もう名刺など要らないのに、
パソコンで簡単に作成できたからと、
持ち歩いている。
しかし、さほど使う機会はない。
その名刺にある私の肩書きは、元小学校長でも、
某研究会顧問でもなく、『素浪人』とした。
本当は、『竹光さえ持てぬ情けない素浪人』としたかったが、
長過ぎたので、自ら却下した。
さて、その『素浪人』の暮らしぶりだが、
2年前に右肘の手術をし、以来、好きなゴルフができず、
そのうっぷんもあって、
ジョギングとマラソン大会参加を楽しみに、日々を送っている。
しかし、それだけでは飽き足らず、
その上、これ以上老け込まないうちにと言った思いもあって、
やれドライブだ、読書だ、創作だ、四季折々の散策だ、
温泉だ、美食だ、山登りだ等々と、
次から次と楽しみを作り、今をおう歌している。
さらには、いつか再び、お役に立てる機会があれば、
何かの力にと、思ったりもしている。
そんな私だが、周辺にあるつい見逃してしまいそうな、
ちょっとした出来事に、立ち止まってしまうことがある。
心が揺り動かされたいくつかを、
手当たり次第、列記してみる。
<1>
若い頃から朝日新聞を愛読している。
その理由の1つが、『天声人語』である。
毎朝、それに目を通すのが習慣だ。
その鋭い視点に、深く教えられることは、今も変わらないが、
それに加え、最近、同じ一面にある『折々のことば』にも、
よく目が止まる。
鷲田清一さんの哲学的な思考が、
私には、とても新鮮なものに感じられる。
3月下旬、そのコラムにこんな一文があった。
『教育においてもっとも大切なことは、すべて
を意識化してはならぬということ、またそん
なことはできぬと諦めること
福田恆存
教育は「信頼が支配する領域」。見張る
かのように警戒や不信の目で子どもを見る
人は、子どものみならず、子どもに対する
自分の態度をも信じていない。つまり、人
のあいだで最初に立ち上がり最後まで残る
「自然発生的なもの」を信じていない。教
育は計算してどうこうなるものではないと
評論家は言う。「教育・その本質」から。』
これは、子どもに限ったことではないと思った。
人として成長する本質と言えるのではなかろうか。
『信頼が支配する領域』
『警戒や不信の目で見る人は…自分の態度をも信じていない。』
『計算してどうこうなるものではない。』
同感と感動である。
人を育てることの真理を見事に言い当てていると思う。
心が熱くなった。
時々、若い先生をはじめとした声に、
表立ってはいないものの、
パワハラかと思える言動を見る。
そんな管理職の机上に、
この新聞の切り抜きを置いておきたいものだ。
<2>
プロ野球の人気選手だった人が、
覚せい剤の所持と使用で逮捕された。
野球選手を夢見て、練習に励む子ども達を思うと、
残念でならない。
その覚せい剤について、こんな新聞記事があった。
『覚せい剤の成分メタンフェタミンは1893年、
薬学者の長井永義が合成に成功した。
第2次世界大戦中、日本はメタンフェタミンを、
欧州では別の覚せい剤成分アンフェタミンを兵士に与え、
士気高揚や恐怖心克服、疲労回復などを図った。』
改めて、戦争の残酷さや悲惨さ、非人間性を知った思いがした。
今では、使用そのものが犯罪とされる薬物が、
正々堂々と兵士に与えられていた事実。
そのねらいは、士気の高揚。
つまりは、戦闘、殺りくのやる気を高めるため、
そして、人の命のやり取りや破壊への恐怖心を、
克服するために使われたのである。
新聞記事にはこんな記述もあった。
『使った瞬間、脳がクリアになり
何でもできるという万能感に支配される』。
きっと、兵士たちはそんなニセの高揚感を持たされ、
戦場に立たされたのだろう。
こんな犯罪が他にあるだろうか。
強い憤り、そのやり場がないままでいる。
<3>
2月のニュースだ。
JR登別駅で、乗客の荷物を無料で運ぶ、
ポーターサービスの実証実験が、始まったとあった。
これは、外国人旅行者から、
大きな荷物を持って、改札口と駅ホームを結ぶ階段の昇降が、
大変だという声を受けてのことらしい。
確かに、エレベーターを設置すれば、それで済むことだが、
今のJR北海道にはその力がないように思う。
そこで、旧国鉄時代、上野駅や青函連絡船で活躍していた、
赤帽さんにヒントを得たのか、
荷物運びの助っ人、つまりはポーターサービスとなったのだろう。
新聞記事によると、実証実験初日は、
『市職員と委託業者の6人が10本の特急に合わせて実施。
うち5人は普段は公共施設の除雪などをしている60~80代だ』とのこと。
それを利用した『中国から夫婦で訪れた30代女性は
「中国ではないサービスで優しいですね。
でも、ポーターがお年寄りで頼むのが恥ずかしい」
と話した』そうである。
外国人旅行者は、旅行したその時、その国で出会った人や物、
気候、風景を通して日本を知り、
それが日本のイメージとなるのである。
それは、私たちが海外にいった場合も同じである。
さて、60~80代のポーターを見て、
外国人は、日本の労働環境をどう受け止めただろうか。
高齢になっても、元気に働く人たちがいる国と思っただろうか。
いや、『頼むのが恥ずかしい。』の声は、
決してそんな風には見えていないように思う。。
そうだ。誰に対しても
「あるがまま」、「ありのまま」でいいんだ。
でも、それにしても、ポーターの年令について、
心にすき間風が・・・。それは、私だけ。
<4>
温泉大好き人間ではないが、
近くに気軽に入れる温泉があるのは嬉しい。
今は、月に1、2回、右手のリハビリを理由に、
日帰り温泉へ行く。
さて、最近テレビでは旅番組が頻繁である。
中でも、地元北海道のよさを取り上げたものに、
目が行ってしまう。
それを見て、「今度、是非に」などと、
一人刺激を受けたりもしている。
もう2、3年前になるだろうか。
道南・函館方面を紹介するものがあった。
いわゆる旅人が、
さほど名の通ったところでない小さな港町や、
農漁村を訪ね歩くものだった。
私も一度だけ行ったことがあるが、
函館から恵山にむかう道からの海岸風景が、
海と空の青さが一つになり、ひときわ綺麗に映し出されていた。
番組では、旅人がふと立ち寄った港町の、
しかも、その町の人だけの共同温泉浴場を紹介した。
海岸べりにあって、7、8人がやっとの
海に向かって、半分露天のような浴場だった。
旅人が尋ねると、地元の年寄りは、
「お風呂は1つだけだ。」と言う。
「すると、混浴ですか。」
「そうだよ。1つだもの。」
「それじゃ、みなさんご一緒に。」
「そうさ。」
ビックリ顔の旅人に、
「何もだ。だって、小さい頃から一緒だもの。」
表情一つ変えずに言った。
「そうですか。そうですか。」
旅人は、そう応じるのが精一杯。
私も、旅人と同じ心境だった。
そんな大らかさは、私のどこにもないと思った。
あの真っ青な大海原のもとでの暮らし、
だからこそ育つ感情なのだろう。
そう理解することに決めた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/26/b06da4c61109e88883fb2bd633b42efa.jpg)
水芭蕉が咲いた(だて歴史の杜公園・野草園)
パソコンで簡単に作成できたからと、
持ち歩いている。
しかし、さほど使う機会はない。
その名刺にある私の肩書きは、元小学校長でも、
某研究会顧問でもなく、『素浪人』とした。
本当は、『竹光さえ持てぬ情けない素浪人』としたかったが、
長過ぎたので、自ら却下した。
さて、その『素浪人』の暮らしぶりだが、
2年前に右肘の手術をし、以来、好きなゴルフができず、
そのうっぷんもあって、
ジョギングとマラソン大会参加を楽しみに、日々を送っている。
しかし、それだけでは飽き足らず、
その上、これ以上老け込まないうちにと言った思いもあって、
やれドライブだ、読書だ、創作だ、四季折々の散策だ、
温泉だ、美食だ、山登りだ等々と、
次から次と楽しみを作り、今をおう歌している。
さらには、いつか再び、お役に立てる機会があれば、
何かの力にと、思ったりもしている。
そんな私だが、周辺にあるつい見逃してしまいそうな、
ちょっとした出来事に、立ち止まってしまうことがある。
心が揺り動かされたいくつかを、
手当たり次第、列記してみる。
<1>
若い頃から朝日新聞を愛読している。
その理由の1つが、『天声人語』である。
毎朝、それに目を通すのが習慣だ。
その鋭い視点に、深く教えられることは、今も変わらないが、
それに加え、最近、同じ一面にある『折々のことば』にも、
よく目が止まる。
鷲田清一さんの哲学的な思考が、
私には、とても新鮮なものに感じられる。
3月下旬、そのコラムにこんな一文があった。
『教育においてもっとも大切なことは、すべて
を意識化してはならぬということ、またそん
なことはできぬと諦めること
福田恆存
教育は「信頼が支配する領域」。見張る
かのように警戒や不信の目で子どもを見る
人は、子どものみならず、子どもに対する
自分の態度をも信じていない。つまり、人
のあいだで最初に立ち上がり最後まで残る
「自然発生的なもの」を信じていない。教
育は計算してどうこうなるものではないと
評論家は言う。「教育・その本質」から。』
これは、子どもに限ったことではないと思った。
人として成長する本質と言えるのではなかろうか。
『信頼が支配する領域』
『警戒や不信の目で見る人は…自分の態度をも信じていない。』
『計算してどうこうなるものではない。』
同感と感動である。
人を育てることの真理を見事に言い当てていると思う。
心が熱くなった。
時々、若い先生をはじめとした声に、
表立ってはいないものの、
パワハラかと思える言動を見る。
そんな管理職の机上に、
この新聞の切り抜きを置いておきたいものだ。
<2>
プロ野球の人気選手だった人が、
覚せい剤の所持と使用で逮捕された。
野球選手を夢見て、練習に励む子ども達を思うと、
残念でならない。
その覚せい剤について、こんな新聞記事があった。
『覚せい剤の成分メタンフェタミンは1893年、
薬学者の長井永義が合成に成功した。
第2次世界大戦中、日本はメタンフェタミンを、
欧州では別の覚せい剤成分アンフェタミンを兵士に与え、
士気高揚や恐怖心克服、疲労回復などを図った。』
改めて、戦争の残酷さや悲惨さ、非人間性を知った思いがした。
今では、使用そのものが犯罪とされる薬物が、
正々堂々と兵士に与えられていた事実。
そのねらいは、士気の高揚。
つまりは、戦闘、殺りくのやる気を高めるため、
そして、人の命のやり取りや破壊への恐怖心を、
克服するために使われたのである。
新聞記事にはこんな記述もあった。
『使った瞬間、脳がクリアになり
何でもできるという万能感に支配される』。
きっと、兵士たちはそんなニセの高揚感を持たされ、
戦場に立たされたのだろう。
こんな犯罪が他にあるだろうか。
強い憤り、そのやり場がないままでいる。
<3>
2月のニュースだ。
JR登別駅で、乗客の荷物を無料で運ぶ、
ポーターサービスの実証実験が、始まったとあった。
これは、外国人旅行者から、
大きな荷物を持って、改札口と駅ホームを結ぶ階段の昇降が、
大変だという声を受けてのことらしい。
確かに、エレベーターを設置すれば、それで済むことだが、
今のJR北海道にはその力がないように思う。
そこで、旧国鉄時代、上野駅や青函連絡船で活躍していた、
赤帽さんにヒントを得たのか、
荷物運びの助っ人、つまりはポーターサービスとなったのだろう。
新聞記事によると、実証実験初日は、
『市職員と委託業者の6人が10本の特急に合わせて実施。
うち5人は普段は公共施設の除雪などをしている60~80代だ』とのこと。
それを利用した『中国から夫婦で訪れた30代女性は
「中国ではないサービスで優しいですね。
でも、ポーターがお年寄りで頼むのが恥ずかしい」
と話した』そうである。
外国人旅行者は、旅行したその時、その国で出会った人や物、
気候、風景を通して日本を知り、
それが日本のイメージとなるのである。
それは、私たちが海外にいった場合も同じである。
さて、60~80代のポーターを見て、
外国人は、日本の労働環境をどう受け止めただろうか。
高齢になっても、元気に働く人たちがいる国と思っただろうか。
いや、『頼むのが恥ずかしい。』の声は、
決してそんな風には見えていないように思う。。
そうだ。誰に対しても
「あるがまま」、「ありのまま」でいいんだ。
でも、それにしても、ポーターの年令について、
心にすき間風が・・・。それは、私だけ。
<4>
温泉大好き人間ではないが、
近くに気軽に入れる温泉があるのは嬉しい。
今は、月に1、2回、右手のリハビリを理由に、
日帰り温泉へ行く。
さて、最近テレビでは旅番組が頻繁である。
中でも、地元北海道のよさを取り上げたものに、
目が行ってしまう。
それを見て、「今度、是非に」などと、
一人刺激を受けたりもしている。
もう2、3年前になるだろうか。
道南・函館方面を紹介するものがあった。
いわゆる旅人が、
さほど名の通ったところでない小さな港町や、
農漁村を訪ね歩くものだった。
私も一度だけ行ったことがあるが、
函館から恵山にむかう道からの海岸風景が、
海と空の青さが一つになり、ひときわ綺麗に映し出されていた。
番組では、旅人がふと立ち寄った港町の、
しかも、その町の人だけの共同温泉浴場を紹介した。
海岸べりにあって、7、8人がやっとの
海に向かって、半分露天のような浴場だった。
旅人が尋ねると、地元の年寄りは、
「お風呂は1つだけだ。」と言う。
「すると、混浴ですか。」
「そうだよ。1つだもの。」
「それじゃ、みなさんご一緒に。」
「そうさ。」
ビックリ顔の旅人に、
「何もだ。だって、小さい頃から一緒だもの。」
表情一つ変えずに言った。
「そうですか。そうですか。」
旅人は、そう応じるのが精一杯。
私も、旅人と同じ心境だった。
そんな大らかさは、私のどこにもないと思った。
あの真っ青な大海原のもとでの暮らし、
だからこそ育つ感情なのだろう。
そう理解することに決めた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/26/b06da4c61109e88883fb2bd633b42efa.jpg)
水芭蕉が咲いた(だて歴史の杜公園・野草園)
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