今日は、
前回のブログでお伝えしました、
「日本人拉致人質事件」について対話した内容を、シェアしたいと思います。
『祈りは送るけれど、あの映像は見たくない
これは現実から目をそむけているんだろうか?』
わたしのこの問いについて、このようなメッセージが聴こえてきました。
◆ ◆ ◆
目をそむけようが、
ずっと見つめ続けようが、
その事実を知らないでいようが、
いろんなことがこの地球で行われているんだよ。
「確かにそうですね」
だとするならば、
『あなたはどう生きる?』
それだけを自分に問えばいい。
「自分がどう生きたいか?」
そう。
『助かってほしい』
『悲惨な現実は見たくない』
『どうしたら世の中を変えられるのか?』
『どうしたらこんなことがなくなるのか?』
いろんな問いが浮かぶだろう。
だけど、答えなんか出ないよ。
どれも自分一人では、大きすぎる『問い』だからね。
だけど、
『自分はどう生きたいか?』
なら、みな自分に問いかけることができるだろう。
この答えは、人の数だけある。
時に、生き方に迷う人もいるだろう。
生きている意味をみいだせない人もいるだろう。
「いるでしょうね」
その人も『自分はどう生きたいのか?』
ということを、実は模索しているんだよ。
「そうかもしれませんね」
祈りを送りながら、心配ばかりしたり、
無力感を感じ、苦しくなるのではなく、
『自分はどう生きたいか?』
と改めて考えてみる。
そしたら、悩むのではなく、
悲観してそこに意識が留まり続けるのでもなく、
現実『今ここ』に戻ってきて、
自分の答えを見つけられるだろう。
◆ ◆ ◆
いかがでしたか?
わたしはこのメッセージを聴いてから、
テレビの映像に影響をうけすぎずに、
自分の中心に戻ってくることができました。
「自分はどう生きたいのか?」
というメッセージが、この映像を見ているすべての人に、
なげかけられているように感じました。
今回の悲劇が起こったのは、
「一人一人が、『これが善だ』と思っていることが
違うために起きた悲劇」
とも言われていました。
『これが善だ』と思う事が、一人一人違うという話は、
最近
「高校二年生の方からのご質問」で、お伝えしました。
今回の出来事で言えば、
ジャーナリストの後藤建二さんは、戦乱が続く地域で、
苦しい生活をしている市民の声を世界中に伝えるために、
活動をされていました。
この活動に使命感を感じられ、今自分ができることを
されていたのだと思います。
そんな中で、拉致された友人を助けるために、
自ら危険な地域に飛び込んでいかれました。
これが後藤さんにとっての『善』だったのだと思います。
後藤さんのご家族の方からすれば、きっと
「そんなことしなくてもいいから、生きていてほしい」
と願っておられたと思うんです。
誘拐した側にも、わたしたちでは想像もできないような、
なにかしらの「これが善だ」と思う理由があるのでしょう。
国や時代、人によって、『これが善だ』と思っていることが違う。
これは、今回の事件にだけ言えることではなく、
わたしたちの日常の人間関係の中でも言えることです。
お互いに『これがいいことだ』と思っていることが違うと、
もめごとが起こったり、『分かってくれない』と不満がでることがあります。
人はよく観察しないと、分からないことがいっぱいあります。
考え方が違う場合は特に、相手を観察し、相手をよく知ることが
とても大切なことだと、わたしは思います。
まずは身近な人間関係の中で、『これがいいことだ』と
思っていることが違うことによって、トラブルになっていることはないか?
振り返ってみたいと思います。