『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

ヒンドゥーの叡智4️⃣〜 印度人の祈りの力

__よく見かける、マハトマ・ガンディーの言葉ですが、

[ ガンジーよりもガンディーの方が実際の発音に近いそーです、南アで弁護士やってたりもした彼は、本来は実際的な実務家で宗教的な人ではなかったのだが、母国ヒンドゥーの叡智を、意外にも「神智学協会」を通して学んでいます、唯一の所蔵本『バガヴァット・ギーター』も神智学協会の訳でした]

 

心からの祈りによって成し遂げられないものは、この世に無い。(ガンディー)

 

‥‥ 彼のこの言葉をどー観るか、

私自身祈らないし、祈りで物事が実現するとは露いささかも思っていないからだ

しかし、インドにおける「祈り」とゆーものを観てみると、風土の違い、その真剣さに驚くことがある

古代インドから連綿と続く「祈りの功徳」について、ひとつの伝承を取り上げたい

 

谷崎潤一郎『ハッサン・カンの妖術』及び、芥川龍之介『魔術』に同様に登場する印度人マティラム=ミスラ氏の注目すべき発言から引用する

「‥‥ 一体、印度人の信仰から云うと、Asceticism(難行苦行)は、人間が神に合体するために是非とも必要なものなのです。

われわれの持っている悪は、すべてわれわれの物質的要素、即ちこの肉体から来るのですから、出来るだけ肉体を苦しめることによって、われわれの霊魂は次第に宇宙の絶対的実在と一致します。

仏教で云えば、起信論のいわゆる浄法薫習(くんじゅう)です。

われわれの肉体を苦しめる度がより強ければ強いだけ、霊魂は神の領域に昇って行きます。今まで肉体の牢獄に繋がれていた魂が、宇宙の精霊に薫習するに従って、こんどは物質の世界を支配するようになる。

結局、どんな人間でも苦行に服しさえすれば、此の世の中のことは、必ず当人の思うがままになると云うのです。

 

だから、ここにある人がいて、何か一つの神通力を得ようと思えば、難行の功徳でその目的を達することが出来るのです。

あなたはマハバアタの中にある二人の兄弟の話を知っているでしょう。彼らは三世(スリーワールズ)を支配しようという【祈願】を立てて、さまざまの難行に服しました。

例えば、頭のてっぺんから足の先まで、体じゅうに泥土を塗って、木の皮の衣を着て、ヴィンディヤの山巓に閉じ籠ったり爪先で立ったり、数年間もまばたきをしないで眼をあけていたり、断食断水をやったり、最後は自分の体の肉を割いて、火中に投じたりしたものです。

この時、ヴィンディヤの山は燃えるような兄弟の信仰のために熱を発し、天地の神々は兄弟の宿願の大規模なのに恐怖を感じて、能う限りの迫害を加えました。

しかし彼らはついにこれらの困苦に打ち克って、

梵天(ブラアマ)から望み通りの権力を授けられたのです。

以上の神話でも判るように、難行の目的は必ずしも罪障消滅にあるのではなく、むしろ此の世で擅(ほしいまま)な暴力を振い、もしくは敵を征服したいというような、反道徳的の動機のものが多いようです。

ひっきょう不屈不撓の意志を以て飽くまで苦行を続けさえすれば、その人間はどんな偉大な宿願をも成就することが出来るのですから、一とたびそういう行者が現われると、他の者は、人間でも神様でも大恐慌を来たします。

その証拠に昔ウツタナバダ王の王子で、僅か五歳の少年が大願を発したために、世界じゅうの神々が大騒ぎをしたという伝説があります。

少年は継母の妃に虐待されて、国王の位を継ぐことが出来ない代りに、宇宙第一の権力を得ようとして、天人、夜叉、阿修羅などの妨害を物ともせず、執拗に難行を継続しました。

すると神々は驚き、惶(あわ)てて ヰ゛シエヌの大神に救いを求め、漸くヰ゛シエヌの調停によって、少年の野望に制限を加えたのです。

少年の魂は天に昇って北極星になりました。

このように、人間の難行苦行は神々の脅威となるばかりでなく、神々自身もまた難行を必要とする場合があって、あの造物主の梵天でさえ常に行を修めなければならないのです」

[ 稲垣足穂『男性における道徳』(中央公論社刊)より〜「梵天の使者」の引用文、つまり谷崎『ハッサン・カンの妖術』の孫引き]

 

‥‥ 文中の「ヰ゛シエヌ」とは、おそらく「ヴィシュヌ神」のことだと思われる

ミスラ氏は、西洋哲学について次のよーな事も言っている

(ミスラ氏)は、西洋のメタフィジックと、大乗仏教の唯心論とを比較して、東洋人の【事物の核心を捉える直覚力】は、西洋的論理の及ぶ所ではないと云った。

「哲学や宗教の極致が、現象の奥に潜んでいる実在を洞察して、大悟徹底することにあるのだとすれば、東洋の方が西洋よりも遙かに進んでいます。

西洋人の得意とする【分析だの帰納では、現象の奥まで突き入ることが出来ない】からです」

‥‥ ミスラ氏の語る、印度人の祈願に対する姿勢は、わたしたちのそれと余りにも違いすぎて笑えるほどに怖いものだ

神々が大慌てでとりなしに入る件りは、釈尊が大悟なされた時(誰も分からないだろーから、このまま隠遁しようとなされた)に、梵天が慌ててとりなしに入った「梵天勧請」の故事とそっくりである

それにしても、人間が抱く不退転の祈願は神々の干渉さえも受けるとは面白いものだ

どーも、「欲」と「発」は同じもののよーだ

「欲する」も、仏道で発心する場合の「発する」も、印度人の論理ではさほど変わらない

ここでは、祈りも徹底すると世界を支配するほどの権力を得ることもあるとゆー、「人為」の究極の姿を垣間見る思いがする

 

古代インドの世界観は、須弥山(しゅみせん)という架空の大高峯を中心とする天動説的宇宙観であった

須弥山は、何も仏教の専売特許ではないのだとか……

キリスト教は、近代に発達した科学に則って、地動説を導入しているらしいが……

仏教の、例えば奈良の薬師寺の先先代だったか橋本凝胤師は、東大インド哲学科卒の当代きっての学僧であったが……

徳川夢声との対談で、「仏教は天動説で一向に構わない、それで何も不自由せんから」と、堂々と週刊誌上の対談ながら、地動説(=科学)を正式に否定したことがある

奈良の薬師寺や興福寺は、京都の清水寺と同じく、玄奘三蔵の創始になる「法相宗(唯識派)」である

戒律も厳しく、生涯独身を貫くインド仏教直輸入の宗派である

「唯識三年倶舎八年」という言葉が有名だが……

専門の学僧が、倶舎論を八年やってから唯識論を三年やって、やっと理解ができる位に難解な仏教哲学であるとゆー謂なのだとか

 

まー、そんな高度な哲学的思索の結晶が、ヒンドゥーの叡智として結実しているわけだが……

西洋の、例えば学者としても高名なゲーテは、奥深い洞察の持ち主であったが、その彼にして「不可知論」に帰着するしかなかったのに対し……

インド人は、「分からない神秘」を現前にして、どこまでも究明する姿勢を棄てることなく、とうとう真我ひとつの非二元に辿り着いたことは、返す返すも偉大なことだと思う

西洋の皮肉屋は、こー言った

「普通の人々はお祈りしない。ただ、お願いするだけだ」(バーナード・ショウ)

あるいは、

「祈りは神を変えない。祈る人を変えるのだ」(セーレン・キェルケゴール)

「お祈りすることは思い出すこと」(モーリス・メーテルリンク)

‥‥ いづれも、記憶に残る名文句ではあるが、ただそれだけのこと

インド人は、先ず永遠不滅の世界(存在)と生滅輪廻の世界(現象)とを明確に分けた

変わらざる存在にのみ注視したのである

人類の共有意識に溶け込んだと伊勢白山道の見立てで云われている、釈尊とラマナ・マハリシは奇しくも印度人である

ゼロを発明し、IT業界で幅を利かせるのも印度人である

印度人マハトマ・ガンディーは、冒頭の言葉を本気で云ったのですね

インドでは、祈りとはそーいったものなのですな

           _________玉の海草

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