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『1984』

2013年03月20日 | 研究
美しいことだね、言語の破壊というのは。むろん最高の浪費は動詞と形容詞にあるのだが、同じように始末すべき名詞も何百とあるね。同意語ばかりじゃない。反対語だってそうさ。結局のところ、ただ単に或る言語と正反対の意味を持つだけの言葉なんて、一体どんな価値があるというのかね?一つの言葉はそれ自体、正反対の意味を含んでいなくちゃならん。たとえば"good"の場合を取り上げてみよう。"good"みたいな言葉があるなら、"bad"みたいな言葉の必要がどこにあろう。"ungood"で十分間に合う-いやその方がましだ、まさしく正反対の意味を持つわけだからね。もう一方の言葉はそうじゃないんだ。あるいはまた、もし"good"の強い意味を持った言葉がほしければ、"excelent"とか"splendid"といったような曖昧で役に立たない一連の単語を持っていても仕方がない。"plusgood"(plusはラテン語で英語のmoreに当たる)という一語で間に合う。もっと強い意味を持たせたければ、"doubleplusgood”といえばよい。もちろんわれわれはこれらの方式をすでに使っているが、しかし新語法の最終的な表現では、これ以外の言葉は存在しなくなるだろう。結局、良いとか悪いとかの全体的な概念は僅か6つの単語で-実際はたった一つの単語で表現されることになるだろう。君には分からないかね、そうした美しさは、ウィンストン?もともとはBB(Big Brother)のアイディアなんだよ、断るまでもないことだが。

                                           『1984』(ジョージ・オーウェル)

『1984』には、人々の思想を統制するために「印刷された記録」を日々書き直すイングソック党職員の様子が描かれている。記録は新語法(ニュースピーク)で書かれる。新語法ではコンピューターのコマンドのように人々に想像力を働かせないよう単語の意味は厳密に定義され、数は制限される。印刷されたものだけが真実であり、その記録が廃棄され、新しい記録が取って変わることによって「真実」は更新される。「書かれたもの」だけが真実であるという、印刷文化の本質が鋭く描写されている。いつの時代も、どこの国でも官僚組織は言語に箍を嵌めようとし、詩人と芸術家は言語の奔放さを取り戻そうと闘っている。
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