻弄され、漂白され、洗脳されていく。だからちゃんとした情報を選んで洞察していかなくてはいけないという主張付きの論理が語られた。
 もっともだが、そんなことができる人は一億二千万人のうちどれだけいるだろうか。
 そこまでの能力は育っていない。第一問い直すとか再検証の手法すらない。自分の意見は誰かの受け売りかいくつかの再編成だ。先端ぽいことを云えば感度がいいと思われる程度。
 結局は受け入れて整理して濃縮還元していく力量がないから、混濁のまま気になるものか話題に多くなるものを得ていくだけになる。そして更には浅く領域を絞ったものだけに関心を向けることになる。
 情報を言葉として置換していくなら、それによって個々の意識が作られていくことになる。多彩で多様な情報=言葉の得方と蓄積と消化と整理・・。それによって個々の能力も水準も結果として作られていることになる。
 個人を情報洪水によってふるいにかけて個人を色分けしていく。そういう作用が一方であったということを確認しなくてはならない。
 芸能しか関心のない者、スポーツだけ、食い物だけ、有名人だけ、専門だけ、世間智だけ、政治だけ、株だけ・・。それらを全部受けて還元して骨格を描けるものは極々少ない。
 情報通という人たちの話をよくよく分析してみるとひどく浅い。特にママたちはそうだ。真偽も定かでない言葉を鵜呑みにしてただ受けて少し加工して発信している。これは異常なのだが、本人たちは気がつかない。
 オタクというのも関連している。異常な犯罪への傾斜も関連している。高度情報化社会の持つ問題を昔はよく議論していたが、最近は沈静化している。それはそうだ。もう現実のものだから、どうしようもないという認識だ。むしろこれを活用していく道を積極的に選ぶようになった。
 日本人の雑種化の促進や文化の違いを決定的にして個人を分断化していく、まさしく教育作用としてあったというべきだろう。
 よく知っている、ということは確かにマイナスではない。しかし内実とそれをどう洞察していくかが本当は個人の価値になる。それはわかっていたとしても「実はこうだった」という裏話程度で真相だと思い込むパッケージ理解がせいぜいだ。
 情報の量ではなく質だと云われながら、質を読む力がないだけでなく、それを拒否していく意識すら蔓延している。ひどく個々人の判断力は相対低下していると思える。求めていないからだ。そして気に入るものだけ、自分が崩れないでいられる範囲を必要としている。
 情報防衛ということを実にこぢんまりとしていくこともできるのだ。かつて地域に住み続けそこでの狭い範囲での生活空間と知識で生きてきた時代は情報が多くない分、濾過ができやすかった。知らなくてはならないものとどうでもいいものが区分されやすかった。
 長く培われた判断力の蓄積と伝承は、高度情報化社会の到来と共に崩壊していく。情報の共有化とは平準化と統一性を意味する。これも個別情報化への対抗感覚だ。かくして個別化はまた平準化を求める。バベルの塔をやっている。
 個人の単純化は危険だ。多重化しなくてはならない。しかし還元力と単純化はよく混同される。危機の克服が更に大きな危機を招き入れる。そういう状況を生きている。

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6月20日 書けない

2006年06月20日 | Weblog
日刊ミヤガワ 901号    2006.6.20
「書けない」

 原稿用紙を前にして、書けないという子は少なくない。「何を書いてもいいんだよ」「自由でいいよ」「気に入られようとか、正解とかはないんだよ」などと云ってきた。書けないということの辛さや悲しさがきっとあるだろうから、自分でダムを作り規制し、抑制している意識を取り払っていこうとしてきた。
 そのための手法も何もかも百冊以上の本の中でも述べてきた。親の講座も講演も開催して何回も語ってきた。
 かつては書けないと口惜しがり、机を叩き、泣きながら帰っていった子たちもいた。そういう子は伸びた。顔つきも変わった。本人の意志、意欲や、表現の必然を捉えて、ボクに向かったからだ。
 最近は、ぼんやりとただ座っている子がいる。そして何かしてくれるのを待っているようなのだ。何を待つのだろう。とこちらも眺めている。そのままで書かないで帰っていく。別に悲しいという風でもない。他の全員が真剣に書いている中で一人ポツンとしている。
 どうも幼児教育をさせすぎた子は、人が何かしてくれるものだという依存心が高まっている。確かに教育産業、やたらとサービスとして子に向かっている。過剰にチヤホヤし、見掛けの丁寧さを売り物にし、あるいは攻略法だけを教えていく。幼児の段階からそういう学習に慣れていけば、飽きるだろうし、舐めてかかるだろうし、お客になっているだけだろう。
 別にわかっていただく必要も、書いていただく必要もない。正解を語っていただく必要もなく、合格をしていただく必要もない。学習の基軸は本人の意欲だといえる。それに火をつけてベクトルを本人が導いていけば、何だって身についていく。幼児教育も通塾も増大し、世界でもっとも子の教育に金を掛ける国になっている。それでどうして年々学力が低下し、思考力が低下していくのだ。親も真剣に考えなくてはいけない。
 金を投下していることが見栄の張り合いのような雰囲気さえある。子が気力をなくしていく。覚えても忘れる。それはそうだ。基礎研究をおろそかにした親迎合の教育だ。そんなものに根幹を形成できる質を求める方が愚かというものだ。
 いっぱいやらせて満足するのは親だけ。知的飢餓感を持たせない親は所詮人格の歪んだ人間を作る。自己満足の親子の遊びスポットになりつつある。気がつかなくてはいけないし、幼児の教育の中での審美眼を持たなくてはいけない。
 ボクは意欲を惹起させていくが、書けない子はただ見るだけにしようと思い始めた。何回でも何ヶ月でも何年でもそうしたらいいと真剣に考えている。助手にも手を出すなと指示しよう。
 待つ子を育ててはならない。来て座って講義を聴くだけでも作文だ。白紙も文だし。自分でペンを持って何を書くかを考えて書きはじめないとならない。生きるとはそういうことだもの。
 親が口出ししすぎるから書けない、という段階は過去のものだ。必然が感じられぬ主体的客観的な状況がないことが問題なのだ。
 「うちの子は作文が書けなくて」という電話を受けることはうんざりしている。「お前はどんな勉強をし、どう子に接してきたのだ」。

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6月19日 富士子ども文芸大賞

2006年06月19日 | Weblog
日刊ミヤガワ 900号    2006.6.19
「富士子ども文芸大賞」

 昨年も同じ日に第一回の富士子ども文芸大賞が開催された。一年は早い。もう第二回目になった。
 雨の中を四百名を越す方々が参集してくれた。もう着実に根付き地域行事に組み込まれている。これは富士市の市長、教育長、市会議員や校長会、PTA、協力諸団体の理解と支援があればこそ。
 ボクがこういうことを云うのも珍しいが、本当に真摯な応援を戴いて、地域に根を下ろしていく感触を嬉しいと思う。感謝しなくてはならない。
 発表した子どもたちは緊張していたようだが、スピーチはしっかりしていた。文だけではない総合的な表現力が常に審査の観点になる。何回も練習したと云っていた。緊張が解けて終わった後、撮影の際の表情がいい。上気した後のふっと抜けた感じがいい。
 もう一年、各所でコンクールをやっているから審査委員も慣れてきた。スタッフたちの動きもまずまずだ。今回は少数精鋭でチームを組んだが、その分機敏さと状況判断が強く求められる。もう素人とは云えない。更に自覚した動きが欲しいと思った。
 要は動線の論理だ。こう動いていかざるを得ないという回路を作り上げないと中には立ち止まる人も出てくる。そういう学習こそ人間関係や社会化の基本だ。スタッフは指示を得て動くだけではいけない。人の動きを促していく動線設計者の意識を持つことだ。毎回反省はある。学習することばかりだ。
 帰りのバスの中では、もうこの次のイベントの企画、構想に興じていた。バスの最後尾は昔から不良高校生の指定席だった。いい年になったボクらはほとんどそれだった。何か楽しい。
 みんな力を持ってきた。みんなこのままではいけないと思って展開している。それぞれの現場を持つ者たちの責任が結ばれていくのが楽しい。富士市でも毎回仲間が増えている。大和も武蔵野も成田も静岡も甲府もこの動きは増殖している。
 しかしこういうことができる基盤を作るのに三十年はかかっているのだ。なんと遼遠なことか。そしてこの動きが定着し、根付いて成果を上げるまで、まだ三十年はかかる。やり続けることだ。辛抱だ。お祭りは一回で終わるものではない。
 受賞者は中年になる。その系譜を編み続けないと。若い教師たちも本気になってきている。
 まだまだ作品としての力は物足りない。発想、着眼、思索、まだまだ未開拓だ。これに現場は本気にならないとダメだ。教師たちは勉強をし、表現教育の深遠さに到達していく努力をしなくてはならない。研修会は必須だと思える。
 関係各位に感謝する。育てていただいて有り難い。

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6月18日 頭がいい

2006年06月18日 | Weblog
日刊ミヤガワ 899号    2006.6.18
「頭がいい」

 日本の国は頭がいいということがなにやら勝者のように振舞える国だと思う。バカであると看做されると目線を下げられる。
 なんで利口でなくてはならないのかといつも思う。しかもだ。それが学校歴とセットされているということが噴飯物なのだ。それをしかもずっと信仰している。だから中身のない要領だけ、攻略だけの人間が伸してくることになる。
 それがどうした、と喉元まで出掛かった言葉を飲み込む苦さを本当は多くの国民が味わっている。勉強したことは評価する。しかしその目的は何で、今どうそれを活用し、更にどんな勉強をしているのか。言葉を多く知っていて、質問に答えられて、教養人に混ざって話題についていけることが、頭がいいということか。
 もっと低レベルでテストや偏差値の上位校に行っていることなのか。品質保証書のような自己経歴を堂々と見せ付けることか。
 違う。本当はみんなわかっている。なのに何で本当の学力や教養を身に付けようとしないのだろうか。
 会話をすればわかる。文章を読めばわかる。立ち居振る舞いを見ればわかる。先日ある新聞社系の雑誌のインタビューを受けた。取材者は最初居丈高だった。事前に本のひとつも読んでくればいいものを、始めの話を聞いているだけでボクは愕然としていた。水準が低すぎる。無論そういう人間を寄越す編集長も推して知るべしだ。一時間マシンガントークで質問に答えつつ、途中からは講義になっていた。
 予定調和しか出来ない。想定問答で組み込もうとしている。すぐわかったが教育的にからかってやろうとも思った。本気になって生きていく人間をなまじの雑誌の特集の中の一編になどできるものか。玉石混交の中での審美眼が問われる状況ではないか。若い人であるのはいい。それは自分がただの馬鹿と思って全てを学ぼうという姿勢がなくてはならない。こいつは端倪できないと相手に思わせる何かがないととても務まらない。いやがうえにも本気にさせられてしまったと相手が後で苦笑するようでないとインタビューは出来ない。
 それが感じられない者は適していないのだ。ボクは一時間で切り上げた。最後にようやくここに来て勉強したいと云い出した。まだ芽はある。
 そもそも取材者が過信してはいけない。装うなら本当に馬鹿な振る舞いをして相手を油断させて本質を引き出すくらいでないとならない。ボクはそうしてきた。
 警戒させ、身構えさせては始めから失敗する。これは表現教育のイロハでもある。
 人前で馬鹿になれる人ほど怖い。要注意だ。利口ぶるものはそこで里が知れる。しかも何も知らないということをそのまま云える人は更に怖い。こういう人はどんどん吸収していく。貪欲でもある。これでいいとタカを括る人は停滞していく。
 作文研もみんなから遅れている、自分はダメなんだ、馬鹿なんだと泣いた子ほどひたむきに吸収して、何年かすると着実に自分を積み上げていき、それが崩れない。出来ると思ったり、学校的に高次だと思った子たちはそれに安住してそこで止まる。
 人間の蓄積や起点の大切さを見せ付けられてきた。だから薄っぺらのキャリア自慢の人たちは敷居が高くなるのだ。見透かされると考える。利口と云われた経験とそうでなくてはならないという桎梏があれば、それが習慣になり、評価を気にし、それに満足していくだけになる。
 表現の持つ本来の学習はそれを突き抜けたところにある。一度頭がいいとは何か、なぜそうでなくてはならないか、再考してみたらどうかと思うのだ。

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6月17日 お金持ち

2006年06月17日 | Weblog
日刊ミヤガワ 898号    2006.6.17
「お金持ち」

 テレビの番組を久々にボーっと見ていた。しばらく見ないうちに、ちょっと前と大きく違ってきた点があることに気がついた。
 やたらと「お金持ち」とか「富豪」なるものを殊更に強調しているのだ。世相を反映しているといえばそれまでだが、たとえば「資本主義社会は強い者はますます強くなる」というセリフが自然に語られたり、貧乏人の子を袋叩きにしたり、女性たちが金持ちに群がったり、何かというと富豪の存在が重く輝かしく映し出されている。
 これ見よがしに金持ちであることを描き出し、羨望をそのままストレートに組み込む。貧しいことはマイナスであり、面白くないことであり、良くないことのように根底の文脈が語っているように思える。
 これはしかし、言語中枢機能を持つメディアの姿勢としては意図的だとはわかるものの、あまりに軽率で扇情的な所業とはいえないか。
 二極化が進んでいるということではなく、それを促進し意識的な分岐と自覚に拍車をかけている。これでいいのかと、平等・平均がいいと、あるいは現実を糊塗すればいいと、・・・、そういうわけではない。貧乏自慢や苦労話や貧しくても楽しい暮らしを描けというわけでもない。
 作品として見るならば、ちょっと前まではそんな作風が多かった。ボンボンやお嬢様は揶揄の対象としてあった。清く貧しく美しくの一辺倒はさすがに辛い。しかし今あるものはその単に対極を示しているに過ぎない。
 何か浅いし、かつてよりも哲学としては衰弱を感じる。その分、徒に金持ちが得だという喧伝が強化されていると思える。
 何でもできる。したいことができる。欲しいものは手に入る、その一辺倒なのだ。これは見掛けゴージャスなようで、根は餓鬼道の世界だ。貪りの思想と云ってもいい。哲学と苦労のない金持ちの持つ精神性がいいことのように見せつけられている。
 問題なのは、それに対抗していく論拠を国民が持てないかもしれないということだ。貧しいとバカにされる。自慢する者の前で小さくなる。そして見栄や競い合いがある。グループも出来る。
 子どももそれに巻き込まれる。拝金日本はもう爛熟だ。金が欲しいのであり、あれば何でもできるということであり、それを如何に活用し、世のためとか社会の建設にという発想は乏しい。それはそうだ。哲学がない餓鬼道は身勝手な貪りでしかない。人などどうでもよくなる。
 家族や親子の事件、殺人事件なども大半は金や根底の貧しさが垣間見られる。それはまた現実ドラマとしての見せつけの効果さえある。バカで貧しくて不器用で暗い。それは落伍者で更に落ちていく一方なのだよと常に教訓化されているようだ。
 日本に「健全」という言葉は何に向けて語られるのだろうとふと思う。日銀総裁の個人的理財活動もまた美味しいものは美味しい層の中のことなのさと多くの国民に受け取られる所業として報じられる。
 貧しいとか苦労しているという人たちは厳存しているのに黙している。その層がキレ始めている。
 国家運営のシナリオとしては実にうまくない。この執拗さはなんだろうか。

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6月16日 サッカー明治国家論

2006年06月16日 | Weblog
日刊ミヤガワ 897号    2006.6.16
「サッカー明治国家論」

 オーストラリアに負けた後も誰も厳しいことは云わない。ショーであることは既に自明になっているとはしても、敗因をより深くえぐることをしていないのに何か甘さが蔓延している「優しい日本」を感じてしまう。
 見るからに日本選手は貧弱だ。少年の頃からのエリートが多いというけれど闘争心のようなものやハングリー精神が乏しいと思う。何かが違うのだ。これは本当に「サムライ」なのだろうか。引きつった表情は確かに欧米の物質力や武力にたじろいだ幕末のサムライの表情に通じるものはある。
 しかし日本を背負う気負いはプライドや信念として当然のことだ。日本の現在を世界に示す最大の見せ場のはずだ。
 何かが違う。思っていたとしても根底に違いを感じてしまう。覇気というか気力というか。
 中田はよく云う。日本の形だと。それがどんなものかは知らない。しかしそれはどうでもいいことではないかと思う。要は勝つことだ。勝つための戦略が出来ていないから負けたのだ。総括で選手はよくやったなどと当事者が云ってはいけない。
 監督は明治のお抱え外国人のようなもの。海外組の選手とは先進国に留学した青年と同じだ。
 考えてみればまだ本格的なサッカーブームになって日が浅い。オーストラリアは三十二年ぶりという。その頃の日本はまだささやかなものだった。ここまでのサポーターを組織し、国民的人気にしていくためには、カメに特殊成長ホルモンを注射してガメラにしたような、そう、明治国家作りのようなものだ。鹿鳴館とも云える。
 形や体裁は整ったし、人気も報酬もある。本当に世界に通じる選手がいるのか。本当にそれにふさわしい内実なのかということは、まだ疑問だ。それを望むことも無理ということかもしれない。
 小粒でもピリッとして意表をつく戦術を常に作り、類い稀な精神力を最後の武器として戦ってきたのは、バレーも体操も野球もレスリングもまだ記憶に新しい。昨今は国民が優しくなり、それはチヤホヤしていくことと同義になり、スターになりやすくなった。精神の修養はひたむきさにあるが、何かひ弱なのだ。
 素質を開花させるのは本当は自分だ。この種の領域では日々の鍛錬や訓練というものだろう。這い上がってきた者達には不屈の闘争心がある。ブラジルなどにはそれを感じる。
 日本はやはり乳母日傘のボンボンの世界を感じさせる。まだ開国して国を欧米並みにしようと努力している段階なのだ。明治国家と違うのは精神の問題ということになろうか。
 これはしかし決定的なことだ。日本は負けるべくして負けた。先の戦争や経済と同じ構造がここにもある。
 今後の課題は選手個々が自分に特殊成長ホルモンを注射することだ。出来るか。その必要をどこでどうどこまで感じるか。好きだけではいけない。記念に出場できて良かったではない。別な次元が必要なのだ。
 素質はあるとは思う。しかしこのチームはまだ統一感がない。小さな個人の皮で覆われている。本気になって向かっていない。こぢんまりと遠慮しながらまとまろうとしている。本当の大エースがいない。火をつける存在がいない。走っているのに躍動感がない。つまりは本当のスターもいないということだ。
 本当のところを見ていないのではないか。そして負けてもファンは云うのだ。「感動を夢をありがとう」。
 優しい社会は勇志を蝕む。ここまで云われたら意地でも発奮して欲しいが、自己合理化を図るのだろうな。

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