‥‥ 昔書いたものだが、まとめておく
敬愛する郷土史家・田村寛三さんの『続・さかた風土記』より、古代の日本東北と中国・朝鮮との交流を示す一文を……
> 恵果和尚は弘法大師に真言密教を伝えた。
そして弘法大師が日本へ帰ろうとするとき
「日本の海岸線を東北へゆきなさい。そうすると大きな河の上流に、生きた胎蔵界の大日如来が、おられるから、ぜひ、たずねなさい」
と、すすめたという。
‥‥ 日本海を北上すると大きな河(最上川)があり、その上流に生き身の胎蔵界の大日如来(湯殿山のご神体=宝前)が存在すると恵果阿闍梨が何故ご存知であったのか?
この驚嘆すべき記述の根拠は、一体何処にあるのか?
> 日本古代史の中国側の文献としては『魏志倭人伝』だけに眼が向けられ、それよりも千余年も前にまとめられたといわれる『山海経(せんがいきょう)』には一顧もされなかった。
[※ 『山海経』と云っても、仏教のお経ではない。孔子『易経』や老子『道徳経』のよーに、「道」「手引き」の意味を持つ]
‥‥ なんでも、故・田村さんは、平成3年に台湾の民俗研究家・李岳勲 氏 が苦節40年を経て出版された、『日本太古の風土記 わたしの山海経 全訳(日本語訳)』を直接頂いて、そのなかに郷土の鳥海山、湯殿山、羽黒山についての記述があることを指摘されたのだという
ネットであたってみると、数ヶ所の大学図書館で既に所蔵されている本のよーだ
【山海経】についての田村さんの認識は次の通りである
> 『山海経』は紀元前1122年、姫氏周朝の頃、出現したといわれる中国の最古典だ。
この経は日本の語り部が、語りきかせた日本の風土記を、文字を知っていた中国人が、語り部が符丁(暗号)を記した玉版や、竹簡、木簡を元にして、日本語の音を漢字の訓に移し変えたものの残欠をとりまとめて一書にしたもの。
三千年以上も前に、潮流の関係で日本に漂着した中国人によるいわば日本見聞録、とくに山や海等について記したのが『山海経』で、日本と中国との交流文献としては一番古いもの。
‥‥ 日本海をはさんだ交流の証しとして、田村さんは昭和29年に遊佐町三崎山で発見された、中国殷時代以前と思われる内刃反りの青銅刀(シベリアン・ナイフ)を挙げている
シナ文化は、北進して沿海地方から日本海を経て東北・北海道に渡ったことを裏付けるものとした
つまり、沿海地方ぞいに南下するリマン海流・朝鮮海流に乗り、対馬暖流の流れにまかせて、古代中国人が鳥海山のふもとに漂着したことを示していると云う
うちの庄内地方では、西暦700年代に千人規模で、大陸の渤海国から移住して来たとゆー伝承が残ってもいる
青森・秋田でも、漂着した大陸人との混血は多いはずである
> 果たして『山海経』には鳥海山、湯殿山、羽黒山のことが記されている。
鳥海山については、忌部(いみべ)ないし齋部(いんべ)の人たちが、天孫降臨以前に鳥海山に居ったことから大物忌神とつけられたと理解される文章となっている。
炫毘古(かがひこ、かぐつちの神、火の神、母いざなみの命はこの火の神を産むとき「ほと(陰)」を焼いてなくなった)が 父いざなぎの神から斬られた時に、ほとばしった血の一滴が鳥海山に飛んできて石筒(いわつつ)の男の神となった。
この神が経津主(ふつぬし)神の祖(みおや)であった。
この石筒の男の神が高千穂朝以前に鳥海山の忌部をつとめていた、というのである。
鳥海山の大物忌神社の由来が遠き神代の昔、火の炎帝の一滴の血液から生まれた石筒の男の神だとする。
鳥海山を太陽の山とか、農業神とするのも、このことに由来していると思われる。
> 湯殿山は、芙桑(ふそう・日本)の大木(根幹)と表現されている。
> 羽黒山は、成人女性が歯を染める鉄漿(かね)が出たことから「歯黒」とした、と記されていた。
‥‥ 長々と引用したが、最初の恵果阿闍梨がお大師さんにかけた餞けの言葉にもどると、中国の知識階級の間では『山海経』の知識がある程度普及していたと考えれば、恵果が湯殿山を知っていても可笑しくはない
事実はともかく、現在、湯殿山(高野山ほどではないが、鉱床の水銀含有量がおそろしく高い)の発見者、開山を弘法大師としているのも、あながち理由のないことではないと田村さんは云われている
わたしとしたら、驚天動地のお知らせなので、自分なりに裏を取らずにはいられませんでした
現在市販されている『山海経』(高馬三良訳・平凡社ライブラリー) を入手し、指摘された点をあたってみた
日本の「倭」とゆー国名は、『山海経』が初出なのだそーだ
第9・海外東経に、黒歯国・扶桑の大木・湯のわく谷等載っている
第14・大荒東経にも、九尾の狐(=玉藻前)・黒歯・湯谷・扶木とか……
第12・海内北経に、倭・蓬莱山(富士山)……
第4・東山経にも、扶桑・神木など
この新書版の解説「日本に渡った精霊たち」は、なんと水木しげる先生の筆になる
まー、トンデモ話で頗る面白いのだが、史料としての信ぴょう性には大いに欠けるよーではありますね ♪
古代の人々の往き来は、現在からは想像も出来ないほど盛んだったのではと思わせる事例には事欠きませんけれどもね
‥‥ あらためて読んでみると、日本の正史では伝わっていない消息が読み取れる
出羽三山を開山なされた蜂子皇子は、聖徳太子とは従兄弟同士で…… 太子からのアドバイスで暗殺されるのを逃れて、日本海側の庄内に辿り着いたとも聞く
京都の「由良」から船を出航して、到着した八乙女浦もまた鶴岡市の「由良」であった
蜂子皇子のお墓は、東北で唯一の宮内庁管轄の墳墓である(崇峻天皇の正式な皇子であらせられるから)
以上