わたしのことを必要としていない方に手をさしのべてしまい、後でドッと疲れることがあります。
わたしは良かれと思ってとった行動なのですが、相手に喜んでもらえないばかりか、
エネルギーを奪われるような感じがしました。なぜこんなふうに感じるのでしょうか?

自分のことを必要としていない者に手をさしのべると、喜んでもらえないばかりか、
逆に相手にエネルギーを奪われてしまう。なぜこのようなことが起こるのか?
それは必要としていない者にとって、そちの存在が実際以下の扱いになるからなのじゃ。
相手にまったく悪気はないが、そのようになってしまう。
これは必要ないものが自分に入ってこないようにするための防衛反応のようなもの。
これも自分を守るために大切なことなんじゃよ。
ゆえ、相手がそちを必要としていない時は、手をさしのべず、見守ること。
必要とされた時に、はじめて手をさしのべる。その見極めが大事。
これは子育てにも言えることじゃ 。
親は良かれと思って、子供にあれこれとおせっかいをやく。
子供が失敗しないように、子供が傷つかないようにと、先手先手で手を打とうとする。
しかし親がおせっかいをやけばやくほど、子供は「うるさいなぁ。」という顔をしよう?
親子の間で嫌な雰囲気が漂う。
親は「親の愛を子供は分かっていない。」と思おうが、これは本当の愛ではないのだよ。
本当の愛とは、子供の中に内在する力を、親がどれくらい信頼してあげられているかなのじゃ。
親が先手先手で手を打つのは、
「うちの子には、そんなことを乗り越える力はない。」と無意識に思っているからなのじゃ。
つまり子供の力を信頼していないということ。
分かるかね?
子供が困るまでは見守る。困った時に、手をさしのべる。
見守るということは、忍耐がいる。
本当にその者を信頼していなければ、見守ることができないのじゃ。
見守るということがどれくらい深い愛か分かるかね?
『人を救う』というのは、目の前で困っている人に誰彼かまわず手をさしのべることではない。
相手が困って助けを求めた時に、はじめて手をさしのべる。
それまでは相手を信頼し見守ること。
見守るとは、ほったらかしにすることではない。
適度な距離で相手を見守ることなのじゃ。
その行為は祈りに近い。
相手がそちを必要とした時に手をさしのべると、
そこには自分も相手も潤うよきエネルギーの渦がまく。