『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

 スピリチュアル文献における 「多重翻訳」 の弊害

2021-07-10 23:12:32 | 歴史・郷土史

__ 仏教のお経を有り難がる日本の伝統、鳩摩羅什や玄奘三蔵によってサンスクリット語から漢訳されたお経を、漢音(天台宗や真言宗)や呉音で坊主が読み上げるのを、意味も分からぬままに、ありがたがる

仏典は、釈尊が書いたものではない、釈尊在世の頃は文字がなかった

釈尊が亡くなってからすぐに直弟子たちが集まって釈尊の教えを整理したが(五百羅漢による「結集」)……

文字がないから、多聞第一の阿難尊者が記憶していた御言葉を暗誦して、皆でそれを繰り返し口誦して、覚え込んだ

文字が出来て、文書で残すよーになったのは、何回目の結集(けつじゅう)だったっけ?

 

 ―釈尊の入滅後すぐに、
長老のマハー・カッサパ(摩訶迦葉;禅宗の始祖)を中心にして、
律(戒律)はウパーリ(優波離)が、経(教法)はアーナンダ(阿難)が担当され、
500人の、聖者の位に達した仏弟子がラージャガハに集まり…
約7ヶ月もの間、「第一結集(けつじゅう)と云われる、正確な『仏説』を決定する作業が行われたと聞く


この大集会は「合誦(ごうじゅ)」とも云われるよーに、釈尊の教えのすべてを復誦し、全員に確認を求めて記憶するといった遣り方だったらしい
この段階では、まだ文字にはされていない
釈尊の定めた教法や規律は、元来記憶しやすい偈(げ=詩歌)とか短文の形だったよーです

―釈尊は、成文化された『お経』を創作なされてはいないのです

弟子達は、ちょうど語り部のよーに、しっかりと心に刻み込んで暗唱したのです
この「結集」とゆー、いわば編集会議は、その後も続けられます


第二回は、仏滅後100年頃ヴェーサーリーで…


第三回は、没後200年頃パータリプッタのアショーカ王の下で開催


―そして、第四回結集に至って、初めて【文字化】がされたのだと云う
紀元前80年頃、セイロン(現・スリランカ)でだったとも、
紀元後二世紀頃、カシュミールだったとも云われてます

 

原始仏教経典といっても、現在のこっているのはサンスクリット語とパーリ語が主である

釈尊は、生前は地方方言である「マーガディー語(古代マガダ語)」をおつかいになっていたと聞く

つまり、釈尊のもともとの言い回しでは伝わっていないのだ

古代マガダ語→パーリ語→サンスクリット語→漢語(中国語)→日本語

いやいや遠い道のりを辿ってきたものだ

 

こーした多重翻訳のほかに…… 

訳者による改竄や付け足しもされてきたから事は厄介だ

拙稿> 法華経の「方便品第二」は、

漢文を呉音読みしただけなのに、絶妙なリズムと言葉の響きがある


特に、「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」
の辺りは、意識が徐々にエレベートしていって昂揚する箇所である

この部分、法華経を最重要経典とする比叡山(天台宗)では、「十如是」と呼ばれ、天台宗の根本教理「一念三千(十界×十界×十如是×三世間=三千)」を構成する重要要素である


しかし、この十如是は翻訳者・鳩摩羅什(クマラジーヴァ、344年 - 413年)が自分勝手にカテゴライズ(意訳)したものとされている、つまりサンスクリット語原典はこうした10分類にはなっていない


天台大師・智顗(ちぎ)は、龍樹菩薩を天台宗の開祖の座に据えているので……
龍樹の自伝をものして、更に『大般若経』はじめ『法華経』をも翻訳している鳩摩羅什は、天台宗にとっても祖師的な立場に位置する大御所とはいえ……  羅什の訳には勝手きままな個人的創意が付け加えられているとゆー事実は驚くべき事である


[※ 『阿弥陀経』が描く阿弥陀仏国の理想境を「極楽」と名づけたのは羅什、極楽に棲む鳥「共命之鳥(ぐみょうしちょう)」は原典にない鳥を勝手に加えたもの 〜やりたい放題 ♪
『般若経』でも、「色即是空・空即是色」は名訳だが、自分の創意からなる「煩悩即道場」を勝手に付け加えている、これが後に天台の「煩悩即菩提」に展開するのだから分からないものだ
『法華経』では、なんと「提婆達多品」を丸々無かったことにして仕舞っている(松岡正剛『千夜千冊』第1300夜参照)]

‥‥ う〜ん、ひどい話だ

釈尊のご口吻を偲ぶよすがもない

スピリチュアル文献では、この手の問題はよくある

インドの聖ラマナ・マハリシにあっても、彼が話していたのは地方方言のタミル語、それを英語に訳して、更に日本語に(ちなみに「マハリシ」はタミル語、「マハルシ」はサンスクリット語)

ニサルガダッタ・マハラジにあっては、彼が話していたのは地方方言のマラティー語、それを英語にして、更に日本語に

いま、ニサルガ親爺の弟子の書物を読んでいるのだが…… 

精神世界の哲学用語「遍在」を、あやまって「偏在」と記してある

> 「私は不死で至る所に偏在する」 [※ 『自己なき自己 ラマカント・マハラジとの対話』ナチュラルスピリット社刊より]

‥‥ これなんか、致命的な誤りだと思うのよね

訳者のミスか、編集者の校正ミスか?

ここ一箇所だけではなく、複数箇所「偏在」をつかっている

いたる処にいます遍在(神のありようとしてよく使われる)を、かたよって存在する偏在と間違えるなんて…… 

現在の文壇および出版関係者は、ここまでレベルが落ちたのかと、独りしみじみ悲しくなってくる

 

ー 結論として、言葉とゆーものを信じてはならないってことだね

いいかえれば、言葉で表されるものは人工のものだとゆーこと

人の思惑以上には出ない、つまり人智を超えた神秘には対応できないとゆーことです

以上