日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

1月15日 白滝

2009年01月15日 | Weblog
日刊ミヤガワ1841号 2008 1.15

「白滝」

「えぇ。今になって分かりましたよ。この鍋に白滝が入っていないから面白くないということではないのです。そんなことじゃなく、そりゃあ白滝は好きです。水炊きでもしゃぶしゃぶでもすき焼きでも、一番好きな素材です。それがなかったら別に食べなくてもいいんです。大好物・・・・、ちょっと違うんですよ。ある半透明の、そこにあるかどうかも分からないものが、味を吸い取って、いくのですよ。しかも一律ではなくて。色さえも多彩になるのですよ。それがね、なんというか、あぁこの料理を写しているんだ、染みているんだと、とても掛け替えがなくて、可愛いと思うんですね。浸透して行く美学があるんだな・。煮汁? そんなの当たり前です。当たり前ですから、どうっていことはないんです。それにね、白滝は鍋の中を泳ぐんです。楽しいじゃありませんか。他の食材は形が変わりますよ。白菜なんぞもヒタヒタになる。春菊なんぞもタラッとする。あれはどうも吸い取られて敗北した残骸のようなんですよ。食べるときに一言慰めないとならないような。哀れさがあるんです。葱もそうですね。味は出るでしょう。しかし箸で持った時に時々中身が滑り落ちるときがあるじゃないですか。あれ、往生際の悪さですね。それにだらしないじゃないですか。
なんですって? 入れればいいでしょ。ということではないんです。もういいんですよ。なんと云うのかなぁ・・。あなたは食べるための料理と思ってますね。そこが分かったんですよ。だから食べたらいいでしょう、とか美味しく楽しく食べたらいいでしょうと、そういうことでしょ。しかも栄養にでもなればいいじゃないかと、そんなところですよね。
違うんです。そうではなくてね。その・・、作品なんですよ。料理もその中身も中身の変化も取り箸も鍋も皿もテーブルの上も、それにあなたの言葉も表情も指もね。食べている風情もその味わいも食堂を通って胃に到る過程も、そう湯気も。その向きも流れ方も・・・窓に映る夜景も換気扇の音も。全部が作品なんですよ。これ、わがままという表現で示されることですかね。違うと思うんです。もっと崇高な時と場とそこにあるものを素材として創作していく一場面の美なのじゃありませんかね。
それを意識している者と食欲に見合えばいいという者とでは、無理ですよ。まだそういう人の存在も場面の美に素材としていくだけの器量はないのです。どうも破戒素材のように思えるのです。
たかが白滝で・・、ですか。そう仰るのはごもっとも。あなたにはそうなのでしょうね。きっとどこまていってもそうなのだろうと思います。
もったいないじゃありませんか。こんなに世界は明るく華やかで微笑んでいるのに。その日々のために人は努力してきたのに。作品はあり合わせではだめなんです。それはそれでなくてはならないところまで押し上げないと。
食は作品なんです。摂取の文化を生きてきたボクにはたまに食べるときはそれが愛おしいと思えるんですよ。もう、そういう文化を生きていいんじゃありませんか。前史では焚き火をして獲物の料理の回りで踊ったのですよ。正装までして向う時代も生きたのですよ。
食べりゃいい。違います。どんなみすぼらしい食材でもそりは作品の輝く素材になるのですよ。ご飯粒一つでもね。・・・」

「煩い男だわね。二度とあんな奴は食事に誘わないでよ。前もって白滝が好きだと云って置いてくれたらよかったのに・・。」
「まあまあ。」
「男はね。出されたものをただ黙って旨い旨いと食べてりゃいいのよ。」
「・・・・」
「あんなこと云われて腹が立たないの?」
「そんなこと云ったって・・」

作家肌の婿の言葉に姑は自己否定されたように怒り心頭に達している。娘はうろたえ、舅は笑っている。
白滝のない鍋は一瞬の会話の途切れた静寂に、ぶつぶつと滾る音を立てている。

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