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ブログ版ネクストテクストです。

靖国問題を考えてみた(2)

2007-09-21 16:02:08 | いつも雑念ばかり
なははは。なんと(1)を書いてからすでに2年以上が経過。この間、バランスをとるために(『靖国問題』に書かれている主張とバランスをとるために)、『いわゆるA級戦犯―ゴー宣SPECIAL』とか、『パール判事の日本無罪論』を読んだりして、自分の考えをまとめようとしているのだが、まだ全然まとまっていない。ダメだこりゃ。

と、そんな折におなじみ「溜池通信」経由で知って手にしたのが『日中戦争下の日本』という本。これ自体は日中戦争突入から終戦に至るまでの、とくに1930年代の日本の政治と社会を、豊富な資料をもとに解き明かそうという作品であり、直接靖国問題を取り扱っているわけではない。しかしこの本を読むことによって、靖国問題に関してある種の人々が発するメッセージに対して強烈な違和感や反発を私が感じるのはなぜか、という謎が少し解けた気がした。

が、そのことについて書く前に、まずはこの作品の内容を簡単に紹介しておこう。

この作品が明かすのは、「嫌がる一般国民を無理やり日中戦争、太平洋戦争に引きずり込んだ軍部や政府」という我々が漠然と想像する図式が、完全に誤っているということである。地方の農民や都市の労働者は、自らの社会的地位の向上を目指す上でこの戦争を利用しようとしたし、戦争を積極的に支持してさえいた。農民も労働者も「戦争に賭けていた」。また大政翼賛会は日本におけるファシズム台頭の産物ではなく、デモクラシー発展の結果であった。

著者は、格差社会という言葉が叫ばれ始めた現在の日本の状況が、この1930年代と非常に似通っていると感じていて、30年代の「社会システムの不調」から我々が学べることはとても多いと言う。その意味でも、史実を丁寧に紐解いて当時の日本社会を再現してくれたこの作品は、大変貴重であり、まさにいま読む価値のある本だと思う。

さて。靖国問題に話を戻そうと思うが、その前にもうひとつ。以下の議論では、「戦犯」とされて刑に服した人々が本当に戦争犯罪人であったか、そもそも日本人の戦争責任について裁いた東京裁判等の軍事裁判が正当なものであったか、といった点についてはさしあたり横に置いている。これについてはまた別の機会に書こうと思う。

ここからようやく本論である。

靖国問題に関するさまざまなメッセージのなかに「A級(やB・C級)戦犯を合祀しているような神社に首相が公式参拝するのはけしからん」というものがある。このメッセージを(外国人ではなく)日本人が発するのを聞いたとき、私はなんともいえぬ嫌な、もの悲しい、居心地の悪い、気分になる。それは、この類のメッセージを発する人に「自分は戦犯とは完全に無関係の存在である」という意識が見え隠れするからだ。果たして本当に無関係なのか。先の戦争を将兵として、または銃後として実際に体験した人にせよ、あるいは、今や国民の大多数を占める(私のような)戦後生まれの人にせよ、日本人である限りは、戦犯とみなされた一部の軍人や政治家たちと、完全に無関係でいることはできないと思うのだ。

靖国神社に参拝するかどうかは、各個人が自由に選択する問題である。靖国神社参拝に賛成するのも反対するのも、個人の自由である。だがしかし、日本人が、あの戦争に対する責任を一握りのいわゆる戦犯に押し付けて、外野から批評をすることはできないのではないか。『日中戦争下の日本』が指摘するように、日本が15年に及ぶ戦争に突入するとき、多くの日本人はさまざまな理由で戦争を支持していたのである。そして、あの戦争を経て現代に至っても、日本国民の意識は1930年代から根本的に変ったわけではないようだ(あるいは一周ぐるりと回ってまた元に戻っているのかもしれない)。

日中戦争と太平洋戦争の責任については、今を生きている日本人にとっても決して他人事ではない。まぎれもない自分自身の問題として真剣に考えなければならないのだ。


日中戦争下の日本 (講談社選書メチエ)
井上 寿一
講談社

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靖国問題 (ちくま新書)
高橋 哲哉
筑摩書房

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いわゆるA級戦犯―ゴー宣SPECIAL
小林 よしのり
幻冬舎

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パール判事の日本無罪論 (小学館文庫)
田中 正明
小学館

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