●昭和の修学旅行は京都と奈良(その2)
~平安神宮、清水寺、ホテルタワーレステル、京都タワー~
交通利便が悪かった昭和54年とはいえ、柏崎市立第二中学校三年生の修学旅行は、二泊三日の初日の殆どが柏崎市から京都への移動で費やされてしまい、最初の視察先の平安神宮到着は夕方の16:00となっていた。
170人超の生徒達の移動はそのいちいちが大ごとであり、更に上野駅からは普通に駅の構内や電車で一般の人たちでごった返している中での行動だったので、狭いところ窮屈なところが苦手な私は人いきれにまいっていたし、更に、京都に降り立つと、いまだ晴れない天気のせいばかりでなく近畿の内陸ゆえなのか湿度の高さが、げんなり感に拍車をかけてきたように思い出す。
なので、春先の夕方で薄暗くなる前に見て回ろうとするタイトな日程の下、大勢の中に挟まれて足早に連れまわされた平安神宮は殆ど記憶に残っていない。古い建物を見に来たはずが、再建後のものだったため当然なのだが、太極殿などの真新しさを感じさせる朱色塗の柱と白壁、緑色の瓦の派手なコントラストを見ると、侘び寂びを期待していた私には少し拍子抜けだった。後から思えばメンテナンスに丁寧に手を掛けて保存され続けている証なのだけれど。
そんな中で一つ印象に残っているのが、広い池を渡る橋そのものに寝殿のように普請された構造物。当時感銘を受けたその建物は今調べると「泰平閣」らしい。そこを渡ったのか否かすら思い出せないのだが。
平安神宮は、大人になって思えば30分くらいで観て歩き去るにはもったいない歴史的建造物なのであるが昭和の修学旅行というのはとにかく容赦なく進軍する。次は”京都おのぼりさん”には絶対はずせない「清水寺」だ。
バスを止めた駐車場から坂道を登って見えてきた仁王門の朱塗りの新しさなどは平安神宮で免疫ができていたので詫び寂びの無さにがっかりせずに「三重塔」など拝みつつ例の「本堂の舞台」に至る。ここは渋い木造りが有難く感じられ、広さもそこから京都市内に向かう眺望も素晴らしく、まさに一つの大きな目的地として満足感が得られる場だった。朝の出掛けからうっとおしく感じていた雨も止んで日差しも指すくらいになっていたことも高揚感に寄与していたと思い返す。やっと修学旅行を楽しめるような気持ちになってきた。
傾斜地を活かした舞台を見たあと、脇の階段をずいぶん降りて下ると、事前に旅行案内資料で見て関心のあった「音羽の瀧」に到る。三筋に分かれて落ちる清水はそれぞれ「頭がよくなる」「金持ちになる」「長生きできる」とされ、どれか一つを選んで飲まないと効き目がないなどと言われていた。欲深い人達と共に私も並んで試す。混雑していたので複数の水を飲めたかどうか覚えていない。
後日調べてみると、飲水の効能は「学業」「恋愛」「延命」が正しいようだ。「恋愛」と「金持ち」が誤解されていたのが中学生らしかったというべきか。卒業アルバムに偶然私が清水に柄杓を伸ばしている写真が載っていて、少なくとも「学業」の水は飲んだようだ。高校進学が一大事だった私は”ウブ”だったのかしらん。
清水寺で、私の周囲の特に男子に注目されたのは、展示されていた鉄製15kgの「弁慶の下駄」。当時の我がバスケットボール部では、週刊誌マンガの影響で、鉛製板を手足に巻き付けたりシューズ底に忍ばせてその重さで筋力を強化しようということが流行っていたことも盛り上げの一因だったと思う。身体に悪い鉛を直にいじっていた事を今から思うと少し寒気がする。
清水寺の周辺の坂に立ち並ぶ土産物や飲食の売店、そこに群がる一般観光客や他校の修学旅行生などの大勢にもまれ、普段の田舎暮らしでは味わわない人波に酔ってふらふらていると、視察二か所でしかなかったが早くも初日の予定は終わり、宿舎へとバスで向かうことに。
京都タワーの建つビルに併設されたホテル「ホテルタワーレステル」は、まずは見た目の古さに我々の大勢をがっかりさせたようだった。更に部屋も二段ベッドで4人相部屋ということで、ホテルというより合宿施設の様相。今朝がた発ってきた日本海沿岸に開けた柏崎市と異なり関西地方の内陸の春は湿度が高いためか、ホテル内のムシムシ感が気になるという声が方々から聞かれたものだ。家族旅行などの経験が乏しく旅慣れない私は、変に期待も先入観もなくこんなものだろう別に気にもならなかったのだが。
夕食になると更に合宿施設感が強まる。ホテルそのものに食堂がなく、隣接する京都タワービルに移動して、そこの大宴会場において頂くということだったのだ。その移動過程も細い廊下を少ない乗員数のエレベータを随分待ったあげくに経由してということであったので、生徒達には不評だった。それでも、仲間でワイワイやりながらだったので不便も苦労も面白がってという雰囲気であり楽しかったのだと思う。
夕食は、テーブル席で洋食スタイルということだったので、ナイフとフォークに不慣れな田舎暮らしの我々においては苦戦した者も多かった。私も自宅で洋食器など使った覚えがない。会社経営者の息女である女子が上手に扱う姿など見ると生活水準の格差を感じたものだ。
更に気になったのは、やはりコメが美味くないのだ。県外に出て初めて分かる新潟での食べ物の美味しさ。多くの級友達が実感していたようだった。
恨み節めいた話が続いたが、食後に視察した「京都タワー展望台」は素晴らしかった。
高さ100mの眺望は、以前一度だけ東京タワー展望台150mと250mよりは低いのだけれど、山に囲まれた中に古い建物が散在しながら集約している都会の雰囲気がとても雅な感じで魅力的に感じられた。夜景だったということも大きい。本来は二日目夜の日程だったのたが、翌日は雨の予報ということで急遽天気の良いうちにと教諭側で組み換えてくれたのだ。粋な計らいを有難く思うとともに、修学旅行は大勢を臨機応変に行動させる必要もあって先生方も大変だと他人事のように思っていたものだ。
(「柏崎中学生時代18「昭和の修学旅行は京都と奈良(その2)」」終わり。「柏崎中学生時代19「昭和の修学旅行は京都と奈良(その3)」」に続きます。)
☆「活かすぜ羽越本線100年」をスピンオフ(?)で連載始めました。
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☆新潟久紀ブログ版で連載やってます。
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↓柏崎市立第二中学校修学旅行以来40年ぶりに京都を訪れました。





