祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第59回(三学年の後期 バークレー小学校に就職 )

2011-12-17 14:05:54 | 日記
58.三学年の後期 バークレー小学校に就職 


 一月開始の三学年後期に入って、私がオークランドの夜学校をやめたのは、バークレー日本人会で在留者二世のために小学校を開校することになり、森幹事(加大商科中退で親友)からの懇請で、やむなく引き受けることになったのである。

 学校といっても二室ばかりの古い家を借り入れて、椅子二十脚ばかりと黒板一つという寺子屋式の学校であった。

 生徒は募集の結果、男女児童十五,六名だった。放課後の授業だった。

 児童は皆公立小学校の通学生で、十二歳位から八歳位の年齢で英語は上手に話せるし、日本語も殆ど親の話すのを聞き覚えて、一通り話せるが、本や字が解らないので、文部省読本をシスコ市の本屋に注文して取り寄せ、読書を中心に授業した(シスコ市には早くから小学校がある)。

 半分英語、半分日本語という教習だが、話せるのだから進歩も早く片仮名、平仮名を覚えてしまえば、中々上手に作文も書けるようになった。段々簡単な漢字も教えたので上達も早く二年級程度以上の学力になった。

 米人のシャープ(Sharp)というバークレー在住の母親が或る日小学校を訪れて、桑港の総領事館から子供の十一歳のシャープを入学して面倒をみてやってくれという紹介状を持って来たので学習を許可した。この子は特別扱いで、簡単な挨拶の言葉から始めて、日会のタイプライターを使って書いてやり、説明や簡単な文法等や構文なども作ってやったから大変な仕事だった。子供は言語を覚えることが早く、日本人の子供がペン習字や作文を作っている間に教えるのだが、一緒に机を並べておるので何時の間にか、教えないような言葉をも覚えて進歩も早かった。

 一月から六月までの一学期が終わったので、日会から奨励のために修了証を授与してくれというので、英日両文のCertificate of the first term promotionを与えることになり、父兄も来校して日本式の挙式を挙げた(米国の小学校は修了式も卒業式もないから)。

 教育勅語を奉読してくれと言うので、奉読したが、親達は喜んでいた。これはチョットお門違いであるが、在留同胞がいかに故国に深い憧心を持っているかが推察できる。

 私は1915年12月の卒業後まで、児童の教育に及ばずながら尽くした。


第58回(オークランド日本人基督教会の夜学教師となって前期を終了 1914年の九月から十二月下旬まで)

2011-12-16 09:48:46 | 日記
57.オークランド日本人基督教会の夜学教師となって前期を終了 

 1914年の九月から十二月下旬まで


 モントレーの大会から帰ってクラブで静養して、新学期を迎え元気に登校した。九月中旬になって、オークランド(Oakland)にある日本人基督教会で夜学校の英語教師が要るというので、私に白刃の矢が当たって来てくれというので就職することになった。

 オークランドはバークレーと隣接する町で、教会からは電車で三十分位で大学に行けるので通学には不便がなかった。

 オークランドには、日本人の在留者も四,五千名はおり、日本人会もあって、この地方ではシスコに次ぐ都市である。日本基督教会には牧師の額賀鹿之助氏という立派な先生がいて、数ヵ月前に新任された方であった。

 額賀牧師が来任せられた数ヵ月前に東京本郷教会の有名な海老名弾正牧師が米国に来られて、オークランドのこの日本教会に額賀牧師を派遣して伝道に当てられたとの由であった。

 海老名牧師は加大のエキステンションコース(Extension course)で一般の人々に講演せられたので私も聴講したが立派な講演だった。

 さて、英学校は夜学でA,Bの二クラスに分かれて、一時間づつの授業でA組中級七,八名、B組上級四名の十二,三名の新入生があった。月謝は月三弗でこれが私の俸給の全額で、寝室は教会内の寄宿舎の二階の一室(粗末な部屋で二室しかない)をくれたので、通学には倹約すれば事欠かなかった。日中は全部の時間があるので、勉強には好都合だった。教会には、ただ夜泊まるだけだったが、朝食だけは自炊せざるを得ないので困った。昼と夜は外食した。

 金曜日には夜七時半から祈祷会が勉強前に三十分行われ、讃美歌を歌って、聖書の朗読とお祈りをして、授業を始めるが、英学校も伝道の一端としてやっているので、教師としての私も教会の主旨には従うことは当たり前であった。

 土曜日は一般の学校にならって休業、この夜は信者の集会があり、聖書の研究や祈祷会があった。私も許す限り参加した。

 学校の授業は教会のチャペル(堂内―狭い部屋で五十人位分の椅子と長椅子二十個位で百人位収容)でやるので、土曜日の朝は私が掃除して日曜日の礼拝に備えねばならぬので、午前中に綺麗にするのであったから、この日は厄日であった。

 英語学校の授業は生徒も少なく楽だったが、多ければそれだけ実入りもいいが、キリスト教の学校は一般の私塾より堅苦しいので生徒もあまり来なかった。最も私の印象に残るのは大久保牧師の未亡人で六十歳以上の方で、夜学校に来られて英語の勉強をされ、教会の婦人矯風会長で常に在留同胞のために尽力されており感心した。敬虔なクリスチャンで実に立派な老婦人で私も非常に精神的な感化を受けた。祈祷会の時には私のために祈ってくれたことが度々あった。

 額賀牧師の日曜の礼拝には教会にいる関係上必ず出席した。説教の実に上手な人で感動させた。オイケン(注:ルドルフ・クリストフ・オイケン、ドイツの哲学者のこと)の権威だとも聞いていた。私もよい精神修養ができた。

 英語教師をしたお蔭でクリスマスのサービスも教会で迎え、正月はゆっくり過ごして英学校も友人に譲ってクラブに帰った。


第57回(Cosmopolitan Club大会にモントレー行き)

2011-12-15 09:25:39 | 日記
56.Cosmopolitan Club大会にモントレー行き


1914年七月上旬

大学には当時外国留学生も多数おり、二十何カ国にも及ぶと聞いていた。中でも支那人留学生は北清事変(The Boxer War)の賠償金で留学していたので、我々日本人学生に比して、裕ゆうと学資金をもらって、勉強していた。
 
 中でも孫逸仙(孫文)の息子のサン・フー(San Foo)はハワイ生まれで(父親がハワイに亡命中に産まれた人)バークレーに夫人と共に住んで通学していたが、語学は米人並で、政治学(Political Sciences)を専攻していたので、一,二回同一学科を取ったので、教室でも挨拶を交わしていた。卒業してからアメリカを去って帰国し、後年、広東市長に就任したことを新聞で知ったが、その後はどうなったかは知らない。

 外国人学生は皆ばらばらの生活をして連絡が少ないので、共に会合して親交を深める意味で、Cosmopolitan Club(国際学生クラブ)を組織していた。我々日本人も勿論メンバーで別に個人から会費は徴収せず、米国YMCAが中心になって、年一回加州のモントレー(Montrey)でCosmopolitan Club Assemblyを開催せられることになった。

 1914年の夏は、またモントレーで開催することになった。このモントレーは加州の中部のモントレー湾に望む白砂青松の町で、イスパニアが支配した時代の税関のあった町で、往時は相当栄えた港であったので、教会も残っていたが、当時は廃墟となっていて、その面影はなく町も寂れていた。またスチーブンソンが「宝島」(Stevenson’s Treasure Island)を書いたたという古家も荒れ果てて残っていた。

 加州の海岸でも自然の美しい松林と白い砂浜とがあるのは、このモントレー位だから、ここで色々のジャンボリー(Jamboree)やAssemblyが開かれるのであった。
 私は病後のよい保養ができた。

 大会は三日間に亘って行われ、日本人側代表はカリフォルニア大学三年生S藤三郎、スタンフォード大学はK間義雄四年生と二名で、各国代表の学生六十余名で盛大だった。皆米国でも有名校の学生で支那人学生は数名参加していた。

 松林の中に沢山のテントが張られて宿泊所となり、私はK間君と支那人学生二名計四名で合宿した。

 食事は大きな建物の食堂があって、ここで一緒に会食したが、学生に対する食事だから質より量で十分満腹した。

 終わると九時より本館の分室に十五人位宛のグループに分かれて指導員の教授より聖書の講義と宗教講話を聞き、質疑応答をして午前中の集会をすまして昼食を取り、終われば午後は自由行動となった。

 スポーツをするグループもあり、ハイキングに行くグループもあり、或いはその他の娯楽などに半日を過ごして、夕食を取ると、晩はホールに集まって、担任職員からまた宗教講演や文学の講義を聞いて、いよいよ学生間の討論や意見の発表会が開催された。

 司会者から、何々学校と指定すれば、いやでも立って一言でも述べなければならず、実によい勉強になった。中でも支那人の学生は政治問題で世論を喚起して拍手喝采を受けた。

 三日目の晩は最後のお別れの会合があって、スタント(stunt)という学生連の得意の妙技を発表する催しで、お国自慢の音楽や歌やダンス等をやって嬉々アイアイの内に楽しくこの大会を終了した。

 この大会で各学校との親睦も結ばれ、参加者間との親交も深まり、実に意義ある集合で、私もこの機会を得たことは又とない幸せで、在学中一番の楽しい印象ととなった。


第56回(練習艦隊 「吾妻」と「浅間」シスコ入港 1914年6月頃)

2011-12-14 09:24:25 | 日記
55.練習艦隊シスコ入港 1914年6月頃


 1914年(大正三年)6月頃日本の海軍練習艦隊、吾妻と浅間船の二隻がサンフランシスコに入港した。いずれも巡洋艦で威風堂々入港したので、暫くぶりに仰ぐ旭日の軍艦旗には、ひとしおの感激を禁じ得なかった。海外で仰ぐ日の丸も日本でいる場合とは全く異なった感じを与えるもので、これは外国で生活をしなければ味わえないことである。

 投錨後、青年士官候補生が上陸して市内の見学をすることになり、我々学生クラブには案内役に当たるよう桑港総領事館より内命があったので、私も軍艦に行って十数名余りの候補生の案内役を勤めて約半日市内の名所などを見学させた。

 候補生一行の中に島津侯爵の令孫(息?)という士官もいて、記念写真を取ってくれ、後で一枚送ってくれたが、今は見当たらないのが残念である。

 日本の水兵とアメリカの軍艦(東洋艦隊はサンフランシスコ湾のメーヤ島=Mayer Islandが軍港であった)の水兵との間にボートレースが行われ、日本が勝って万歳を揚げた。我々学生も観覧して応援した(大学は休暇中)。

 出航の前日はアットホーム(at home:軍艦の招宴)が開かれ、私は浅間船のアットホームに行って、軍艦を候補生の案内で見学してから、山海の珍味に接し、水兵の相撲等を見物して半日を楽しんだ。

 七月二十八日、オーストリアの皇太子がセルビアの一青年に暗殺されて、遂に第一次欧州大戦争に突入した。米国は八月上旬中立を宣言した。


第55回(第三学年生時代:1914年秋から1915年6月まで スパイもいた?!)

2011-12-13 09:06:18 | 日記
54.第三学年生時代:1914年秋から1915年6月まで


 私もいよいよ三学年生となった。

Junior courseは無事終了してSenior Course即ち全学科の内の経済学を専攻することになった。三学年以上の教科目、習得単元は9ユニットから16ユニットに制限せられ、シニアーコースの学科はジュニアーで修得した経済学の関連の研究に入るので、これから純正経済学理論部とか経済政策部、企業経済部とか、経済労働理論部、社会経済政策等々に分かれるので、私はEconomic TheoryをMajor courseにとり、Minor courseにPolitical Sciencesを取った。三学年には前期、後期とも16単元で計32単元をパッスした。これで三年間に計105単元を完了した。三学年の経済理論はマーシャルのEconomicsを主として、ダベンポーのEconomic Enterpriseを修得した。一,二年の時はタウシッグ(Tausig)のPrinciple of Economicsの一巻と二巻を修了したから、これに進学できたのである。Economic Thought(経済史想史Haney)、Adams and SumnerのLabor Problems(労働問題)、CannanのTheory of Production and Distribution(生産と分配理論)等々で、法律関係では、Jurisprudence(法律学)、International Lows(国際法)等を修得した。政治学ではBrythのAmerican Commonwealth上巻など、今から考えるとよくもやってパッスしたものだと今昔の感に堪えない。

この他、今尚印象に残るのは、名前は忘れて思い出せないが女教授で(フランスの博士)” Contemporary of Social Reforms”(社会改革の近代理論)という学科を一学期受けて、MarxのThe Communist Manifesto (マルクスの共産党宣言)やKropotkin(クロポトキン)のConquest of Bread、「相互扶助論」、バクーニン(Bakunin)等を習ったが、試験に出席したら、本でもノートでも何でもよいから参考にして、答案を書いてよいというので面食らった。私は他の教授の試験の考えで準備しないでいったので、思うように書いたら幸いパッスしマークをくれた。こういう本は思想問題のやかましい時代だったから、皆クラブに残して帰国した。その他社会主義の本も二,三冊あったが友人にくれてやった。

 話しは逆に戻るが、私が二年生頃に加藤大尉(?)というスパイ(?)の軍人が半年程バークレーに滞在して日本人学生の思想問題を調べに来ていて、時々校庭で顔を合わした。何となく話し掛けるので警戒していたが、或る時シスコ地方の軍事用地画を買ってくれと頼まれたので、学校の購買部で二,三枚買ってやったことを覚えている。幸徳秋水が明治四十三年頃大逆事件で捕まる前年か、アメリカに来てシスコ市にも滞在したことがあるし、また二年ばかり遅れて友愛会長の鈴木文治も来米した。鈴木氏は加大を訪問したのでクラブで昼食を共にしたのを覚えている。またバークレーには木下尚江の後援者が一人いて労働して金を儲けて毎月木下に生活資金を送っていた者もいて、この人は私が散髪屋で一、二度会ったが、公然とその話しをしていた。また岡田という労働者で共産党員と自称していた人もいたので、日本のスパイが来たのであろうか。