新潟久紀ブログ版retrospective

柏崎こども時代35「音楽班に入る(その5)」

●音楽班に入る(その5)

 見た目のカッコよさにあこがれて小学校での有志のオーケストラ活動に入り込んだ私は、肥満体型により判断されたと思しきユーホニウム担当となり、頭数が足りなかったせいなのか”控え”ではなく”スタメン”とされたので、元々習い事などしていたりで相当な上手の者も多かったメンバーになんとかして着いていこうと必死に練習を始めた。
 放課後の所定の練習時間は最初の頃は各自各々が楽譜とにらめっこしながら思い思いに個人練習をしていたのだが、それほど日にちが経たぬ間に皆で合わせるぞということになった。全くの楽器ビギナーの私はビビったものだ。
 合奏練習が始まると、主旋律を奏でる面々というのは以前から演奏慣れしている児童達だったので、中高音で耳に通りやすいそれがしっかりしていると楽曲全体としては聴けるものになっていたようだ。ただ、私の担当する副旋律やリズム取りのパートは自分でやっていて恥ずかしくなるくらいたどたどしい。隣に昨年からのユーホニウム経験者が一緒に演奏してくれていたのでそれに隠れるように追随するのが精いっぱいだった。
 初回の合奏練習を終えると、どれほど私は練習不足を咎められるかと冷や汗がダラダラだったのだが、担当教諭は微笑みながらむしろ励ましの言葉を皆に掛けてくれた。小学生のにわか楽団でのレベルは十分織り込み済で、下手さ加減もご愛敬という意識だったのかもしれない。それでも音楽教師としての思いはあるのだろう。パートごとに必要な練習の程度をそれぞれに課してきた。そうした個別の話になると私に対してはやはり厳しく「他人の三倍くらいは頑張って」という感じだった。
 すっかり夕闇に暮れる外の景色を窓越しに眺めながら肩を落として楽器の後かたずけをしていると、私と一緒に時季外れに音楽班に飛び込んだ仲間の二人が寄ってきた。かれらも吹奏楽器の経験ゼロからのスタートで、しかも二人ともトランペットをあてがわれていたので、演奏の中でも音が際立つことから、下手さ加減が目立って非常に辛かったということだった。これほど心中が共感できることはなく、三人は正に同報相哀れむ状態であった。
 「他人の三倍くらいは頑張れ」というのは教師としての励ましを込めた"盛った"投げかけなのであろうが、素直だった僕たちはそれを本気にして、放課後の音楽室での練習時間の後に二倍分練習できる時間をどうするかと真面目に考え始めた。
 「楽器を家に持って帰って練習するしかないな」と一人が言う。もうそれしか思い浮かばない三人は各々の担当楽器の入ったハードケースを携えた。
 それにしてもだ。他の二人はトランペットなのでスポーツバックくらいのケースを持てば良いのだが、私のユーホニウムは、知っている人は知っているのだが、小学生にとっては大型の楽器だ。加えて比較的身体が大きいものの肥満体型だった私には大荷物を抱えて片道1kmの通学路を歩くのは大変なことだ。
 それでも我ながら悔しさをバネにした真っ直ぐな熱意というものは凄いものでデカい楽器ケースを自宅に持ち帰った。さすがに母親も仰天したが、経緯を話すと夜分に騒々しい事極まりない楽器練習を承知してくれた。
 そんなわけで、暫くの間毎日のようにデカい楽器ケースをヒイヒイ言いながら抱えて小学校と家を往復し、夕食後に好きなテレビ番組も我慢して休憩時間も惜しんで二、三時間は練習していたと思う。
 当時住んでいた自宅は住宅地の中にあり、当然隣家も近接していたが、近所には子供がピアノを練習する家もあったし、なによりも全般に寛容な住民に囲まれていたので、夜な夜なボンボンと響きわたる異様な”爆音”への苦情で私が怒られることは無かった。母が近所に上手に断りを入れてくれていたのかもしれない。

(「柏崎こども時代35「音楽班に入る(その5)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代36「音楽班に入る(その6)」」に続きます。)
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