ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

喰わず嫌い  『兎鍋』編

2015-07-30 19:39:58 | あの頃
 小学2年の秋のことなので、その記憶はまさに斑である。
強烈にそして鮮やかに蘇ってくる部分と、
濃霧に包まれ輪郭さえ曖昧な部分とが同居している。

 その日は、いつもの朝と少し違っていた。
父と二人の兄は、母が私を起こす頃には
いつも通り、すでに仕事に出かけていた。
 姉は中学生で、母と私の3人で朝の食卓に座った。

 いつも物静かな母だが、今朝に限って、
どことなく活気づいていた。
「何かいいことでもあったの。」
思い切って訊いてみたくなったが、
どうせ「いいから、早く食べなさい。」
と、たしなめられるのが落ちなので、やめておいた。

 「白菜のほかに、ゴボウ、大根、人参だね。」
「そうそう、おとうふとコンニャクも入れようよ。」
母と姉は、いつもより歯切れよかった。
 料理のことのようで、
一人蚊帳の外と言った感じで、気分は良くなかった。

 母の「いってらっしゃい。」の弾んだ声に送られ、玄関を出た。
学校へのお決まりの道を少し行くと、オート三輪車とすれ違った。
 朝のこんな時間に車とすれ違うなんて、珍しいことなので、
立ち止まって、その三輪トラックの後ろを目で追った。
 すると、我が家の前で止まった。
運転していた人が、玄関に向かっていった。
 不思議に思ったが、家まで戻る気にはなれず、学校へ向かった。

 その日の夕食のことは、鮮明に覚えている。
 家族6人で卓袱台を囲んだ。
真ん中に鍋敷きがあった。そこに、両手鍋が置かれた。

 「さあ、今夜はご馳走だよ。」
と言いながら、母が鍋の蓋を持ち上げた。
 ゆげが上がり、いい匂いがみんなを包んだ。
二人の兄が声をそろえて、「うわっ、うまそう。」と。
 母が手際よく、父から順にご飯を配った。
そして、姉が鍋から具材を小鉢に取り分け、一人一人の前に置いた。

 父の声かけで挨拶をすると、一斉に食べ始めた。
小鉢には、今朝二人の明るい会話にあった
野菜類やとうふ、コンニャクがあった。
そして、2つ3つの肉のブツ切りも入っていた。
 私は、このことだったのかと納得しながら、小鉢に箸をつけた。

 野菜もとうふ類もさることながら、
珍しく大きめに切られた肉が、たまらなく美味しかった。

 「この鍋、美味しいね。」
「よく出汁が出ている。」
「なんぼでも食べなさい。まだ肉も野菜もあるからね。」
「まだまだ食べられるよ。」
夕食の会話は、いつになく弾んでいた。
 そして、おかわりがくり返された。

 確か、醤油味だったと思う。
柔らかな肉ととうふ、野菜類を交互に食べながら、ご飯が進んだ。
 私は、上機嫌だった。思わず、
「この肉、美味しいね。こんな美味しいの初めて。これ、なんの肉。」
と、訊いた。
 すかさず、母が、
「いいから。早く食べないと、みんなに食べられてしまうよ。」と。
 私は、母にそう言われ、年上の兄姉に負けじと、
夢中になって食べ続けた。

 当時、肉は貴重で高価なものだった。
裕福ではなかった我が家では、
時々、カレーライスには肉の代わりに、
当時は安価だったホッキ貝が使われ、
私はたまらなく落胆した記憶がある。

 だから、その日の夕食は、いわば『最高のご馳走』だった。
いっぱいお肉を食べた。満腹感で幸せな夜だった。


 そして、翌朝のことだった。

 当時、我が家には5わのウサギがいた。
 南向きの出窓の下に、兄たちによるお手製のウサギ小屋があり、
中は5つに仕切られていた。
 5わのうち、2わはアンゴラウサギで、
春先には伸びた毛を切り、
多少なりとも家計の足しになっていたようである。

 残りの3わは、真白で赤い目をしていた。
「ミミ」、「トミ」、「エミ」と呼んでいた。

 2年生になってから、朝の餌やりと水の取り替えを、
兄たちから言いつかった。
 ラビットフード等のない時代だった。
兄や姉が、原っぱや小学校の裏山から
かりとってきたオオバコなどの野草を餌にしていた。

 その朝も、いつもと変わらず5わの餌になる草を
物置から手提げカゴに移し、出窓の下の小屋に行った。
 2わのアンゴラウサギが跳びはねながら、
金網で作られた入口の扉まで近づいてきた。

 いつもの朝と変わりなく、
元気よく鼻先をヒクヒクと動かしていた。
それぞれの小屋に、両手で二かかえ程の枯れ草を入れてやった。
すぐにカサカサと音をたてて食べ始めた。

 続いて、「ミミ」の小屋をのぞいた。
ところが、そこに「ミミ」の姿がなかった。

 毎朝、小屋をのぞいても、「ミミ」だけは入口の扉まで来なかった。
小屋の奥の方で、愛らしい赤い瞳でじっと私を見ていた。
 「ミミ、餌だよ。」といいながら、枯れ草を入れ、扉を閉める。
すると、それを確かめるかのようにゆっくりと餌に近づき、食べ始めた。
 それでも、私が見ていると遠慮がちで、その仕草がひときわ可愛かった。

 その「ミミ」がいない。

 不思議な思いで、「トミ」と「エミ」の小屋をのぞいた。
もの音一つなく静まりかえっていた。

 私はハッとした。
 数日前だった。
小屋の前で、兄とその友達らがウサギ肉の美味しさを言い合っていた。

「もしかして。」と思うだけで、息が詰まりそうだった。
信じたくなかった。
 ゆっくりと家に戻り、台所にいた母の後ろ姿に訊いた。

 「昨日の肉、うさぎなの。」
ドキドキしていた。
「そうよ。美味しくて、よかったね。」
母は、炊事の手を止めなかった。

 勇気を出した。「エイ。」とばかり尋ねた。
「ミミもトミもエミもいないんだけど。」
「そうだね。」

「昨日のは、ミミ? トミ? エミ?」
「ミミだって、言ってたよ。」
「三輪トラックのおじさんが?」
「そうよ。」
母は、一度も振り向いてくれなかった。

 私は、もう一度外に出た。
風が冷たかった。
 後悔と言う言葉を知っていたら、それだっただろう。
 小2のあの時、私がどんな気持ちだったのか、
正確に思い出すことも、推測することもできない。
 しかし、無情さが私をうつむかせていた。

 「みんなして、美味しいね、美味しいねって食べたんだから、
それでいいんだよ。」
 姉が、私の背中をポンと叩いて、中学へ行った。

 それから3ヶ月後、冬の真っただ中。
「ようやく仕上がってきたよ。」
と、母が風呂敷包みを開いた。

 「あんたが好きだったミミの毛皮で作ったチョッキだよ。」
「セーターの下に、これを着れば暖かいから。」
 母は、私を後ろ向きにすると、
そのチョッキに袖を通させた。
 ミミの毛皮が背中に、フワッとしていた。

 私は、母に顔を見られないようにしながら、
突然の出来事に、何度も何度も大きくため息した。
 なぜか涙が出そうになった。
ミミの肉の味を思い出した。

 だが、その冬も次の冬も、その次の冬も、
ミミを背中にして、毎日を過ごした。
一度も風邪をひかなかった。

 兄たちは、また小さなウサギを飼い始めた。
私は、しばらく小屋には近づかなかった。

 そして、小学生の間、鶏肉が出ても、
私は、「うさぎじゃないよね。」と、
くり返し訊き、ようやく箸を伸ばした。




 有珠善光寺の紫陽花が満開

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