下の記事のように震災当時教室に居た管理人が何故津波に飲み込まれたのかを
書きましょう。
震災直後はとにかく建物がグラグラと何回も揺れるので、教室の中を片付けたくても
それはできませんでした。外に出て、ご近所の方々と無事を確認しました。そして、
お隣の敷地で車のエンジンを掛けっぱなしで、ラジオをみんなで聴いていました。
そうすると、「今、女川(おながわ)に4メートルから5メートルの津波が来ました。」と
アナウンサーが叫んでしました。もし、その高さの津波だったら我が家もお終い、そう思いました。
家には、妻と長男が実家には母親が居るはずでした。そこで、とにかく状況を確認せねばと
思い、バイクに飛び乗って家へ向かいました。
すると、道には脱出する車が数珠繋ぎとなって大渋滞していました。しかし、海岸方面へ
向かうものはほとんど無く、スイスイと走れ、途中の橋に段差があったり、地面が液状化で
真っ黒になったりしていたものの家まで辿りつけました。
家には鍵が掛かっており、家人はおらず車も無いということで既に脱出したことを確認しました。
ただ、少し離れたところに実家があり、そちらも回って見なければと実家へ向かいました。
が、すでに魚市場の海面は数メートルも盛り上がり、実家への道にも海水は流れていました。
仕方なく自分だけでも逃れようとバイクで逃げ道を探しました。
途中、町並が流され、火事は発生し、瓦礫は押し寄せてきました。しかし、不思議と恐怖は
無かったと思います。あまりの非現実的な様子にまるで映画かCGでも見ているかのようでした。
脱出できるルートを探しながら走り回ったのですが、ついに行き場を失い、津波がやってきました。
それは水の壁ではなく、瓦礫の壁でした。家や船や自動車、何かの残骸が塊となって
押し寄せてきました。一番手前の車のルーフバーに飛びついて、そこからは何度も死地を
乗り越えて直線距離で約2キロメートル流されました。
ふと気が付くと立ち木が見えて、そこに捉れば助かるのでは、と必死で掴まえました。
そこは水の高さが低くなっていて、立っていられる深さでした。
そこからも必死の脱出と膝の高さの津波に入って来てくれた人達のおかげで、津波からは
逃れることが出来ました。
その後も、色んな幸運が有って、病院へすぐに担ぎ込まれ一命を取り留めたのです。
写真はその際のトリアージの札の現物です。

書きましょう。
震災直後はとにかく建物がグラグラと何回も揺れるので、教室の中を片付けたくても
それはできませんでした。外に出て、ご近所の方々と無事を確認しました。そして、
お隣の敷地で車のエンジンを掛けっぱなしで、ラジオをみんなで聴いていました。
そうすると、「今、女川(おながわ)に4メートルから5メートルの津波が来ました。」と
アナウンサーが叫んでしました。もし、その高さの津波だったら我が家もお終い、そう思いました。
家には、妻と長男が実家には母親が居るはずでした。そこで、とにかく状況を確認せねばと
思い、バイクに飛び乗って家へ向かいました。
すると、道には脱出する車が数珠繋ぎとなって大渋滞していました。しかし、海岸方面へ
向かうものはほとんど無く、スイスイと走れ、途中の橋に段差があったり、地面が液状化で
真っ黒になったりしていたものの家まで辿りつけました。
家には鍵が掛かっており、家人はおらず車も無いということで既に脱出したことを確認しました。
ただ、少し離れたところに実家があり、そちらも回って見なければと実家へ向かいました。
が、すでに魚市場の海面は数メートルも盛り上がり、実家への道にも海水は流れていました。
仕方なく自分だけでも逃れようとバイクで逃げ道を探しました。
途中、町並が流され、火事は発生し、瓦礫は押し寄せてきました。しかし、不思議と恐怖は
無かったと思います。あまりの非現実的な様子にまるで映画かCGでも見ているかのようでした。
脱出できるルートを探しながら走り回ったのですが、ついに行き場を失い、津波がやってきました。
それは水の壁ではなく、瓦礫の壁でした。家や船や自動車、何かの残骸が塊となって
押し寄せてきました。一番手前の車のルーフバーに飛びついて、そこからは何度も死地を
乗り越えて直線距離で約2キロメートル流されました。
ふと気が付くと立ち木が見えて、そこに捉れば助かるのでは、と必死で掴まえました。
そこは水の高さが低くなっていて、立っていられる深さでした。
そこからも必死の脱出と膝の高さの津波に入って来てくれた人達のおかげで、津波からは
逃れることが出来ました。
その後も、色んな幸運が有って、病院へすぐに担ぎ込まれ一命を取り留めたのです。
写真はその際のトリアージの札の現物です。
