「えっ 深沢勝次!」
横の席から驚きの声と表情で私に視線を向けたのは、会津地酒目的のテーブルに座している、今日が初対面の S君。
「伝左衛門さんの お師匠さんは三条のどなた?」 の問に答えた時。
驚きの度合いは、私の方が大きかったと思う。
26歳の若者の知識に、鋸鍛冶屋に関する点が有ったとしても、私の師匠銘が有るとは、
全く予期していなかっただけに、大きな驚きだった。
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師匠の本名は、深沢一二(カツジ)氏。
私が最も尊敬する人格者です。
[深沢巻き]の頭的存在で三条鋸鍛冶屋活動を牽引していた印象があります。
[深沢巻き]とは、1,758年が初代の 深沢伊之助の系列鋸鍛冶屋をいいます。
昭和38年4月1日に住込みの弟子として修行が始まった私です。
当初は厳しく怖い師匠としか捉えられませんでしたが「短期間で1人前にする!」。
この師匠の気持ちが、元にあるが故のきつい言葉、強い指摘だった事で、高卒直後の私は
「怖い師匠さんだ!」としか思えませんでしたが、徐々に理解出来るようになりました。
4年半程度の修行で親元に戻り、父親とは分けて両刃鋸の製作に入れたのは師匠に特異なものが有ったからです。
当時の深沢巻きでは考えられないような弟子への指導を戴くことが出来たからに他なりません。
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ある資料に、F工場の工程が記されている。
明らかに、深沢でしょうね。
内容は勝次師匠そのものです。
これらの工程で弟子が「させて貰える」のは、鋸の仕上がりに影響を与えない工程であるのは、誰もが知るところです。
然し、勝次師匠の意識は深沢巻き親方衆が驚くものでした。
三条市島田地域には、七代伊之助家を始め、寅次郎、達次、清吉、そして勝次の鋸鍛冶屋が隣接しており、
職人さん達との交流が親しく出来た中で、「そんげ仕事してんのかね!」等と言われて、
私が「させて貰っている」仕事は、弟子が手を出す工程では無い事を知りました。
[この仕事は、後の仕事をやり易くする為]
例えば、厚みを一気に仕上がり状態には出来ません。削りと直しを交互にしなければなりません。
熱処理後の一回目の狂い直しを疎かにして鋸身を削ると、二回目の狂い直しに苦心します。
三回目、仕上げ・・進むほどに困難になります。 弟子に対して言葉で指導しても、到底 理解はできません。
勝次師匠の指導方法は画期的といえます。
元来ありえない「先の工程を実践させること」で理解させようとした事です。
そんな弟子生活の中で、周囲の職人さんからの「そんげ仕事してんのかね!」でした。
こんな事も
<中屋庄兵衛が会津の中屋重左エ門に師事し、1842年に脇の町(現・長岡市)にて創業しました>
深澤巻きの親方衆が、脇野町の鋸工場視察に出向く際に「おめぇさんも、行くかね?」と、お誘い頂きました。
あり得ない事と分かったのは、同乗の伊之助氏から「行くんかね?」を耳にした時。
勝次師匠は最年長者でもありましたので異論はなく、弟子の分際での同行となりました。
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革新的な考えの持ち主である事は、このブログを目にしている方々が理解できたと思います。
この師匠なくしては、己は無い! と自覚しつつの 半世紀越であります。
合掌