会津の鋸鍛冶屋です。目立てを習得して頂きたく、Youtubeに目立て関係の動画をアップしています。お目通し下さい! 

目立てを身に付けたい方に仕事場にて実習支援しています。勿論、無料。
メールからの日程調整を致しましょう。

三月に続いて、京都から!

2019年10月22日 17時58分44秒 | 鋸目立て

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高所恐怖症を克服するなら、空師に成れ!

 樹の上に教わる人。

この3月に京都から単独で来宅したのは、栃木県での伐採作業を指導する「ついでに」と、

理由付けが上手い 津川さん。

伝左衛門の地酒誘いに乗っかり、ホテル外出となったばかりに、度がすぎた地酒4種。

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今回、10月8日の来宅の目的は、京都で「のこぎり屋」を経営している人を紹介する為との事。

昨年に存在を知った時は驚いた。 経営が成り立つのか? と、若者が何故!

お断り理由もなく「来る価値があるなら」と、了承したのですが後日のメールで

強力な おまけが付く事を知り、驚きは吹っ飛んで、待ち遠しくなりました。

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3月の地酒コミュニケーションの様子を聞いた、お父様が「行きたかったなぁ」と

おっしゃった事をLINEで知らせられていたのですが、若い者が二人で会津に行くのを、同行チャンス ! 

私にとっては願ってもない おまけ に成った。

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津川造園の仕事が「東京であるから」次の時は「栃木で・・・・」等で親子での来宅があり

山仕事や気候による樹木の違い等を、鋸を扱う立場で話して下さり、勉強させられていました。

お会いしたい。会話時間を持ちたい! と思っても、京都と会津では距離がありすぎる。

 

写真がある。近所の道路沿いの赤松を「いい松ですね」と おっしゃった事で、その松の前を車で

通過する際は、必ず思い出す事が出来る。

お会いしなくても自分の中には、常に意識している存在なのだから「これで いい」でした。

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ところが、ところが、あの津川氏が同行して下さる事になってしまったとは!

悪いけど! 若い二人はおまけになってしまいました。

居酒屋探し! 「京都並みに」は我が意識から除外して、決定~予約。

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そして、当日。

高速道路の工事も無く、予定より早い時刻で明るい時間帯に到着。

初対面になる 須藤さんとの挨拶は後回しで、津川氏との再会挨拶を。 そうして、見られたくはない仕事場に。

須藤さんの要望の一つ、 銘切りを主とした時間いっぱいを使い、ホテルのチェックインへ。

時間を見計らって、私が迎えに行くスケジュールで一旦お別れ。

 

腰養護に寝姿でメールチェック。  訃報が届いていた!

一気に滅入ってしまった。 写真を出し、ご冥福を祈った。 (この件は、別のページに記すことにする)

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気持ちを明るくしましょう!

津川さんの息子さんが、スマホで見やすいホームページを立ち上げました。 

ただ今、クレヨンサイトのイベント中で、ボタン投票で 一点です。

まどのこ屋 」  応援して下さいませ。

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私の師匠、深沢一二氏を想う。

2019年10月18日 12時41分17秒 | 日記

 

えっ 深沢勝次!

横の席から驚きの声と表情で私に視線を向けたのは、会津地酒目的のテーブルに座している、今日が初対面の S君。
伝左衛門さんの お師匠さんは三条のどなた?」 の問に答えた時。


驚きの度合いは、私の方が大きかったと思う。


26歳の若者の知識に、鋸鍛冶屋に関する点が有ったとしても、私の師匠銘が有るとは、

全く予期していなかっただけに、大きな驚きだった。

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師匠の本名は、深沢一二(カツジ)氏。
私が最も尊敬する人格者です。

[深沢巻き]の頭的存在で三条鋸鍛冶屋活動を牽引していた印象があります。

[深沢巻き]とは、1,758年が初代の 深沢伊之助の系列鋸鍛冶屋をいいます。

 

昭和38年4月1日に住込みの弟子として修行が始まった私です。
当初は厳しく怖い師匠としか捉えられませんでしたが「短期間で1人前にする!」。

この師匠の気持ちが、元にあるが故のきつい言葉、強い指摘だった事で、高卒直後の私は

怖い師匠さんだ!」としか思えませんでしたが、徐々に理解出来るようになりました。

4年半程度の修行で親元に戻り、父親とは分けて両刃鋸の製作に入れたのは師匠に特異なものが有ったからです。

当時の深沢巻きでは考えられないような弟子への指導を戴くことが出来たからに他なりません。

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ある資料に、F工場の工程が記されている。

明らかに、深沢でしょうね。

 タップで拡大。

内容は勝次師匠そのものです。

これらの工程で弟子が「させて貰える」のは、鋸の仕上がりに影響を与えない工程であるのは、誰もが知るところです。

然し、勝次師匠の意識は深沢巻き親方衆が驚くものでした。

三条市島田地域には、七代伊之助家を始め、寅次郎、達次、清吉、そして勝次の鋸鍛冶屋が隣接しており、

職人さん達との交流が親しく出来た中で、「そんげ仕事してんのかね!」等と言われて、

私が「させて貰っている」仕事は、弟子が手を出す工程では無い事を知りました。


[この仕事は、後の仕事をやり易くする為]

例えば、厚みを一気に仕上がり状態には出来ません。削りと直しを交互にしなければなりません。

熱処理後の一回目の狂い直しを疎かにして鋸身を削ると、二回目の狂い直しに苦心します。

三回目、仕上げ・・進むほどに困難になります。 弟子に対して言葉で指導しても、到底 理解はできません。

勝次師匠の指導方法は画期的といえます。

元来ありえない「先の工程を実践させること」で理解させようとした事です。

そんな弟子生活の中で、周囲の職人さんからの「そんげ仕事してんのかね!」でした。

こんな事も

<中屋庄兵衛が会津の中屋重左エ門に師事し、1842年に脇の町(現・長岡市)にて創業しました>

深澤巻きの親方衆が、脇野町の鋸工場視察に出向く際に「おめぇさんも、行くかね?」と、お誘い頂きました。

あり得ない事と分かったのは、同乗の伊之助氏から「行くんかね?」を耳にした時。

勝次師匠は最年長者でもありましたので異論はなく、弟子の分際での同行となりました。

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革新的な考えの持ち主である事は、このブログを目にしている方々が理解できたと思います。

この師匠なくしては、己は無い! と自覚しつつの 半世紀越であります。

合掌