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仮面

2013年03月25日 | 研究
仮面をかぶって変身するということと、仮面を使用せずに変身するということとでは、変身そのものの意味が違うのではないか、ということである。仮面そのものに少々こだわったいい方になるかもしれないが、仮面をかぶる変身には仮面の下に「原型」があるということ、換言すれば変身以前の元の「身体」があるということを、一応前提にしている。かれが元の身体に戻るためには、仮面を剥ぎとればよい。仮面をとっても身体がもとに戻らなかったり、あるいは仮面そのものが素面になったりしてしまったりする場合が、生理的にも心理的にもありうるが、それは今は例外的現象として除外する。ところがこれにたいし、仮面を使用せずに変身するということは、原型としての「身体」そのものが変形するということであって、たとえば身体が獣や鳥類の身体性を獲得するということを意味する。比喩的にいえば、ギリシャ神話のミノタウロス(牛頭人身)、またヒンドゥー神話のガネーシャ(象頭人身)などは仮面を媒介とした変身像であるが、同様に世界の伝説圏に広く分布する人魚や人頭蛇身の怪物は、仮面をもたない変身像を代表する。     『霊と肉』(山折哲雄)

仮面論という学問ジャンルがあると聞くが、仮面をメディア技術と見れば仮面論はメディア論と言ってもよさそうである。自動車に乗ると人が変わる。自動車は「仮面」である。仮面によって本来の自分とは別のキャラクターを身につける。機械技術を身にまとって生きた近代人にはもともとの「原型」が残っていた。機械文明において人が「疎外」されていると感じたのは、この残っていた「原型」のせいである。機械を捨てれば元の「原型」に戻れると感じたのが機械文明であった。一方、電気技術は「仮面を着用しない」変身をもたらす。電気技術は生身の身体と完全に一体化して、もともとの「原型」は失われる。マクルーハンのいう感覚比率の調整あるいは感覚麻痺とはこの原型が失われることでもある。その結果、いったん身につけた電子メディアを捨てることは自分の身体の一部を切断するに等しい。電気技術のもとでは「人間の疎外」は起きない。疎外は起きないが「強いられる」変容はむしろ大きい。
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