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最良の高橋源一郎体験へ

2007-03-12 23:02:24 | 濫読、併読、斜め読み
いつも何冊かの本を並行して読む習慣があるのに、昨日、今日と珍しく一冊だけを集中して読んでいる。それは『ニッポンの小説 百年の孤独』という本である。作者は高橋源一郎。私は彼の小説を読むのが好きである(『優雅で感傷的な日本野球』は今でもとても気に入っている小説だ)。彼の評論を読むのもとても好きである(『ジェイムズ・ジョイスを読んだ猫』は何度も読み返した作品である)。彼がときどき新聞などに書く政治的な発言にはしばしば非常な違和感を覚えるけれども、しかしそれは彼の小説や評論の価値とは無関係だ。

『ニッポンの小説 百年の孤独』は、「タカハシゲンイチロウ氏がニューヨークのコロンビア大学で文学を(日本文学を?)学ぶ学生に向かって行った講義の記録」という形式で書かれた小説である。または小説論である。あるいは本当にこのような講義がコロンビア大学で行われたのかもしれない。あるいはそのいずれでもないかもしれない。ひとつだけ言えるのは、この作品がそれらのいずれであったとしても、またそれら以外であったとしても、どうでもいいということである。

日本の小説について、もしくは小説そのものについて、これほど突き詰めて論じられた本を読むのは初めてかもしれない。「根源的な問い」について書かれた文章を読むのはとても疲れるけれども刺戟的な作業である。この作品を読むことによって自分のなかの一部(もしかすると全部)が確実に変化するであろうと想像しながら読み進めていくのは不安ではあるけれども楽しいことだ。『ニッポンの小説 百年の孤独』が私の高橋源一郎体験のなかでも最良のものとなることは間違いなさそうだ。

だが、この作品が私にもたらす変化は、ひょっとすると想像以上に大きいかもしれないとも思う。もしかするとこの本を読んだ後ではこの本の感想など書くことができなくなるのではないか。いやそれどころか、文章自体を書くことができなくなってしまうのではないかと半ば本気で恐れている。それが、最後まで読んでから感想を書かずに、半分ほどしか読んでいない今これを書いている理由でもあるのだ。


ニッポンの小説―百年の孤独

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ジェイムズ・ジョイスを読んだ猫

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1 コメント

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野球とバレーボールに区別はあるね! (市村梢子)
2007-03-14 05:13:17
投げるという行動は水平の角度は敏感である。

バレーボールの投げるというのは上から受ける。角度も違う。

孤独というのは、世界観は狭くて、内向的だが、外の環境は遠く離れて落ち着いていける。しかし、近くになれば爆発的になることもある。人間や歴史などはスポーツ論に関わって来たなとこの頃分かったんだ。音楽も似ている。

クラシックは好きではないが、河の激しい流れのようなクラシックは好きだ。甲子園の発想かしら?返って、生まれ変わったんだ。
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