筑波峯(TUKUBANE)

奈良学友会(奈良大学文学部文化財歴史学科同窓会)関東支部報

琵琶湖 湖上研修に参加して

2010-08-15 08:06:43 | 旅行
 8月9日(月)に実施された、奈良大学 琵琶湖上スクーリングに参加してきました。この湖上スクーリングは、坂井研究室と奈良学友会が主催する行事です。
 私が、この研修に参加した理由は、自動車や電車で旅行することが多い私にとり、琵琶湖は通過点でしかありませんでした。しかし、関心がないわけではありません。時々沿岸の三井寺や石山寺は訪れることがありますが、
琵琶湖全般については無知といってもいいほどの知識しかありません。そこで、この研修のことを本部から連絡を受けた時、これ幸いと田舎の叔母を訪ねる理由にかこつけ妻とともに参加したのです。
 当日は、曇り空の不安定な天候でしたが、前日までの猛暑と比べすごしやすい研修日でした、
 午前9時、大津港に集合しました。すでに、沖田会長や横地副会長をはじめ本部役員は、受け付けの準備などに追われていました。9時30分、受け付けも無事終了し、総勢46名参加の湖上スクーリングが始まりました。
乗船する船は、「megumi」号といい、昨年から就航したイベント専用の船でした。


船内も広く、透明な椅子が置かれるなど、イベントや研修にお誂え向きの船でした。



湖上スクーリングは、奈良大学 坂井 秀弥教授のあいさつで始まりました。


初めに、滋賀県文化財保護協会の大沼 芳幸氏から、比叡山や近江八景、堅田沖の琵琶湖大橋、浮御堂などの名所や景観の説明がありました。
続いて辻川 哲郎氏により、第一講「琵琶湖の湖上水運の歴史」が行われました。
講義の内容を要約すると、琵琶湖の水運は、最も栄えた古代。中世、西回航路の開設で水運が衰えた江戸期、陸上交通が水運に変わった現在と三つの時期に分け水運の歴史を話してくださいました。
古代から中世まで、機内はもちろん、北陸や東北地方の物資は一旦敦賀や小浜など日本海側の港に陸揚げされました。さらに、山越えをして、塩津や今津の港に運ばれ、湖上を通り大津や坂本のあたりに陸揚げされ、京都、大阪、奈良の都に運ばれていました。その結果、琵琶湖には莫大な利権が発生し、それをめぐり多くの歴史遺産が残されました。古代では、湖上輸送の安全と繁栄を願い、沖島は竹生島をはじめ多くの寺社仏閣が開かれました。今日でも琵琶湖沿岸に多くの国宝や重要文化財の寺社や仏像が残されています。
 中世では、織田信長をはじめ豊臣秀吉など時の権力者が、琵琶湖沿岸に、安土、長浜、坂本城を築き水運の安全を確保するとともに、利益の独占をはかり、自らの政権の確保を図ったということです。
しかし、江戸時代に入り、西回り航路が開設されると、安価の西回り航路と比べ山越えによる輸送費の高さが嫌われ次第に琵琶湖の水運は衰えて来たのです。明治時代、陸上交通の発達により、琵琶湖の水運はすっかり衰えてしまったとのことです。
 地元の人は、幾度となく日本海側と琵琶湖と運河で結ぶ計画を立てましたが、工事も難しさとともに費用の問題で立ち消えになってしまったのだそうです。
 そうこうしているうちに、船は沖島に到着しました。
 沖島は、湖上にある島の中では唯一人が定住している島です。限られた島の中では住宅が軒を重ね独特な路地を形成していました。
 沖島は、また、航路の関係もあり、湖上の関所という役割がありました。その関係で、島の中心には神社が安置され、奥の院まで登ってみると、琵琶湖の対岸がよく見渡すことができました。




沖島の散策を終え、再び船に戻りました。船では豪華なお弁当が出されました。写真に撮っていなかったことが残念です。
 昼食後、第2講「城の国近江」が大沼 芳幸氏により行われました。講義の内容は、小田信長を中心に、なぜ浅井氏が滅ばされたのか、また安土城が琵琶湖に面して築城されたのかを、琵琶湖の水運の利権を絡めて講義されました。
 中世、琵琶湖の水運は当時の輸送量の半数以上を独占するほど利益が上がっていたのです。浅井氏が信長に反旗を翻したのは、水運を独占する浅井氏の利権が信長に奪われるという不安からだと言われました。
ほどなく船は竹生島に着きました。
 竹生島は琵琶湖の信仰を象徴する島です。信仰の中心は弁財天で、琵琶湖弁財天と呼ばれるように8本の手と弁財天の顔の上にもう一つ顔があるという独特の形をしています。


しかし、せまい島内にひしめきあうようにある寺社のため、移動は急な坂道が多く疲れてしまいました。売店でのアイスは疲れをいやす清涼剤でした。とってもおいしかった。


竹生島の出航は波が荒くなった理由で予定より早くなりました。
第3講は、瀬口 眞司氏により「琵琶湖の湖底遺跡」サブタイトル「日本食文化の原型」で行われました。
講義の内容を要約すると、琵琶湖の湖底遺跡は「粟津湖底遺跡」を例に、遺跡として空気に触れにくい特殊な環境にある。動物の骨、木の実の殻などが保存状態が良いままで残されているのだそうです。
この遺跡を中心に残された遺物を分析してみると縄文時代の人々の食生活の様子を知ることができるのだそうです。
その結果、動物たんぱく約11パーセント、魚介類37パーセント、植物質52パーセントと現在の平均的な日本食に近い割合であることが分かったそうです。そこで、このサブタイトル「日本食文化の原型」と明示した理由が語られたのです。
 船は白髭神社の湖上鳥居のそばを通りました。


前日この神社の前を通ったのですが、船上から見る神社には一層神々しさを感じAざるをえませんでした。
最後の湖上スクーリングでは、大沼氏は、比叡山、琵琶湖そして弁財天は日本の信仰の中心である。今日でも、各地に琵琶湖を模したものがあります。琵琶湖を模した池には必ずと言っていいほど弁財天を祭るお堂がある。そのお堂を設けることでその地方の安全と繁栄を願っているとのことです。そう言われれば私が住んでいる場所でも小さな池と弁財天の祠を身近に見ることができるのです。大沼氏が力説することはもっともだと納得してしまうのです。

 4時30分ごろ大津港に帰港した。途中、船上で大雨にあったが、真夏の暑さを避けた心地よい湖上スクーリングでした。
 沖田会長、横地副会長をはじめ本部役員の方々には事前準備を始め当日の諸準備大変だったと思います。無事に終了することができたのも皆様のおかげだと思います。
 楽しい湖上スクーリングを過ごすことができました。ありがとうございました。
長い駄文で、読んでいただいた方には申し訳なく思います。

≪追記≫
ブログ内容を訂正いたします。
琵琶湖上スクーリングは、坂井先生に滋賀県文化財保護協会からお話が来たことをうけ、奈良学友会と坂井先生が中心になり企画、運営した行事です。
また、この研修は単位の認定はありません。
不確かな内容を掲示し、奈良大学をはじめ坂井研究室、奈良学友会の皆様に大変ご迷惑をおかけいたしました。申し訳ありませんでした。
また、ブログをお読みになった方々に間違った内容をお知らせしたことを深くお詫びいたします。