祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第61回(オジルビー家(バークレー市長の妹)で働いて大学を卒業 )

2011-12-19 09:45:20 | 日記
60.オジルビー家で働いて大学を卒業 (放課後は日本小学校の教員)

1915年1月中旬から1916年7月まで

  
 オークランドの日本キリスト教会付属英学校の教師をやめて、バークレー小学校の教員になった間は、日本人学生クラブに泊まって大学へ通っていたので、日本人会から支給される給料では食費や小遣がせい一杯であった。

 そのためどこか良い家庭を探して住み込みたいと考えていた折り、友人からバークレーのオジルビー家(Ogilby)で大学生のハウスウォーカーを求めているから行く気はないかと勧められたので、夫人を訪問して交渉したところ、話しがうまく運んで働くことになった。

 このオジルビー家はバークレー市長(Mayer Ogilby)の妹の家で九十歳近くにもなる母親の面倒を見ているので、私が働いてくれるというので、夫人はもとよりお婆さんも大変喜んでくれた。

 オジルビー夫人は未亡人で鉄道会社の事務員を勤めており、一人息子のジャック(Jack)は加大工学部の学生で、昼間お婆さんの世話をする人がいないから、私が昼頃学校から帰って、昼食を作って食べさせてやったから、私も都合がよかった。

 お婆さんはいつも”My dear Saburo”と吾が子のように称んで可愛がってくれた。
 家は二階住まいで、私には良い部屋をくれて、有難かった。ジャックも私も夜は大学の図書館で十時まで勉強していたので家で勉強することは殆どなかった。

 お婆さんは足が悪くて、杖をついて室内を歩き、終日道路に面した二階の窓から、長椅子に座って表を眺めて暮らしていたが、年の割には元気で、少しも手がかからなかった。

 毎日曜日の午後は息子のオジルビーが市長夫婦と弟のウイリアム夫婦が必ず老婆を訪れて慰め、私の作った晩餐の料理を嬉々アイアイに会食して、一同テーブルを囲んで楽しく一夜を過していた。

 アメリカの親子関係は思ったより親密で感心した。晩餐の料理はいつも同じで、ロースト・ビーフが中心で私が腕によりをかけて作った料理を喜んで食べてくれ、一度も不満足の様子をしたことは見なかった。

 バークレー市長ともなれば、一流のシェフ(chefクック長)の作った料理を食べ慣れておられるのに、私の下手な料理でも慈母との列席でこそあれ、喜んでくれたのだと思うと今でも頭が下がる。

 市長は青年頃苦学して加大を卒業して、事業を起こし、バークレーで工場を経営している社長であって、college townの市長として評判が良かった。


 晩餐がすんで、お婆さんと別れるときは、必ずポケットから金の包みを出して、キッスして渡していたが、この金が恐らく扶養料として、使われていたのであろうか。米人は親に冷淡などという人がいるが、それは実際に米人家庭に入って生活を共にした経験のない人の皮相感であって、孝行(filial piety)という観念は日本だけのお家芸などと考えるのは、もっての外である。このオジルビーに限らずどこでもそうであった。

 日本でも最近の若い人達の間では、結婚すれば親から離れて別居生活をして、核家族などという新語ができている状態で、「家つき、カーつき、婆抜き」という言葉が流行しているとのことだが、経済的にゆとりのない核家族には自分等の生活に精一杯で親の面倒など実際にできない状態が益々増加しつつある現状である。

 日本の経済化が急速に家庭生活の変化を齎したためと住宅難の結果、核家族に分裂して行く一方、老人は老後の生活の準備をする余裕なくして、この急激な変化に適応しなくてはならないから、これからの老人対策は大変だろう。

 六十年前のアメリカの家庭で自ら体験した親子の人間的関係は思ったより親密で、日本の社会より生活のゆとりがあるから、扶養の義務も自然と果たしていたのであろう。

 最近東京大学の中曽根助教授(女性)が欧米を視察せられた研究をNHKテレビで発表されたが、親子の関係は益々緊密になる傾向が著しく、「スープの冷めない所に子供が家を持つ」(They tend to have their homes where soups will not cold down.私の英訳)ようになっているとのことで、子供は週に二、三回少なくとも一回は必ず親を訪問して慰めているとの話しであった。

 他山の石として、学ぶ所があるのではなかろうか。

 さて私はこのオジルビー家に世話になって、放課後は日本人小学校の教師として勤めていたので、学資金にもたいして困らず、無事に五月末の期末試験に全科目をパッスして第四学年に進級した。