『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

 古代の日本海航路〜 『山海経』 に出てくる出羽三山

2021-07-11 18:40:51 | 歴史・郷土史

‥‥ 昔書いたものだが、まとめておく

敬愛する郷土史家・田村寛三さんの『続・さかた風土記』より、古代の日本東北と中国・朝鮮との交流を示す一文を……
> 恵果和尚は弘法大師に真言密教を伝えた。
そして弘法大師が日本へ帰ろうとするとき

 

「日本の海岸線を東北へゆきなさい。そうすると大きな河の上流に、生きた胎蔵界の大日如来が、おられるから、ぜひ、たずねなさい」

 

と、すすめたという。

 

‥‥ 日本海を北上すると大きな河(最上川)があり、その上流に生き身の胎蔵界の大日如来(湯殿山のご神体=宝前)が存在すると恵果阿闍梨が何故ご存知であったのか?
この驚嘆すべき記述の根拠は、一体何処にあるのか?

 

> 日本古代史の中国側の文献としては『魏志倭人伝』だけに眼が向けられ、それよりも千余年も前にまとめられたといわれる『山海経(せんがいきょう)』には一顧もされなかった。

[※ 『山海経』と云っても、仏教のお経ではない。孔子『易経』や老子『道徳経』のよーに、「道」「手引き」の意味を持つ]

 

‥‥ なんでも、故・田村さんは、平成3年に台湾の民俗研究家・李岳勲 氏 が苦節40年を経て出版された、『日本太古の風土記 わたしの山海経 全訳(日本語訳)』を直接頂いて、そのなかに郷土の鳥海山、湯殿山、羽黒山についての記述があることを指摘されたのだという
ネットであたってみると、数ヶ所の大学図書館で既に所蔵されている本のよーだ

 

【山海経】についての田村さんの認識は次の通りである
> 『山海経』は紀元前1122年、姫氏周朝の頃、出現したといわれる中国の最古典だ。

この経は日本の語り部が、語りきかせた日本の風土記を、文字を知っていた中国人が、語り部が符丁(暗号)を記した玉版や、竹簡、木簡を元にして、日本語の音を漢字の訓に移し変えたものの残欠をとりまとめて一書にしたもの。
三千年以上も前に、潮流の関係で日本に漂着した中国人によるいわば日本見聞録、とくに山や海等について記したのが『山海経』で、日本と中国との交流文献としては一番古いもの。

 

‥‥ 日本海をはさんだ交流の証しとして、田村さんは昭和29年に遊佐町三崎山で発見された、中国殷時代以前と思われる内刃反りの青銅刀(シベリアン・ナイフ)を挙げている
シナ文化は、北進して沿海地方から日本海を経て東北・北海道に渡ったことを裏付けるものとした
つまり、沿海地方ぞいに南下するリマン海流・朝鮮海流に乗り、対馬暖流の流れにまかせて、古代中国人が鳥海山のふもとに漂着したことを示していると云う
うちの庄内地方では、西暦700年代に千人規模で、大陸の渤海国から移住して来たとゆー伝承が残ってもいる
青森・秋田でも、漂着した大陸人との混血は多いはずである

> 果たして『山海経』には鳥海山、湯殿山、羽黒山のことが記されている。
鳥海山については、忌部(いみべ)ないし齋部(いんべ)の人たちが、天孫降臨以前に鳥海山に居ったことから大物忌神とつけられたと理解される文章となっている。
炫毘古(かがひこ、かぐつちの神、火の神、母いざなみの命はこの火の神を産むとき「ほと(陰)」を焼いてなくなった)が 父いざなぎの神から斬られた時に、ほとばしった血の一滴が鳥海山に飛んできて石筒(いわつつ)の男の神となった。

この神が経津主(ふつぬし)神の祖(みおや)であった。

この石筒の男の神が高千穂朝以前に鳥海山の忌部をつとめていた、というのである。
鳥海山の大物忌神社の由来が遠き神代の昔、火の炎帝の一滴の血液から生まれた石筒の男の神だとする。

鳥海山を太陽の山とか、農業神とするのも、このことに由来していると思われる。


> 湯殿山は、芙桑(ふそう・日本)の大木(根幹)と表現されている。
> 羽黒山は、成人女性が歯を染める鉄漿(かね)が出たことから「歯黒」とした、と記されていた。

‥‥ 長々と引用したが、最初の恵果阿闍梨がお大師さんにかけた餞けの言葉にもどると、中国の知識階級の間では『山海経』の知識がある程度普及していたと考えれば、恵果が湯殿山を知っていても可笑しくはない
事実はともかく、現在、湯殿山(高野山ほどではないが、鉱床の水銀含有量がおそろしく高い)の発見者、開山を弘法大師としているのも、あながち理由のないことではないと田村さんは云われている
わたしとしたら、驚天動地のお知らせなので、自分なりに裏を取らずにはいられませんでした

 

現在市販されている『山海経』(高馬三良訳・平凡社ライブラリー) を入手し、指摘された点をあたってみた
日本の「倭」とゆー国名は、『山海経』が初出なのだそーだ


第9・海外東経に、黒歯国・扶桑の大木・湯のわく谷等載っている
第14・大荒東経にも、九尾の狐(=玉藻前)・黒歯・湯谷・扶木とか……
第12・海内北経に、倭・蓬莱山(富士山)……
第4・東山経にも、扶桑・神木など


この新書版の解説「日本に渡った精霊たち」は、なんと水木しげる先生の筆になる
まー、トンデモ話で頗る面白いのだが、史料としての信ぴょう性には大いに欠けるよーではありますね ♪
古代の人々の往き来は、現在からは想像も出来ないほど盛んだったのではと思わせる事例には事欠きませんけれどもね

 

‥‥ あらためて読んでみると、日本の正史では伝わっていない消息が読み取れる

出羽三山を開山なされた蜂子皇子は、聖徳太子とは従兄弟同士で…… 太子からのアドバイスで暗殺されるのを逃れて、日本海側の庄内に辿り着いたとも聞く

京都の「由良」から船を出航して、到着した八乙女浦もまた鶴岡市の「由良」であった

蜂子皇子のお墓は、東北で唯一の宮内庁管轄の墳墓である(崇峻天皇の正式な皇子であらせられるから)

以上


 Supreme River 〜 崇徳院 の隠語としての 「最上川」

2021-07-11 09:49:58 | 歴史・郷土史

__ 梅雨前線の線状降水帯、記録的な大雨に晒されている地方の皆さんに、

お見舞い申し上げます

こちら山形県でも、最上川が氾濫するとエライことになるんです

最上川は、山形県内だけを流れている河で全長229kmもあります(落差5m以上の滝の数は230箇所)

最上川水系の流域面積は、県土の76%を占めていて、そこには県民の約80%の人々が暮らす

文字どおり、山形県の母なる大河なのである

 

 

その「最上川」が、平安末期の和歌の世界では物凄く人気があったらしく、意外の感に打たれたものである

 

> 平安時代の都人 (みやこびと) にとって、みちのくは憧れの地だった。
まして出羽の地に悠々と流れる大河、最上川は、その名の通り、最上の、最高の、大河だった。
そうした最上川の名を崇徳上皇の隠語にする、したということは敬い称えることだったのだと、風太郎は観る。

[※ 林崎風太郎『無刀の芭蕉』より]

本の帯より 推薦の言葉「素人ゆえの奇想天外さ」

      芭蕉翁菩提寺・義仲寺前執事 永井輝雄

依然から「芭蕉の句には何かが隠されている」とは聞いていたが、この本を読んでみると、途方もない展開になっている。                    

保元の乱に敗れ、讃岐に配流された崇徳上皇の呪いが「武士の世」を招いたという歴史の裏舞台。「言の葉」で上皇の御霊を願う西行、芭蕉、その究極の地は出羽・山形だったー。結果、「奥の細道」200年後、芭蕉が願った「天子さまの世」は復活したーというストーリー。

おそらく、これまでの芭蕉論にはない、全く新しい世界を描いている。素人論ではあるが、壮大な歴史推理小説として一読すら価値はあると思う。いずれにせよ、芭蕉翁への関心を高めるいい機会だ。〜

 

 

‥‥ なんと畏れ多くも、崇徳院=最上川ですと〜

だとすれば、山形県民歌『 御歌 最上川 』は、西行法師から〜松尾芭蕉〜昭和天皇へと連綿と受け継がれた、崇徳院を御慰め申し上げる観音行の一環を、山形県民が知らず知らずに担っていることになるのではあるまいか?

 

(wikiより)> あるとき (1141年以降) 西行にゆかりの人物 (藤原俊成説がある) が崇徳院の勅勘を蒙った際、院に許しを請うと崇徳院は次の歌を詠んだ。(『山家集』より)

最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ 
《意》:最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張っていることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しよう。舟が碇を下ろし動かないように。
対して西行は次の返歌を詠んだ。

つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて 
《意》:最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい (私の切なるお願いをおきき届け下さい) 。

 

‥‥ 『古今和歌集』巻20 東歌 (詠み人知らず) に、

 最上河 上れば下る 稲舟の 否にはあらず この月ばかり 

とあり、この歌を踏まえて崇徳院が上の御製をお詠みになられたよーである

西行法師が、奥羽へ旅立たれた目的は、憧れの最上川を自分の目でじかに見ることにあったよーだ
西行の息子さんだったかが、西行歿後に現在の山辺町に移住して来て、その子孫の佐藤家がいまもご健在だと聞く
その西行の遺志 (崇徳院のご慰霊) を汲んで、江戸期の芭蕉が「奥の細道」を歩いたとゆーことになろー

崇徳院~西行~芭蕉と繋がる「鎮魂」のラインがあって…
芭蕉は句に「裏俳諧」を秘そませたものと云う

芭蕉没後は、俳諧師としての声価いよいよ高まり、没後百年経って「桃青霊神」の号を授かっている、ついで

1806年には、芭蕉に「飛音 (ひおん) 明神」の神号が下賜され…
1843年の、芭蕉150回忌には「花の本大明神」の神号を朝廷より贈られている

 

 …… 「山形県民の歌」のいわれを紹介する。



“ 広き野を 流れ行けども 最上川

海に入るまで 濁らざりけり  ”



> 昭和天皇 (当時は東宮殿下) が大正14年 (1925) 10月14日酒田へ行啓された。
御歌は翌大正15年 (昭和元年・1926年) の歌会始め御題「河水清」に、酒田日和山 (ひよりやま) においての感懐をお示しされたものという。


この御歌は山形県の光栄として、昭和3年酒田市日和山公園に記念碑が建てられ、更に昭和5年、東京音楽学校 (現東京芸大) の島崎赤太郎教授が曲を付け、県民歌として歌われるようになった。

 

【戦前の話だが、「日本🇯🇵の三大県民歌」として、山形県民歌「最上川」、長野県歌「信濃の国」、秋田県民歌がよく知られていたそうです。山形県では現在、学校では歌われていないようです、現在40代以上の方々しか歌ったことがないかも知れません。昭和天皇の御製ということもあり、けだし名曲だと思います。酒席でアカペラで朗々と唄うのも良いかと存じます ♪】

 


時を経て、昭和22年8月来県中の昭和天皇に、上山市出身の歌人斎藤茂吉が弟子の結城哀草果 (山形市) とともに短歌について進講した。
その際、茂吉が「うみに入るまでにごらざりけり」の表現について「実際は降雨が続いたりすると、ものすごい流れに変わり、濁流滔々として天より来るの趣がある」と講じると、陛下は少し顔を引き締められたようだったというエピソードが残る。

 

明治大帝は大霊覚者であらせられたと聞くから、そのお孫さんの昭和天皇の霊力もなかなかのものだったに違いあるまい(隔世遺伝)

崇徳院=最上川 の消息も鎮魂の歴史もご存知だったかも知れない

明治天皇が、明治政府を創るにあたって、四国へ崇徳院をお迎えに勅使をつかわされた消息もよくお分かりであられよう
それゆえ、最上川に仮託して、崇徳院の純粋なる大御心をお詠みになったのに、茂吉翁が理路整然と物理現象をいいつのるものだから、龍顔をしかめられたのではありますまいか?


昭和天皇の「最上川」は、百人一首に撰ばれた崇徳院の御製

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

に対応なさる御歌かと存ずる
同時に、芭蕉の

「暑き日を 海にいれたり 最上川(酒田)」

を承けてもいて……
芭蕉の

「五月雨を あつめて早し 最上川 (大石田)」

も、「瀬を早み」に照応すると観るのは、果たしてうがち過ぎか知らん

ー この昭和天皇御製の山形県民歌は、ほんとうによい唄で口遊むのも気持ちがよい

いまなら、YouTube で聴けるので、ご興味ある向きは是非お聴きになってもらいたい

以上