『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

ヒンドゥーの叡智3️⃣〜 三島由紀夫が惚れ込んだ、難解なる 「唯識」

__唐突に三島由紀夫を引っ張りだすのは、他でもない、「嘘でかためたような男」 ゆえに 「戯曲の天才」 であった三島は、説明するのが抜群に上手い作家であるからだ

 

或る人の云うには、凡百の専門用語だらけの仏教解説書で苦労して勉強するよりも、 『豊饒の海』 に書いてある仏教解説を読んだ方が、百倍も分かりやすいと…… 

わたしは、瀬戸内晴美と同意見で、彼の 『禁色』 が傑作だと思うが、云われてみれば確かに三島由紀夫は説明・描写が抜群にうまい、冗長にならずよく纏まっている感じがする

 

ならば、難解で知られる 「唯識」 思想も、彼の講釈の魅力で突き抜けてみよーと…… 遺作 『豊饒の海』 全4巻に手を出してみた

この縁ができるまで永かった___いざ、水のない大海(豊饒の海 = 月世界の海) に漕ぎ出さん

 

 

 

第三巻 「暁の寺 (ワット・アルン」 に、待望の 「唯識 (ゆいしき」 誕生の内幕が書かれていたので引用する

 

学者の説くところによれば、印度の宗教哲学は、次のような六期に分たれる。

 

第一期は  梨倶吠陀 (リグヴェーダの時代 である。

第ニ期は  祭壇哲学の時代 である。

第三期は 【ウパニシャッド(奥義書哲学)】の時代 で、

西暦紀元前8世紀から5世紀に及び、梵と我 (アートマンの一体を理想とする自我哲学の時代であるが、

輪廻 (サムサーラの思想はこの時期にはじめて明瞭にあらわれ、これが業 (カルマの思想と結びついて因果律を与えられ、我 (アートマンの思想と結びついて体系化されたのである。

第四期は  諸学派分立時代 である。

第五期は、紀元前3世紀から紀元1世紀にいたる

【小乗仏教完成】時代 である。

第六期はその後500年に亘る

【大乗仏教興隆】時代 である。

 

問題はその第五期であって …… (略)……   《輪廻転生を法の条文にまでとり入れている「マヌの法典」は、この時期に集大成された》

同じ業思想でも、仏教以後の業思想は、ウパニシャッドのそれとは劃然 (かくぜんとちがっている。

どこがちがっているかというと、我 (アートマンが否定されたのである

仏教の本質は正にここにあると謂ってよい。

 

仏教を異教と分つ三特色の一つに、諸法無我印というのがある。仏教は無我を称えて、生命の中心主体と考えられた我 (アートマンを否定し、否定の赴くところ、我 (アートマンの来世への存続であるところの 「霊魂」 をも否定した。

 

仏教は霊魂というものを認めない…… ()……

しかし、ここに困ったことが起るのは、死んで一切が無に帰するとすれば、

悪業によって悪趣に堕ち、善業によって善趣に昇るのは、一体何者なのであるか?

我がないとすれば、輪廻転生の主体はそもそも何なのであろうか?

 

仏教が否定した我の思想と、仏教が継受した業の思想との、こういう矛盾撞着に苦しんで、各派に分れて論争しながら、結局整然とした論理的帰結を得なかったのが、小乗仏教の300年間だと考えられるのである。

この問題がみごとな哲学的成果を結ぶには、大乗の唯識を待たねばならないのであるが……

三島由紀夫 『豊饒の海』 第三巻 「暁の寺」 -新潮文庫- より]

 

 

‥‥ なんのことはない、「唯識」 で、吾々の六感にあたる六識の先に、第七の 「末那識 (まなしき」 を立てて、更にその奥に第八にして究極の 「阿頼耶識 (あらやしき」 を設ける

阿頼耶識 (蔵識) に、経験・痕跡が薫習 (くんじゅう = 香りが衣服に付く様) させられて種子 (しゅうじ = 行為を生む力) が蓄積されるとか、よく出来た循環理論でもってあらわし、要するに輪廻する魂・霊のよーな主体を認めないのです、 「人空 (にんくう = 実体的な常住不変な自我はない) 」 とするのです

 

仏教が我 (アートマンを認めないとは、 「真我 (アートマン」 を認めないとゆー事である

 

よくこんな手の込んだ上書き修正を考えついたものだ、仏教が釈尊の 「本生経 (ジャータカ、前世物語」 を重んじるあまり、こーまでして、 【 輪廻転生する主体を見つけなければならなかった 】 とは同情に堪えない

唯識派としては、唯識の誕生する少し前に誕生した、龍樹菩薩の 「中観 (中道の意味派」 の誤りを補正する意味合いもあったとか……

なんかヒンドゥー教のアドヴァイタ (不二一元論の方が、すっきり纏っている感があるが……

それは、龍樹の天才的理論を、西暦700年頃のシャンカラ (インド最大の哲学者が見事なまでにヒンドゥー教に借用したせいでもあると云う

 

ヒンドゥーのヴェーダーンタは、「ヴェーダ(聖典)の終わり」を意味していて、知性や論理や知識を否定したところから出発している

 

近代でも、聖ラマナ・マハリシやラーマ・クリシュナ (直弟子のヴィヴェカーナンダを含め) 、ニサルガダッタ・マハラジなどの世界的に知られた聖者を生み出した印度の伝統とは凄まじいものがある

次々と死骸が流れてくる、不衛生極まりないガンジス川で沐浴しても、病気にかかる人はいないとゆー、歴代聖者たちの祈りの力…… 

世界宗教会議にも列席した超インテリのヴィヴェカーナンダは、頭から馬鹿にしていた 「偶像崇拝」 で、師ラーマ・クリシュナから神を体感させられたと聞く

真実は、聖典や科学のコトバよりも雄弁に心に響く

>  「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する‥‥ 語りえぬものについては沈黙しなければならない」 (ヴィットゲンシュタイン)

 

 

ー三島由紀夫が、他ならぬ 「唯識」 に目をとめて、その哲理を礎に輪廻転生の物語を綴ったことに、何か惹かれるものがあった

エラノス会議の碩学・井筒俊彦博士が、丹念に 「阿頼耶識」 の究明にあたられていたことを考えると、単なる上塗りの理屈ではないのかも知れない

 

ただわたしは、釈尊の 「無我」 ってのはどーなのかと疑問に思っていて、ニサルガ親爺の 「真我ひとつ」 の明晰さに 「真理のシンプルさ」 を洞察するのであるが如何なものだろーか?

とはいっても、 「世界は私の内にある」 よりも 「私は大自然の一部である」 の方がしっくり来るであろー、謙虚と云われる伝統的な日本人にしたら 「無我」 とゆーものは案外と親和性のあるものかも知らん

「滅私奉公」 とか、 「幕末の無私の志士たち」 とかが無性に好きな民族ではある

 

しかし、車のクラクションにしても 「存在の主張」 であるインド人にしてみれば、大自然 (神) のうちに消え入りそーな 「無我」 とは容認できないものじゃないかな?

まだしも真言密教の 「大我」 の方が、インドには馴染みがあるよーな気もする

やっぱり 「無我」 となると理屈くさくなると思うんだよね、

シンプルに真我 (=Self) ひとつとすれば、自我 (=self) との折り合いもスムーズなよーに感じるのだが、如何なものか?

            _________玉の海草

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