新潟久紀ブログ版retrospective

柏崎こども時代7「昭和幼児の行きつけ」

●昭和幼児の行きつけ

 映画「スタンド・バイ・ミー」さながらの線路歩きで、九死に一生を得た(?)というか、幼児にして警察のお世話になったというか、幼稚園時代のエピソードがあったわけだが、そんな危ない所にいつも行っていたわけではなく、基本的には日頃の行動範囲は狭かったと思う。
 私が生まれ育った家の周辺は、同じ年頃の子供が居る一軒家が5軒ほどが、普通車も入ってこれないような細い砂利道が直径50mくらいに円を描くような周辺に点在していて、その円の中が畑や雑草地となっていた。車の出入りが基本的にない囲まれたエリアで、しかも真ん中に共有地のように誰も手を付けない小さい草原があったものだから、幼児が群れて遊ぶのには広くて安全この上ない環境だった。
 そこに誰かしら幼児が遊び始めれば、その声を聞きつけて自然に家々から子供たちが出て来て、缶蹴りやらビー玉遊びやらで賑わい、夕方に親などが声掛けにくると順次各々の家に引き上げていく。なにやら自然で牧歌的な幼児の放牧地のような雰囲気だったのだ。
 幼児時代にそんなサンクチュアリのような家の周辺から外に出るのは、嫌で嫌で仕方なかった幼稚園への登園で祖母に連れ出される時くらいだったのだ。
 祖母は少し変わった感じの人で、子供の機嫌をとるようなおしゃべりとか対応は一切なかったので、私にとっての地獄である幼稚園に黙々と連れていかれる往路は本当にどんよりと気持ちが沈む数十分だったのだが、迎えに来てもらっての帰り道は、明日の朝の事など考えずに幼稚園から離脱できることだけで足取りも軽快になったものだ。
 そんな浮かれた私の雰囲気など斟酌なしに祖母は往路と同様に黙々と私の手を引いて決まった道を歩き続けるだけだったのだが、何が切っ掛けなのか分からないけれども、帰りの途中で寄り道してくれることがあった。
 幼稚園から自宅までの帰路約1kmの丁度真ん中くらいに、確か「小島菓子店」という名称だったような、お菓子屋さんがあった。
 せんべいなど渇き系のお菓子が、昭和の当時だから当然、小分け包装ではなく、並んだガラスケースに入っていて、店員がシャベルのような形の銀色の道具で救い上げ、重さを計測して紙袋に入れて売る。いわば量り売りの菓子屋さんだった。
 祖母は自分のお茶請けとしての所望が第一だったのだろうが、注文する時は私にも好みを聞いてくれて、やはり甘いものが欲しかった私は、かりんとうとか小さくて砂糖で固められたなあんこ玉のようなものをおねだりしていたと思う。
 地元柏崎市の駅前の菓子舗「新野屋」が作る小魚の形をした「網代焼」というせんべいは、とにかく食べさせられたものだ。食べ応えやエビ粉による風味と日持ちも良いということで、「小島菓子店」での買い物の定番になっていた。とても美味しくて人に勧めても好評なのだが、私は子供時代に食べさせられ過ぎたので、今では食指が動かないのだ。
 両親が共働きで、昭和の半ばは仕事で忙しくして稼いでなんぼの時代だったので、家族旅行など皆無であり、滅多に家の周囲から出かけることのない幼稚園時代を振り返ると、ほんの柏崎市内で幼稚園の園外散歩などで近くの海岸公園あたりに連れ出されたことくらいしか印象に残るイベントがなかった。「海岸近くで国の役人が調査用のラジウムを入れたケースを紛失したので注意せよ」といった内容の看板が、幼心に何か恐ろしい感じがしていたことを思い出す。放射能という言葉をその時に聞き覚えた気がするのだが、事件の顛末はどうなったのか分からず仕舞い。柏崎が放射能に関してはそれどころではない事案を抱えることになるとは半世紀前の幼児が知る由もなかった。

(「柏崎こども時代7「昭和幼児の行きつけ」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代8「狭い家からの暮らし始め(その1)」」に続きます。)
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