『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

 「〇〇世代」って 呼ばれたくない〜 年上の連中は 全て 「老害」

2024-02-19 01:54:59 | いまの世相

 

__ このCMは、面白いよね。

「呼んで呼ばれて、気がついたけどさ。

自分から名乗り出した奴なんて、いないんだよ!!」

 

…… 「当たり前だろ、そんなこと、アダ名はつけられるものでしょ」と私なら言いたい。

「ゆとり世代」が、一番文句つけたんじゃなかったかな、

「自分たちのことを、ゆとり世代って言わないで」と。

そんなこと言われましてもねえ…… 

ひとり一人の個性に合わせて、対応しろとでも言うの?

そりゃ、酷でしょう。

 

〇〇世代って、全体の傾向をつかんだ方が、やりやすいじゃん。

自分たちとココが違うのね、違うどころか、異次元の生き物なんだねと納得したほうが、絡みやすいと思うな。

「〇〇世代と言わないで」なんて、私は言いませんね。

私は、分類的には「新人類」と呼ばれたが…… 

「そんな風に先入観もたないで」なんて、思ったことはないね。

やっぱり、みずからの本質に自信があったのだと思う。

何とでも呼べばいいさ、と涼しい顔してたもんだ。

 

 

…… いいじゃん、「ゆとり世代」でも「Z世代」でも。やっぱりね、同世代に共通する顔立ちとゆーものはある。

その世代ならではの流行への熱量は、他の世代とは共有できないものだ。そして、それがその世代の「生き方」に大きく影響していることさえある。

例えば、「ガンダム」とか、「ビートルズ」とか、「ピンク・レディー」とか、「美空ひばり」とか…… 

 その話題になると、異様に盛り上がる題材が各世代ごとに必ずある。

それに、物流革命なんかも影響するよ、例えば比較的に「肉🥩」を食わなかった東北地方で、物流の改革によって、豚肉や特に牛肉の流通が飛躍的に伸びた時代があった。

それ以降の世代は、やっぱり体格が違ってくる。

つまり、その時代の「時代精神」を象徴するものが必ずあるんだよ。

 

世間に先行する世代からみて、正直な感想が「〇〇世代」という呼び名にあらわれている、ってことでいいじゃない。

悔しいのなら、個人的にその「〇〇世代」への評価を覆してみたらよい。それだけのことじゃないだろうか。

自分の扱われ方に、敏感すぎるのよ。

扱い方を決めるのは、いつの世も力のある方である。

 

 

__ 世相を眺めると、「ソフト老害」という言葉もひとり歩きしてそうだから、また私の「世代論」として、拙稿をまとめてみようか。

 

🔴 20240214

 

 戦わずして生き残られるのか

団塊の世代あたりの、全共闘世代は「戦争経験がない」から、若き知性でもって国家相手に戦った。

だから全共闘世代は、殴り殴られ、暴力というものに慣れている。ゲバ棒や拳でもって戦った世代である。

全共闘は大学生が中心にあったが、当時東京🗼の高校生だった坂本龍一は、早熟な知性で全共闘に参加している。

 

そんな坂本龍一が、西暦2000年を迎える頃……

病に臥せっていた父を励ますために、「エナジー・フロー」という曲を作った。

CMにも使われ、数多くの疲弊したサラリーマンを励ますことになった。この曲が坂本龍一の最大のヒット曲となる。

 

坂本の父・一亀さんは文壇では名を知られた敏腕編集者である。学徒動員で、戦争の現場を経験なさっている。

この厳しい父親と、坂本龍一は戦っていたのである。

晩年に、和解するような安らぎの曲「エナジー・フロー」を病床の父に贈り、一亀さんも気に入ってらしたようである。

 

つまり、戦前も戦後(全共闘19689年)も、男は恒に戦っていた。

戦いに参加できなかった、「団塊の世代」の下の世代は、「シラケ世代」と呼ばれて、国に楯突くのは止めたが、今度は別のものと戦った。

そして70年代を迎えると、外で戦う者は「不良」に、心の内で戦う者は「オタク」に分断した。(山田玲司説)

 

いまのZ世代の、父も祖父も戦っていたのである。

それを見て育ったZ世代は、もはや戦わなくなった。

拳で殴り合う代わりに、格闘ゲームに興じるようになったわけです。実際のケンカは、したことがないのです。自己防衛もできないでしょう。

 

痴漢をされても、暴行をうけても、エレベーターに閉じ込められても、火事になっても、「助けて!」と大声で🆘を出すことができない。

周りを気にし過ぎて、自分の意見を言うことができない。仲間はずれにされるのが怖くて、言いたいことも言えない。

そんな、保護されることを前提とした、女性目線が「ホワイト社会」を形造る原動力である。

ホワイト社会では、「戦う者」は疎外される。

エジプト🇪🇬人の女性が言っていた、今の日本は「女尊男卑」だと。(サトマイも同意していた)

 

それで、日本は生き延びられるのか、はなはだ疑問である。

_________

 

❎ 20200215

 リーマンさんの懐かしのギャグ

のたびに、読者に分断が起きているような風情がする。

中高年は、得意げに「知ってる〜♪」なんてはしゃいでいるし、

かたや、若者はつまらなそうに「そんなの知りません」と不満を鳴らす。

 

私らの世代(リーマンさんも同じ)は、もし自分が知らなければ、「恥ずかしながら存じあげないのですが、教えていただけますか?」と問うたものです。

いまは、「若者でも分かるように説明しないそっちが悪い」と言わんばかりに、その古臭さを馬鹿にしています。(ボンレスハムのCMは、YouTube で「1975-1987 ハム&ハンバーグ関連CM集」とか「CM 1983 丸大 ボンレスハム」でいまでも視聴できますよ)

 

「自分が知らない」ということに「恥」を感じなくなったのは、いったいどの世代からなのだろうか?

『バカせまい史』によれば、『ヘキサゴン』(2005)で初めておバカタレント枠が出来たということから遡って考えると、「ゆとり世代」の始まり(平成元年・1989年頃)に一致するかな。

「無知は罪」とは、アックンの世界でも金言なんじゃないの。

_________

 

❎ 20240215 

 年上を尊敬したい願望

リーマンさんが記事に懐かしの流行り言葉をのせるたびに、中高年から「知ってます〜♪」と嬉々として共感を寄せるコメが舞い込む。

これをみていて、ああ、相当下の世代から迫害されてんだなと。

世間の波に乗ろうと、時代から取り残されぬように、下の世代に合わせようと相当無理をなさっているのだろうなとひしひし感じられます。

 

西洋でいう「ノブレッス・オブリージュ(高貴なる者の義務)」と同じように、日本にも『年上の義務』(山・田玲司著)というのはあります。

年下は、はなっから馬鹿にしようと思って年上を見ているわけではなくて、むしろ年上を尊敬したいと思っているという著者の感覚は、自分の若かりし頃を思い出しても共感できるものです。

年下からナメられないために、

年長者が最低限守るべき、三つの戒律をあげています。(山田さんは、時代の潮流を見透す、現代の詩人です)

 

・愚痴らない

・威張らない

・ご機嫌でいる

 

この三つだけです。

詳細は、

ゆうつべで「山・田玲司 【老害】年下から馬鹿にされる理由はあなたにある。」で検索して、1320 から3分間だけでもごらんになってみて下さい。

 

こんなこと言うと、中高年を批判しているように受け取られるかも知れませんが、私自身初老です。

いま、私たちが若者から突き上げを喰らっているように、若者たちもその年下から「NO」を突きつけられています。世代間の断絶は、昔以上に深刻なものです。

 

30代であっても、10代からは相手にされていません。

20代ですら、10代にとっては異世界の住人かも知れません。

誰にでも、「年下」はいるのです。

いつまでも、「年下」で甘えられるわけはないのですから。

だから、全世代に向けた提言となります。

 

 

🔴 20240216

 

 ソフト老害だって

ワイドショーで、スズキオサムが提唱した「ソフト老害」について特集していて、笑った。

最初は、5060代の老害ではなくて、40代でも老害を引き起こしているという趣旨だったのだが……

そのうち、30代にも当てはまるとなって、

更に20代後半ですでに、老害となっているという具合に話がすすんでいった。

 

こちらで、「親ガチャ」の件で老害扱いされた私だったが、

確かに40代くらいで、若者の代弁をして、私はわかるが老人には分からないと間を取り持つようなことを言っていた読者がいた。

若手を理解している気持ちになってずれている「若き老害」であるかも知れない。

20代】「年齢が近いからこそ親身になってる感出して、口出してくるケースは感じます。『お前の気持ちわかるよ』っていう的外れなのはしょっちゅうある気がしますね」

Yahoo!ニュース、高齢者だけじゃない『ソフト老害』が話題に 放送作家・鈴木おさむさん「40代でも行動次第では老害に」の記事より]

 

平成以降は、若者の意見が社会で重視されるようになった。なぜならば、若者の方が ITスキルが段違いに高かったからである。(会社運営上の理由なのだ)

本来なら、この時代だけの逆転現象だったのだが……

現在でも若者の視点に注目が集まるのは、少子化がすすみ子どもの数が少なくて、就職現場でも売り手市場だからに過ぎない。

若者の価値観至上で動く社会なんて、歴史上なかったし、異常であろう。

 

しかし、その若者も中堅になって、すぐに老害問題を引き起こす年齢になる。

いつの時代も人間のサガは変わらず、同じような世代間対立が繰り返されるが……

いまの時代は、世代間ギャップが非常に細かくなってきているそうだ。

20代であっても、10代には相手にされないこともある。昔の80年代でも、10歳差はまるで合わなかったものです。

老害、老害と非難していても、明日はわが身なのですよ。

 

しかし、いくら世代間で常識が違うとはいえ、先祖供養(親孝行)の大切さは変わらないでしょう。

都会で先祖供養している家が少ないのは、親が教えなかったからです、自分もしていないから教えられなかったのです。

だから若者の常識のなかに、「先祖供養する」という項目がないのです。

栄えている家庭は、何代もの家族が同居して、親孝行な家風であります。

新しい橋が竣工されるとき、渡り初めするのはそうした何代も続いている家なのも日本各地で共通のことでしょう。

_________

 

🔴 20240217

 

  ソフト老害つづき

「老害」と呼ばれるのは主に5060代なのに、

「ソフト老害」とは、3040代、そして20代後半、

つまり【歳上だってだけで、老害認定される】ってことですね。

 

若者の気持ちが分かるよと、ほんとうに老害だよねと、若者に媚びる中間層が今回ターゲットにされたということで、

老害に対して、日頃自分たちが盾になって防いであげてるのに、後ろからグサリと刺された心地でしょうな。

 

でもそんな30代でも安心してください、数(人口)の上では、20代は30代に到底かなわないのです。

ついでに言えば、50代は第二次ベビーブームの生まれ(団塊ジュニア辺り)なので、40代に対しても圧倒的に多数(優勢)なのです。

ハラスメントはいけませんが、「若者に媚びる」必要は毛頭ないそうです。

ただ、感情的な反論ばかりで、「反証(エビデンス)」をあげないならば、若者と同様ですので、慎みましょう。

 

20代以下だけで世の中全部回して行ける」はずもなく、若手はいま自分たちが「異様に大事にされる」のは何故なのかを考えてみるべきです。

後年、あなた方がした様に今度はあなた方がされます。

_________

 

 

…… 世代論というのは、面白いね。

さっきも言ったけど、その世代に特有の顔つきってあると思うのね。

例えば、80年代のアイドル顔には類型がある。

NHK朝のテレビ小説『あまちゃん』で、有村架純が一気に中年から受け入れられたのは、

1993(平成5)年生れの架純ちゃんが、昔のアイドル顔していたからなのである。

ほんとうに驚いたものだ、これ懐かしのフィルム使ってるんじゃないかと疑ったほどだったから。

有村架純は、そのまま80年代のアイドルでも通用しそうな顔立ちだったからである。

だから、世代間格差はもう仕方ないのよ。

これは摂理です。

でも、世代ごとに違う特徴があるからといって、それが何なの?

そんなに重要なことかしら?

〇〇世代は、言ってもいいし、言わなくてもいいし、そんな大した問題ではないのよ、本来は。

問題を大きくしているのは、いまの「打たれ弱い」若者なんじゃないかな。

受け手が「イヤな思い」をすると、それは自動的に「ハラスメント」だという、弱者保護のリベラル思想が根本にある。

いままでの歴史で積み上げられてきた、「女性が蔑視された怨み」は膨大な質量を帯びて、リベラル思想に反映しているのだろうね。

「ホワイト社会」は、コロナきっかけで浸透したのかも知れないけれど‥‥ 

やっぱり、草の根運動が実を結んだとも言えるわけだね。

心して、「ホワイト社会」に生きなければいけません。

まー、そんなに悪いことばかりでもないからね♪

とはいえ、旧態依然とした芸能🎭文化や職人文化は、壊滅的なダメージをうけることは間違いない。

「ホワイト化」は、都会化やハウス栽培化や無菌化の延長線上にある。

人間本来もっている野生化と、どっちに振り子が振れるか、ここ十年は注目するのも面白いかも知れん。

     _________玉の海草

 

 


 「親ガチャなんて言うな」で干された〜 「人生 (≒ゲーム)」 を辞めたい若者たち

2024-02-13 00:14:59 | 小覚

__ 文句をつけながらも、熱心に読んでいるブログ『伊勢-白山 道』のコメント欄📝での出来事でした。

最近、とみに投稿者の世代交代がすすんでいるのを感じる。

つまり、若年化してトント面白くなくなった。すべてが薄っぺらくなってしまった。

 

 

 

…… そんなコメント欄📝の環境のなかで、

ある日私が、「親ガチャ」を言うことが如何にヤマト心に逆らうものであるか、堂々と私見をのべた。

それに対する、コメント欄の反論は(レベルが)ヒドイものだった。

 

🟥 どうして、この手の浅はかなコメントが投稿されるのか?

根源的なことから、押さえておこう。

 

【サイト『遊ぶ数学』より引用】

 

「偏差値50」の人は、「ザ・平均人間」とすると、偏差値の分布は、正しく「ベル🔔・カーブ」を描く。

つまり、1000人の偏差値を調べたら…… 

「偏差値50以上」の人数は、半分の500人である。

「偏差値50以下」の人数も、半分の500人いる。

このうち、

「偏差値40〜60」の間に入る標準枠に入る人数は、683人である。

もう少し広く捉えて、

「偏差値20〜80」の間に、入る人数は、997人であり、ほぼ全ての人がココに入る。

 

大学入試などで使われる「学力偏差値」では、「偏差値60以上」が難関といわれる。

「偏差値60以上」を取る人数は、上位≒150人である。

「偏差値70以上」の人は、わずかに上位≒20人に過ぎない。

ここまでは、優秀な受験生として、よく耳にする偏差値であるが…… 

偏差値分布が、正規分布してベル🔔・カーブを描くということは…… 

低い方の、

「偏差値40以下」の人数も、下位≒150人であり、

「偏差値30以下」の人数も、下位≒20人ほど、間違いなく存在するのである。

 

文章の読解力のない人(「偏差値40以下」)が、全体の15%強で、

ほぼ6人に1人の割合だったが…… 

15%という人数割合は、行政でも無視できない大きな数字だということである。

日本人の文章読解力については、このブログの他の記事

 

日本人の読解力〜 8割の人は、 Twitter の文章を正しく 理解できない - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

__どこのコメント欄を読んでもそうだが、なんでこんな甚しい読み間違えをするのかな、ちゃんと学校🏫教育をうけたのかな、あちこち拾い読みして早合点してて、これは付け...

goo blog

 

で、詳しく述べている。

 

つまり、不特定多数の出入りする掲示板なりコメント欄📝では、

確実に、「文字は読めるが、文章(文脈)は読めない」人々が存在する。

誰でも無条件で発信できる、ネット空間であれば、

その規模が大きくなればなるほど、かなりの「読解力不足な人」が参入してくることになる。

 

それが、コメント欄📝の論戦の場に現れることは、覚悟しなければならないだろう。

彼らは、反論はするけども「反証(エビデンス)」は用意していない。

こんな輩には、まともに応えてはならない。

語彙力がないものだから、なにかにつけては「ヤバい、ヤバい」を連発する、陽気な応援団みたいな人たちである。

言を容れざる人と話すな(佐藤一斎『言志後録』より)

 

 

こうして話していると、浅慮な読者ばかりと思われそうだが…… 

たぶん年配の読者で、去年の年の暮れに、「日本人であること」というタイトルで、

「親ガチャ」という言葉に宿る卑しさと、その醜い内心を不敬であり忘恩である「親ガチャ」という言葉に載せて発すること自体が、日本精神の崩壊であると、警鐘を鳴らす御仁もおられた。(流石は、伊勢白山道読者なのである)

寝たきりの老人に向かって「家のお荷物」とか、内心そう感じていたとしても、日本人ならば口に出さない、相手を責めない処に、良心の発露があると喝破なされていました。

「恩を仇で返す」ような所業は、人非人のすることであると、決然と仰っていました。わたしは、いまだ真正の日本人がおわすことに堪らなく嬉しくなったものです。

 

まー、ここは私個人の発信場所だから、ここでも「親ガチャを言うのは人で無しだ」と言っておこう。

時系列で、伊勢白山道に投稿した拙稿を並べてみましょう。

いま思っても、リーマンさんはよく私の主要な投稿を掲載してくれたものだと思う。

同年代として、そのご配慮には感謝申し上げたい。

ありがとう御座います。

 

【以下、掲載🆙されたのが🔴印、不掲載となった拙稿は❎印をつけています】

_________

 

🔴 20240208

 

「親ガチャ」という言葉が、ひとの道にもとる、非道い言葉であることに気付けない人もいる。

 

自分を生んだ親を採点する人は、

自分を造った造物主(神)さえも、上から評価することになろう。

 

こういう姿勢をとれるということは、端的に「距離がある」ということである。親からも神からも離れている人だから出来ることであろう。

縄文以来、離れつづけてここまで離れたんですね、あなたがたは最先端ですよ。アックンとして合格ですね。

 

《私注》アックンとは、悪魔の隠語で伊勢白山道用語。

リーマンさんは、より詳しく悪魔に憑依された「人間」のことだと言っていた。

_________

 

❎ 20240209

 

 親ガチャを口にするアックン

まず基本線をいっておこう。

・親は直近の先祖であり、親孝行とは先祖供養である。

・先祖にもそれぞれ両親がいたわけであるが、最初の先祖は神が造った。

・つまり、先祖供養は直接に神棚(神社⛩️)参拝につながる。先祖も神さまを拝んだからである。

・いま、生かされている自分を感謝するのは、つまり先祖を敬い神を崇める道である。

 

ーガチャという自販機は私もしたことがある。(カプセルトイをゲット)

反論のうち、違和感を覚えた箇所を引用すると、

ゲームでもあるガチャでも結局抽選で何がでるかわからない。

【親は選べない】から、それぞれ違うっていうのを軽くカジュアルに言った言葉。

富裕層の子に生まれたら【あたり】だねとして親ガチャだなとなる。逆もまたしかり。

 

…… 抽選という偶然性の僥倖(ぎょうこう)を提供するものとして、「ガチャ」を言っているのだろうが、

親ガチャの場合は、「あたり」「はずれ」があるということね。(採点と一緒でしょ、裁くことです)

当たった人は運がいいし、外れた人は運がわるいと。

 

「親」にたいして行なう、こういう思考のベクトルそのものが、アックンのものだということです。堕落の一歩目だというのです。

最高峰の天使、光輝くルシファーが堕天使となったのは、「神(親)を選んだ」からです。

おのれを一番にしたかったからです。(高貴なるザ・セカンドだったのに)

子は親から派生したものであり、子あっての親ではないのです。

 

どんな親でも、我が子から「こんな親の下に生まれたくなかった」と言われるのは、堪え難い苦痛でしょう。親は、内心そう言われることを覚悟しているものかも知れません。子どもから言われるまでもなく、親自身は自覚しているものです。

「私は貧乏な家に生まれた」と「親ガチャでハズレた」とは、根本的に生きる姿勢が違うのですよ。

 

まー、論戦するつもりもないし、ここはそんな場ではないのだが…… (不掲載でもやむなし)

中高年が拘る「譲れない一線」なのだと思った。

 

戦後史でいえば、さんざん親に逆らってないがしろにしてきた「団塊の世代」は、わが子にそれを言ってはいけないと教えられなかった経緯があります。

しかし、その下のわたしの世代(新人類)は、その「親ガチャ」という言葉に「NO」を突きつけます。

それはダメだと教えておきます。

伊勢白山道と、「親ガチャ」を言う気持ちは真逆のものだと感じます。

 

加筆🖌️20240317

オレね、岡田斗司夫と山田玲司との対談を観て、やっと「親ガチャ」を言う若輩者に同情したんだよね。

理解したとは言うまい、あくまで同情だと思うんだけど、大学落ちて浪人していた時の自分が置かれた状況と、瓜二つなのに驚きました。

たしかに、自殺寸前まで追い込まれたなと、苦々しく思い出しているのですよ。

大学に入れない、親が望む「学校🏫の先生」に成れない、「良い子」でいられないというのは、当時の私にはまさしく身の置きどころの無い、悲惨な生存状況だったのは確かだったんですよ、不幸にもそう思い込んでいたのは紛れもない事実です。

ただ、これご先祖(遺伝子🧬)からのメッセージなのか、神の恩寵なのか、その寸前に胸からなのか肚からなのか、物凄い生命のほとばしりが湧き上がったのね。

どれだけ凄いかとゆーたら、いままで打ち沈んで萎れていた私が、にわかにまったく突然に、果てしない「自己肯定感」が湧き上がって、その喜びにのたうち回るような事態に直面したのね。

おおげさだけど、光明体験(スパーク)とでも言おうか(冷静に後から振り返ったときの命名なんだけどね)…… 

こんな生命力が、おのれの身内に潜んでいたんだという純粋な驚き‼️だったわけ。

だから、わたしの場合と同じように「自己肯定感」に襲われない若者たちが可哀想になったわけね。

この「自己肯定感」は、動画で岡田斗司夫大人がいっている「自分が嫌いというメタ認知=自分が大好き」と等しいのではないかと思ったね。

やっぱり、自分を嫌いになれないのね。

だから、「親ガチャ」を言う気持ちが分からないのよね。

【ゲーム🎮に、人生の多くの時間を費やした人間(40歳代以下の日本人のほとんど)は、ゲーム🕹️に対する付き合い方が、おのれの人生に対する接し方とイコールになっているという指摘には、唸ってグウの音も出なくなった。

・自分の人生(=ゲーム)の、初期パラメーター(見た目、遺伝的な特徴、親の年収、住んでいる場所等)は納得のいくものに設定しておきたい。

ゲームはやめられるのにやり直せるのに、人生はやめられないっていうのは理不尽だという風に考えて当たり前じゃないかと。

死にたいと言っている人は、人生を辞めたい(🟰生きていたくない)と思ってるんじゃないですかね。

結果ださなかったら価値がないという刷り込み、つまり初期のOSを変えたい願望。成績が良くなければ、何かを買ってもらえない子どもが抱える「良い子症候群」とは、つまり「毒親問題」である。

・この人生(=ゲーム)やめたい、「これクソゲーだ!」しかし「ゲームチェンジできない」「リセットできない」という浅はかな思考回路。

・ゲーム🎮をしない人にとっては、到底理解できない、ゲーム脳🧠。

つまりゲームをやり込んだ人には本能の如く浸み込んでいる「面白くないゲームはやらない、こんなことやっていられない」という心情を理解できない。

こうした文脈から、「親ガチャ」という「初期OSにたいする不満」が出てくる。しかし、ゲームのようには初期パラメーターは変えることができない事を、理不尽なことと受け取る感受性(≒本能)。

ゲーム🕹️にのめり込まなかった50歳代以上には、到底理解できない心情である。】

 

_________

 

 

 

🔴 20240210

 

 親ガチャのアックンでも大丈夫

 

(上記にあるように、加筆🖌️したので、無意味になった部分を以下適宜省略します)

 

…… コノ世で自分のまわりを客観的によく見廻してみれば、「見えざるお蔭」に気づかないわけにはいかないでしょう。「親ガチャ」なんていう言葉が出てくるはずがないのですよ。

わたしは、「親ガチャなどという言葉を使う輩はけしからん」と思っているような人間だから、伊勢白山道を読んでいるのです。

「親ガチャ」を言う心持ちと、伊勢白山道とは相容れないものでしょう。

いくら若者がつかっていて、人口に膾炙されたものと言われても、わたしは認めません。

これに関しては若者に合わせる必要は感じません。

あなた方がどう生きるかは、ご自身の問題です。

「被害者意識で台無しにせずに」生き抜いてほしいものだと思っています。

ただ、年寄りのあいつはこう言い張っていたなと認識してくれれば、それで十分でしょう。

_________

 

 

❎ 20240212

 

 親ガチャ思想否定者より

 

自分の置かれた環境において、「見えないお蔭」のなかに、赤子の頃から全面的に親が世話してくれた「今は覚えていない恩」があるわけでしょ。

自分の赤子時代を想像できない人のために、古人の言を引用すると……

 

…… 当に幼穉(ようち)の時の事を憶い起すべし。

・父母鞠育乳哺の恩、

・顧復懐抱の労、

・撫摩憫恤(ぶまびんじゅつ)の厚き、

・訓戒督責の切なる、

凡そ其の艱苦して我を長養する所以の者…… 

 

《現代語訳》 人は誰でも、幼少の時の事を思い起してみるべきである。

・父母が自分を養い育てて乳を飲ませてくれた恩、

・反復自分をいたわり、懐に入れたり、抱いてくれた骨折(ほねおり)、

・なでさすったり、あわれんでくれた厚き情、

・訓戒したり、責めなじったりしてくれた親切心、等々、

凡そ父母が艱難辛苦して、自分を成長養育して下さった事など

[※  佐藤一斎『言志後録』川・上正光(訳)ーより]

 

 

 

…… 赤子がもっとも恐怖心を感じるのは「落下の恐怖」だそうです。まわりにいる親や兄弟姉妹は、赤子をあやしながら、落とさないように細心の注意⚠️を払い続けてくれたわけでしょ。

そうしたことを、まったく記憶にないからといって、「この親は外れだ、当たりだ」と、親を評定して、いま恵まれていない責任を親にかぶせる精神姿勢は、到底容認できないものです。

カジュアルに軽いポップ口調で言うことで、救われる子どもがいるというのも分からんではないが……

[※  筑波大学の土井隆義教授(社会学)は「この言葉は親を責める言葉ではなく、子が自分を守る言葉だ」と指摘する。とはいっても、親を責める事になることに何故気づかないのだろう。]

基本的に、親のせい家・先祖のせい神のせい、と進むベクトルは、伊勢白山道の「生かされている」感謝想起とは逆行するものです。

 

 

親ガチャだけじゃない、最近のネットスラングは非道いものばかりです。

片親パン、和室界隈、アフガキ、

負け組ランドセル、チー牛、

子供部屋おじさん、子供部屋未使用おばさん等

…… 格差社会と申しますか、持てる者が持てない者を差別するネットスラングばかりです。

小中学校の不登校生徒が30万人を越え、「引きこもり」は中高年を含めて150万人にもなります。

ひとことで、Z世代のネットスラングと言われますが、抑圧された「こもりびと」が創作したものも多いでしょう。

自分たちが抑圧されているから、より弱者に向かって差別的なのだろうと思います。

かるがるしく、それらのネットスラングをつかうのは控えたいものです。

_________

_________

 

 

やっぱり、いにしえの文人には、滋味掬すべきところが満載である。

先に引用した佐藤一斎は、「陽朱陰王(ようしゅいんおう)」とも呼ばれた陽明学の一大高峰であるが、実に味わい深い箴言を、後世に遺しておられる。

西郷南洲翁も熱中した『言志四録』より

性分の本然を尽くし、

職分の当然を務む

此くの如きのみ。

…… これなんか、職分(=ダルマ)と読めば、ヒンドゥー🛕の聖典『バガヴァット・ギータ』そのものであろう。

擬せんと欲すれば

即ち差う(たがう)。

…… 簡にして要諦をさらりと洩らす。作為でやろうという欲望を持つと、作為を思ったその瞬間に既に差し違えているとは、鍛錬によりわが身についたものしか、的🎯に中らないという入神の業を示唆している。

 

 

__ 今回、「親ガチャを口にする人」を非難したことから、コメントを連発して、結果他の読者から総スカンを喰らった形である。(あくまでも表層での出来事にすぎないが)

まったく頓珍漢な批判をしてくる読者は、拙稿をよく読みもしないで文句をつけてくる。

まったくの濡れ衣であり、そちらの読解力不足なのに、一方的に責められる。

この大理不尽!

この手応えの無さは、何かに似ていた。

今回、それが何なのか、ようやく気がついた。

 

ー禁煙🚭における、ニコチンの禁断症状に襲われるときに酷似しているように感じた。

 

不寛容であり理不尽である受け身の環境‥‥ 

これは、煙草🚬を吸えば即座に得られる快楽に、待ったをかけられたような塩梅なのである。

喫煙者からすれば、たしかにこれ以上の大理不尽はなきい、みずから禁断症状を全面的にうけいれて堪えているのだから。

だから、言われっぱなしの暴論を受け止めるだけで、自分の番(ターン)が来ないとき、これ以上の大理不尽はない。

つまり、応えの投稿をしても、ブログ主リーマンさんから不掲載にされる、無力感である。

よく似ているなと感心した。

禁煙🚭したときと、同じように凌げるということを、それは示唆していた。

なるほど、禁煙者は、途中でブツギレにされる投稿も平然と放棄できるはずである。

別の次元に移動するからである。

離見の見に、自分の主体を飛ばす感じだろうか。

仮想現実のマーヤー(幻影)から、一歩しりぞいて全体表裏を観る感じであろうか。

 

それにしても、ネット・コミュニティで所謂(いわゆる)「干される」というのは、禁煙🚭の味わいと相似だとは驚く。

禁煙🚭は、してみれば、ひとつの技術というか、境地である。小覚といいますか、次元移動といいますか。

意外なところにつながって、何やら「セレンディピティ」に見舞われた気分である。

気分がすこぶるよい。

くやしいが、また伊勢白山道に感謝申し上げねばならないようだ。

伊勢白山道のイビツさというものは、完全にクセになるんだよな、中毒なのかそぞろに心配になる。

リーマンさんに頼らず、自ら恃めばよしとしよう。

加筆🖌️20240317

理不尽なネットのコメント攻撃を嘆く前に、何故そんなにも烈しい口調で反論してくるのか、その根源に迫るべきだったのだろう。

いま、いたく反省している。

ただ、それぞれの置かれた環境の違いにはお互い「正しく認識しておく」べきだとは思った。

物心のつく頃から、ネットが当たり前の環境だった若者たちと、途中から IT環境に慣れなければならなかった年配者とは、その生き方(付き合い方)が根源的に異なるのだ。

今現在の思いとしては、「親ガチャ」というのは「生かされていること」への根源的な冒瀆のように思う。

被造物として、造物主へ文句をつけていることになると思う。「生かされていない」のなら文句つけてもいいだろうが、いまそれでも「生かされている」のは厳粛な真実である。

この年まで、生をえらび続けてきたことに満足している。未知とは恐怖でもあり希望(楽しみ)でもある。

       _________玉の海草

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 岡田斗司夫の “ ホワイト社会 ” 〜 どうして 【革命】 なのか

2024-02-04 00:53:31 | いまの世相

__ どこよりも自由な投稿空間である、伊勢白山道のコメント欄📝でも、3年ほど前から「不掲載」になることが多くなった。

ブログ主は、そうする理由を本記事のなかで、丁寧に説明してくれたが、なぜそうなるのか、なぜそうしなければならないのかがよく分からなかった。

「見ざる、聞かざる、言わざる」に徹して、よけいな言及は一切しないでくださいとの事だった。

個人を特定して、その危険思想を察知できるほどに精密になった 「AI による監視の眼👁️‍🗨️」のことなんだろう。

要するに、「ブログ存続のために」やむを得なく、そうせざるを得ないということであった。

 

今回、はからずも 「ダウンタウン事件」の、予想を超えて世間に波及してゆくのを眺めて、その裏表がハッキリと掴めたような気がした。

オタキング・サイコパスおじさん、岡田斗司夫のお蔭である。

 

「団塊の世代」75才位

   ↓

「ポスト団塊ジュニア」50才位

   ↓

「ミレニアム世代」 25才位

 

…… と三世代に渡って、受け継がれ、洗練化されてきた

 「リベラル・デモクラシー」 であって、

現在の主役 「ミレニアム世代」 は、昭和・平成の「生き方」に、あからさまな 「NO」 を突きつけている。

それの本質が、岡田斗司夫が 「ホワイト化」 と称しているものである。

 

かれが、それに加えて 「ホワイト革命」 とまで云っていることは、注目しなければならない。

「革命」 とは、それ以前の体制では想像すらできなかった価値観が、革命以後は 「あたりまえの価値観(生き方)」 になるという意味である。

戦前 「お上」 が絶対だったのが、戦後 「権利」「民主主義」 を覚えて、自由にわがままに、すべてに逆らうようになったのと、

いま始まっている「ホワイト革命」 とは、歴史的な転換点だということ。

これは、グローバルで圧倒的な外圧ということもあるが……

成る程と頷けるのは、それ以前とそれ以後の人口分布であろう。

第二次世界大戦・前後の日本🇯🇵における、価値観の大転換、まさに 「革命的な変化」 に優に匹敵する大変化が令和のいま起ころうとしているのだから…… 

それは、ただしく 「ホワイト革命」 といってよいだろう。

 

【荒川和久氏が作成した「年齢別死亡者数の長期推移」図】

 

スクショしたので、目を👀凝らさないと見えないのだが、

グラフ📈は、

ヨコ軸に1899年〜2067年までの4年毎の数値が記されている。

タテ軸は、30万人ずつ6段階で最高180万人まで表示されている。

グラフ📊の左側は、「太平洋戦争」 の間隙で仕切られていて、右側の 「現在」 の矢印がついた、タテの白線は、

2019年(この動画がアップされた当時)を指している。

 

このグラフ📉で、現在の2024年あたりを見てみると、

死亡者数は、150万人台に到達している。

つまり、

年間死亡者150万人越え(太平洋戦争時なみ)が、あと50年間は続くという 【推計】

となっている。

そして死亡者の70%以上は 「高齢者」 である。

【多死時代】が、既に到来している。

[※ 加筆🖌️ (20240227) 実際の話、

厚労省の『人口動態統計』によると、国内死亡者数は2022年に初めて150万人を超えて、2023年に過去最多を記録している。

2022年死亡者数ー1582033

2023年死亡者数ー159503 (2024年2月27日発表)

葬儀場は、今現在1週間待ちが普通のようです。新たな葬儀場の建設を予定している自治体が多いとの事。]

 

その結果、年齢別人口分布は、徐々に若年層が厚くなってゆくわけだ。

それゃあ、「ホワイト化」 が進むであろう。

なんということだろう。

 

 

__ 岡田斗司夫さんご自身がまとめられた、

「ホワイト革命」 の動画をリンクする。

【概要欄から、詳細を引用しよう。

> 2022/02/07

岡田斗司夫が今後訪れると予言するホワイト化社会。 それがどのようなものなのかを解説した本放送と2ndチャンネル含めた3本をまとめました。 コ○ナ、キャンセルカルチャー、ミュートと縦横無尽に解説しているため やや難解ですが十分お楽しみいただけると思います。

~~~~~~お品書き~~~~~~

0:00 コ○ナ戦争とホワイト革命 イントロ

2:30 日本は本当に清潔になった

5:46 コンビニのおにぎり

7:14 キーワード1  見た目は正しい

13:48 キーワード2  汚いものは正しくない

20:39 コ○ナは第三次世界大戦

29:20 メンタルのホワイト化

33:57 汚いものに本質がある

40:39 キーワード3  不潔なものは体に入れないようにする

43:06 (2ndチャンネル) ホワイト化みんなの証言

43:18 ミュートについて

43:50 ホワイト革命の世代差

44:25 上司のカラオケにモヤッとする

44:49 K-popアイドル

45:52 クジラの郷土料理

46:39 かつての街の中華屋の汚さ

47:03 ホワイト化社会が不安

49:10 コ○ナは第三次世界大戦part2

51:00 (本放送)80年代のCMよりわかること

53:02 進むミュート化

54:07 僕はホワイト化に前向き

56:14 錯綜する情報による死者

1:00:45 中年でさえ許されない

1:02:02 暴言もホワイト化対象 】

 

 

__ もはや、「ホワイト化」 の浸透は、わたしの日常生活にも及んでいるんだな。

今クールのドラマで、大好きで観ているのが

・『不適切にもほどがある!』

・『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』

のふたつは、もろに 「ホワイト化」 推進ドラマじゃありませんか。「❗️」がどちらにも付いているのが可笑しい。

【アップデート】 がテーマなんだよ、「社会のお荷物」 になりたくない主人公のお話みたいだね。

アップデートするのは、若者に合わせるためや追随するためではなかったんですね。

生き残るためにする、アップデートもあるんですね。

そう素直に思えたのは、いまは、現実が見えているのかも知れないなと思いました。

こう生きたいではなくて、生き延びるために、「生きられる」 選択をしようとしているのは、生命体としては正しい生き方ではないでしょうか。

とはいえ、ホワイト化というものは、私には抵抗のあるものではない。

平成の御代となったとき、昭和のおどろおどろしい靄がかかっていた 「霊的なバリアー」 がクリアになったのを肌で感じて、心底驚いた覚えがある。

それまでは、神社⛩️仏閣でも、なにかしら「呪い」とか「闇」 が建物や空間に染み付いていたものだ。漂う空気に澱みというか、奥行きのある落とし穴のような不気味さがあった。

平成を迎えたら(90年代になってから)、その類いの「うら悲しい」 ものや 「うらみの磁気」 が希薄になったような気がした。

それは、一面では情緒が薄まったような寂しさを内包していたのだが、昭和の情熱が薄められたようで少しイヤだったものだ。

しかし、『カラマーゾフの兄弟』 のような毒々しいまでの遺伝🧬的な粘着質の「怨念(生き霊)」 が、伊勢白山道の供養によって、薄められていたのが幸いしたのかも知れない。

お盆の時期に、きまって襲われていた「死にたくなるような意気消沈」 も、二系統のご先祖の墓を合祀してから、あらわれなくなった。

そんな、希薄な軽やかさ、ホワイト化は、昔求めて得られなかったものでもあった。

なんら問題はない。

ただ、本音のドス黒い塊はどうしたものかな?

わたしにも心奥にある「繊細さ」 を見て見ぬふりをして生きてきたツケも払わねばならんだろうな。

 

ホワイト化は、わたしの志向と一致する処もすくなくない、かならずしも逆らうものではないので、けっこう新しい世界🌍が開けるかも知れない。

でも、表面的な付き合いに終始しそうな気もするな。

ホワイト化は、いわば泥のついていない野菜🥦だからなあ。

本質はくらませないものだから、有機物(つまり臭い存在)としてどうなんだか、腐ったような臭さを嗅いで安心するような処もあるからなあ〜

一番キライな 「使い分け」 に追い込まれるかも知れんな。

まー、直面することが大事ですわ。

      _________玉の海草