直木三十五記念館の日々

直木賞にその名を残す直木三十五の記念館は市民参加型のミュージアム。運営の悪戦苦闘をストレートにお伝えします。

お金のこと

2006年01月26日 | Weblog
 このところニュースはライブドアのことばかり。私自身も興味深く見ているのは事実である。お金のことは人間誰しも興味があるということか。
 
 植村鞆音氏の「直木三十五伝」にも詳しくあるが、直木三十五という人は、件の堀江貴文以上に事業欲の強い人間であった。翻訳、出版、映画、美術およそ大正末期から昭和初期に考えられる文化的な事業にすべからく手を出して多額の借金を抱えて失敗をしている。きっと現代に生きていたならインターネットにいち早く注目してネット配信の著作権管理会社とかを早々に事業化していたのではないかと想像する。
 成功と失敗の差がどこにあるかは不明である。ホリエモンが成功者といえるのかも今となっては如何ともしがたい。直木の事業の失敗には私生活のだらしなさが原因している部分が大いにある。しかしながら直木には「新しいもの」を「本物」を世に示したいと考えていた高い志だけはあったように思う。
 
 直木の人生は「金」のことばかりに終始した人生のように言われる。確かに金の苦労は多かったようであるし、本人は何かにつけて金にまつわることを書いている。しかし直木の金にまつわる話に嫌らしい部分は少ない。唯一あるとすれば、鷲尾雨工が書いた「直木三十五の美醜」に書かれている、木挽町の文芸春秋倶楽部を訪れて金の無心をする際の直木の鷲尾に対する対応ぐらいである。これも後の研究によると直木は実際に金がなかったのでそっけない態度を取らざる得なかったという説や、鷲尾にはいずれちゃんとと思っていたのではないかという説もある。
 
 いずれにせよ、直木はあれだけ「金」と言う割にはカラッとしてジメジメした部分を感じないのは確かである。個人の資産が有り余るほどあってマネーゲームをやることや、六本木ヒルズに住んでフェラーリに乗ったり、自家用ジェットを所有するより、借金取りに追われて、原稿を書きまくり、文壇一高い原稿料をまた無駄遣いに浪費し、昭和初期に運転手を抱えて自家用車を所有する直木三十五の生活の方に憧れを感じてしまう。

 実はお金のことで切実なのは記念館の方である。年間の運営費はせいぜい250万円から300万円の間であるがその費用が単純に賄えない状態である。任意団体の悲しさではあるが、ある意味大阪のパブリシティとしてはもう1千万円くらいの価値があると思う。経済効果を誰も測定しないが、これはもっとすごい気がする。そういう意味では自分たちの正当な価値を世に問えない私達と粉飾してでも虚構の価値を金に変換できる彼らの差って何であるのか。


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