直木三十五記念館の日々

直木賞にその名を残す直木三十五の記念館は市民参加型のミュージアム。運営の悪戦苦闘をストレートにお伝えします。

直木のペンネームについて

2006年01月25日 | Weblog
 直木賞関連であちこちのブログで直木三十五の紹介がされている。その多くがペンネームの変名について触れている。なぜかすべて同じように間違っているのが不思議である。
 ペンネームの変名については諸説あるのでこれが正解というのは危険ではあるが、客観的な部分をまずは記す。はじめに直木を使ったのは大正11年。この時に「直木三十一」として時事新報に月評を1編書いた。「三十二」は大正12年の文芸春秋の創刊号と翌号に2編書いている大正12年3月号から大正14年までは「直木三十三」として2年あまり執筆をしている。大正15年くらいから「三十五」を名乗っている。

直木本人は次のように書いている。
「筆名の由来──植村の植を二分して直木、この時、三十一才なりし故、直木三十一と称す。この名にて書きたるもの、文壇時評一篇のみ。
 翌年、直木三十二。この年月評を二篇書く。震災にて、大阪へ戻り、プラトン社に入り「苦楽」の編輯に当る。三十三に成長して三誌に大衆物を書く。
 三十四を抜き、三十五と成り」

 「直木三十四」は存在するという説は元東洋経済の記者で企業家の伝記などを書いているライターの檜山さんから聞いたことがあった。実際に「苦楽」に目次だけ「直木三十四」で本文が「直木三十三」とあるものを見つけた。これから考えられることは編集者が「直木三十四」とあったものを「三十三」と書き換えたのではないかという仮説である。
いくらなんでも編集者が勝手に「三十五」に増やすことはしない。つまり「三十四」と活字組みされたゲラでも見て「直木先生は三十四じゃなくて三十三だ」と校正したのではないかということ。
 加えて、直木は菊池寛に変名について「いい加減にしたらどうか」と言われていたふしがある。一度「三十三」でとめたが、字が重なるのは縁起が良くないとか、「三十三」は「さんざん」であるとか、諸説あるが、聯合映画芸術家協会でのつまずきや、あまり良い状況が続かないことなどからも改名して「三十五」で落ち着いたと考えらえる。「三十六」については止めおきたいと「三十三」の時にも試みているので考えられないと思う。
 他に映画評論は「直木弘之」で書くと宣言したこともあるし、昭和6年に「村田春樹」で文芸春秋に「太平洋戦争」という小説を書いている。他にもプラトン社時代に「竹林賢七」「香西織恵」「閑養軒」を使ったのは同じ号に直木が何度も出てくるのを避けるためと考えらえる。


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1 コメント

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コラムへのTB感謝します (goshu1008)
2006-01-25 23:21:25
事務局長様、弊ブログにコメントとトラックバック頂戴いたしましてありがとうございます。

他にもペンネームを使ってモノを書かれていたというところまでは初耳でした。

弊ブログにもこちらのTBをさせていただきますので、よろしくお願い致します。
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