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「北極星に願いをこめて」 (右脳のひらめき)

I'm your polar star in the journey of life.

メンタルを鍛えば、本当に苦痛がなくなるのか

2012年12月08日 22時04分31秒 | 精神哲学 ~魂の筋力をつける朋塾~

こんばんは。

メンタルを鍛えたいと人はよく言います。けれど、自分の中で思うのですが、メンタルを鍛えるというよりは、単に場慣れして、感覚が鈍磨になるだけになるのだと思うのです。

わたしは、若い頃、基礎医学で研究をしていて、初めの頃は、生体解剖に対して、凄く拒否感がありましたし、生き物を殺すことに対して抵抗感がありました。その時は、心臓を選ぶか、眼か、それとも、脳かと言われていて、脳には興味があったんですが、実は凄くそこの研究室は「怠惰である」という評判があったんですね。

一日中、脳のスライスを見るんだよと言われて、なんだ、つまんないなって思ったんです。

それで、心臓を選んだのですが、初めの頃は、心臓を取ってくるどころか、生体を殺さずに、生きている状態から心臓を取ってくるのに抵抗感がありまして、よく、指導の先生に、「ためらわずに行け」とか、「そこでぐずぐずするな」と怒られたんですね。そして、一体は、いくらの費用がかかるという話を聞いて、そのお金分は、元を取りたいわけですから、次第に、感覚が麻痺したんですね。

麻痺しすぎまして、一番いい状態で、心臓の細胞を取ってくるには、どの程度の麻酔が効いた生体であればいいのかをわきまえたわたしは、ひどく行っていることが残酷だったと、隣の研究室の先生より、苦情が入りました。わたしとしては、一番研究成果が出やすい状態がいいので、死んでなくて、生きていて、およそちょっと動きが鈍い状態で取ってくると、心臓の細胞は、ほぼ生きている状態のノーマルな状態と一緒になるんですね。

ところが、取ってくる部屋は、隣の研究室にしかないので、そこで、さっと取ってきて、死体は実験が落ち着いてから片付けるわけで、クレームが入ったんですよ。まぁ、新鮮な細胞が欲しいので、一刻を争うのですね。だから、死体を片付けて・・・の、なにしてのと言うわけじゃないんです。

その上、新鮮さに目をつけたわたしは、極力、新鮮さを目指して、どんどん残酷になるわけですよ。初めの頃の、おっかなびっくりではないんですね。もう、躊躇わずに、胸骨を切る。胸骨にはさみを入れすぎて、心臓そのものをだめにしたケースもありましたが、そもそも、生体の数をものすごく多い症例としてこなさなければならないので、そんなことはまぁ、誤差の範疇で、それ以上に、新鮮さを求めて、ほぼ、「泣きわめている状態で、はさみを入れたんですよ。」

それで、なきわめく生体に、ずさっとはさみを入れている、「鈍磨したわたし」に、隣の研究室の医師は、クレームをつけたんです。

ノイローゼになりそうだと。

しかし、ある程度は、仕方ありませんし、そもそも、その医師は、わたしの摂取した細胞を時々使うので、これまた、クレームのつけようがないだろうと言う話をしたんですが、その頃からですかね。オペ室というのがありまして、そこがわたしに解禁になったんです。わたしの指導の先生は、わたしに試しに、犬もやらせてみようと思ったらしいのですが、実は、わたしは、寄生虫に関して、「目に見えないもの」に関しては、ひどく鈍磨だったために、フィラリアが多数いるはずである犬は、任せられなかったんですね。

わたしは、基本、なんでも素手で行いましたし、一般教養課程では、化学の実験も「ゴーグルを使え」と言われてもゴーグルを使いませんでしたし、多少の濃硝酸と濃硫酸位なら、素手でしたし。なので、実験に関しては、ひどくずさんな体質だったんです。放射能物質を扱う時は、これまた、「放射能は目に見えない」ですからね。父からいくら言われていても、「どれどれ、なんだみてやろう」って気持ちが強すぎて、覗き込んで、一瞬にして、軽量バッチが黒くなってしまい、これも、元来のずさんさから、この研究は危なくて任せられないとして、外されてしまいました。

まぁ、そんなんで、わたしは、初めの頃のおどおどした感覚から、次第に慣れでずさんになっていったんですね。

 

これが、人間関係で何が言えるかというと、これが、メンタル面で上手に慣れて行くのではないかと思う人がいます。

 

残念ながら、相変わらず、わたしは、なんというか、メンヘラさんや統合失調症さんの扱いには、慣れることはないです。基本的に、精神医学については勉強をしましたが、だからと言って、慣れることはないです。昔もそうですが、わたし、こういう支離滅裂な人に関しては、地味に自分のメンタルにきます。無論ですが、昔も、その場を何とかやりくりして、脱兎さんで逃げると言うことをしていましたが、今もそうですね。支離滅裂な、自暴自棄なメンヘラさんに対しては、慣れるということはないです。

ただ、一般の人よりは、確かに対応はある程度できますが、完全にスルーってことが中々できないので、結構自分の中に残ったりします。

 

それだけ、精神を病んでいる人の影響は、計り知れないのですわ。ですが、精神を病まない人はいないと思うんです。精神を病むと大体好きな曲ってのが出てきます。「翼をください」とか、「エヴァンゲリオン」とか、「東のエデン」とか、いわゆる、自分の力で何かを成し遂げようと思うものではなく、誰かや何かに与えられた力で、乗り切りたいと思う人が好むものって、割と規則化しています。

なので、好きな曲や、着メロや、待ち曲が、こういう曲だった時や、メールアドレスが、なんというか、自暴自棄ワードとか、マリアとか、セイント系統とかそういうものが組み込まれた人は、お茶らけている人を除いて、極めて、メンタルが弱いんだと思います。

 

メンタルが強い人というか、自分の力で何もかもを得ようと思う人は少なくとも、聴く音楽や好きなものの対象が違います。

だから、そういうところで、ぽろぽろと断片が見えるのですが、その後の対応に関して、メンタルを病んだ人の人を巻き添えにしようと思う気持ちにはよく、シンクロしてしまい、辛い思いはいまだにしています。

 

ところで、電車に人が飛び込むじゃないですか。

わたし、若い頃の経験が生きていて、それと自分の病気で修羅場を踏んでいるので、生き死には強いほうなんですよ。つまり、飛び込んだ人や、飛び降りた人に関しては、別段、何か特別な感情が働くことはないんです。あぁ、飛び込んだのか。なんだ、死ぬなら他に方法があるのに、どうして飛び込むんだろう。・・・・・・自分を追い詰めた社会に、一矢報いてやろうと言う精神なんだろうか・・・・それで終わっちゃうんですね。なので、ひどく鈍磨なんですよ。

死んでさまよっている人がいても、なんだ、死んでることにも気づかないのか。そんな感じなんですよね。

なので、初めの頃は、うわー幽霊がいる、うわー、きもちわるぅと思っていた自分ですが、なんか最近は、

「死んでまで、どこかの他人にすがり付いて、しょうがねえ野郎だな。一生しがみつきたきゃ、何十年でもやってろ。」とは思います。ですが反対に、「すがりついてんのが、苦しかったら、別に苦しいって言ってもいいんだぞ。苦しいんだったら、苦しくない道もあるんだぞ。苦しくない道を選びたくなったら、まぁ、うちに来いよな。」って感じで、結局そんな言葉を四六時中かけているので、夢見でうなされる時もあります。

メンタルを鍛えるって言う前に、わたしはそもそも、死んでも生きてても、同じなのではないかと思うので、特別な感じがしないんですわ。

しかし、職場にたった一人しかいない極めて悪質なサイコパスがいれば、そりゃ、誰だって、免疫がつくことはないでしょうし、振り回されることが多いです。ですけれど、サイコパスが多い職場で、サイコパスがお客さんだったりすると、なんというか、感覚鈍磨が身につきます。

これを、メンタルを鍛えるって言うのとはちょっと違うと思います。

 

メンタルを鍛えるっていうのは、物事の捉え方や、不満になる総量は決まっているので、その総量をなるたけ、比重が自分にとって重くないもので、加算して行くという、視点を変えたり、発想を変えたり、質を変えることで、自分に折り合いをつけることだと思っています。

 

だから、闇雲に、メンタルが弱い人が、更に上級の病んでいる人の中に入っていくと、逆に、感化されてろくでもない状態になるとは思います。よく、精神病院の中で、同じく入院している患者なのに、やけに態度がでかくて、みんなのカウンセラーを自発的に担っている人とかいますけれど、わたし的には、それは、あまりいい傾向ではないと思います。

まず、自分がそもそも、入院している患者である自覚は持った方がいいです。

自分の地雷ではない分野で、偉そうに説教している癖に、地雷分野に踏み込まれた途端、カーテンの仕切りを締め切って、閉じこもる人がいるんですよ。それは、メンタルのどうこうの前に、自分を治してから言うべきだと思うんです。

そういう点で、少し前まで、実はスピリチュアルの分野には、凄く多くの、精神病患者が、カウンセラーとして、時には、霊能者として、時には、占い師として、時にはスピリチュアリストとして在籍していて、結局そのかたがたは、メンタルが弱すぎて、その仕事をやめていきました。無理もないことです。元々、メンタルが弱いので、営業活動が、あまりに、あくどい人に対しては、なすすべがないんです。だから、そういう人に、お金を吸い込まれたり、邪魔されたり、山師のような感覚で、これを習えば、自分は上に上がれるかもと思って、経済的破綻をきたした人は多かったです。

基本的にそういう人の霊能力などは、恐らく、素のままでは競争社会の弱者わけですが、そういう何か特別なものがあれば、競争社会の強者として、返り咲けるかもしれないという、山師的な発想があるんですね。結局、学歴的にも、社会背景的にも、努力をしないので、弱者なんですよ。

その弱者が、努力もしないで、上に上がれるかも?っておもうために使うトリックが、これだったんですよね。結局、輪になろうとか、何だとか言いながら、競争社会において、一発逆転を狙っていたわけです。面白いですね。人類は愛だとか、なんだとか言いながら、結局は、そういう人でも、社会的名誉や、地位や、お金が欲しいんですよ。

 

まぁ、そんなわけで、メンタルを鍛えると言うことはそもそも、不満に思う今の気持ちを圧縮してしまう機能ではないです。

 

サイコパスに悩んでいたら、沢山のサイコパスに出会えばいいのかと思ったら、それは違います。なので、人は変わらないので、自分の不満の総量は決まっているので、その中で、なるたけ比重の軽い質のものと置き換えてみたり、自分の中に折り合いをつける、いわば、割り切りを持たせることが、一番メンタルを鍛えることにはなります。

ですが、これに関しては、多少、勉強する必要があるので、痛いお勉強代は、実生活で払うのは仕方ありませんし、文献として読み漁るのは、いいことだとは思いますよ。自分に理解させるのではなく、「納得させること」が、一番大事ですからね。

 

 

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