新潟久紀ブログ版retrospective

病院局総務課14「H23.3.11東日本大震災(その2)」編

●H23.3.11東日本大震災(その2)

 後に東日本大震災と呼ばれることとなる大揺れが一応収まり、我が身の安全が確保できると、取り急ぎ自宅へ電話して家族の声だけは聞いて安心した上で、すぐに15の県立病院が倒壊などせずに無事であったかの確認に移った。現在の耐震基準を満たしていない建物がいくつかあったので大変心配であったが、幸いにも施設の大きな破損は認められないというのでホッと胸を撫でおろす。
 ほぼ連日のように大小の余震が続く不安な日々に加え、福島県の太平洋沿岸に連立した原発施設が、次々と派手に天井を空に飛ばす爆発の様をテレビ中継でリアルタイムで観た時には、日本全国が死の灰に覆われ、早晩放射線の影響で大多数の国民が死ぬか重い症状になるのだろうなと本気で覚悟したものだ。しかし、暫くするとその爆発が、高校生の頃に発生して報道されていたチェルノブイリとは異なる水蒸気爆発であると知り、直ちに死に至る影響が急速に広まるものでもないのだなと思うことになる。実際は史上最悪レベルのメルトダウンが起きていたと後に知るのだが、できるだけ安心寄りで情報を読み解きたいという心理が働いていたのだと思う、それにしても、時の政府が頻繁に繰出す「事象」「直ちに」というワードの反復が耳に残ったものだ。
 大津波で住む町は跡形もなく洗い流され、原発放射線という脅威が目に見えずしかし確実に広がっていたわけだから、福島県の人々の大避難が昼夜を問わず続いた。隣県である新潟は東蒲原地域がもともとは会津藩であったという経緯もあり、県境の国道で新潟県内へと向かう避難者の隊列による渋滞は大変なものとなった。
 福島からの避難者は老いも若きもということでそれまでの仕事を捨ててくる人も多かった。もっとも勤め先が津波で流されたりや原発被害で立ち入り禁止となれば当然のことだ。どう考えても避難生活が長くなることが明らかな状況を考えると、避難先の新潟で生活していくための仕事を探すということになるだろう。県の産業雇用の担当部署において政策的な支援策が講じられていたようであるが、私も、新潟を選んで来てくれた避難者の所得確保のために何かできないかと考えた。
 避難者の中には医療従事者もおられるだろう。県立病院における臨時職員採用を斡旋すれば支援になるのでは…というと聞こえが良いが、実は、この年は看護師の採用募集定員割れが生じており、欠員補充のための年度半ば採用に苦労していたところ。不謹慎かと思われるかもしれないが、避難者の中で看護資格を持つ方がおられたら、この機に県立病院に引き込みたかったのだ。ただ、避難される方にって新潟県内に15もある県立病院という安定した比較的大組織の職場があるということを知ることは安心材料になるに違いない。相互補完の関係を築けると確信していた。
 平成23年5月下旬。私は独り自家用車で磐越自動車に乗り入れた。向かうは福島県看護協会。東日本大震災で新潟県に避難したり津波などの被害で職場を失うなどして勤め先を探している看護師さん達に新潟県立病院を紹介していただくようお願いするためだ。福島市内の看護協会事務局につくと役員の方が出迎え話を聞いてくれて、ネットワークを使って新潟県立病院の情報を周知してくれるという。わざわざ遠いところを、しかも放射線を恐れて福島県に足を踏み入れたがらない向きが多い中を、よく来てくれたと言われたときは、実のところは我々の看護師欠員対策でもありまして…と恐縮しつつ頭を下げてお願いした。それでも看護協会の役員さんたちは「福島県からの避難看護師の勤め先確保につながるならば有り難い」と言ってくれたのだ。

(「病院局総務課14「H23.3.11東日本大震災(その2)」編」終わり。「病院局総務課15「H23.3.11東日本大震災(その3)」編」に続きます。)
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