46.この間の生活状態について-家庭働きと農園行き
私の学校生活には常に付き纏うものがあった。それはパンの問題であった。学業を継続するためには、先決問題として、どこかに良家を探して、そこで生活して、大学に通学さしてもらうことであった。大学生であるから、もうスクールボーイとは呼ばずに”home helper”である。米人の大学生でも全校生徒の何パーセントかは、アルバイトをしているものがあり、大学ではハイスクール時代と違って学友に対しても恥ずかしいというようなことはなく、寧ろ金持ちの贅沢な生活をしているフラタニテイー(Fraternity:学生の結社で金持ちの学生の宿舎)の学生に対しては一種の誇りさえ感ずるのであった。米人の学生はhome helperはしないので、日本人の大学生を使ってくれたので、それも日本人学生に同情して雇う家庭であるからその数も少なかった。
私は入学してから二十日間ばかりはクラブから通学したが学友から、スペイン人系のコステロという家で働いて見ないかと勧められたので行くことにした。
若夫婦二人きりの新家庭で、供に加大に在学中に結ばれたものとの由で、中途退学者で私には非常に同情してくれて気乗りだった。新築の二階家住まいで、私にも住みよい一室をくれたので勉強には良かったが、夜は大学の図書館で送った。
カーロスの主人は、バークレーで土地周旋所を開いて商売をしていたが、マーマーやって行ける程度らしく、私も大学の帰路二,三度訪問したが今は暇でもこれから郊外に住宅が発展するのだから、悲観することはないといっていた。
私は朝夕の料理一切をしてやったので喜ばれた。妻君のマジョリー(Majory)はカーロスが辛いものが好きだというので、辛いチェンペパー(赤唐辛子の粉)を沢山振った料理を作ったので辛いもの嫌いの私には困った。しかし二階の夫婦の用いる室は客室と寝室の二間だけだので仕事は少なく良かった。週給は二弗五十仙だった。
私はcollege boyであるから、来客にも”Saito is a college boy.”と紹介してくれ、常に面目を施した。
クイズ(Quiz:大学生の俗語で試験)の近づく時やレポート(report:宿題)の提出前は忙しいから、無理をいって、二,三日休ませてもらってクラブで送ったこともあった。
毎日忙しい学校の勉強に追われて、いつしか十一月下旬になった。バークレーにもX’mas seasonは来たが、大学町であるから、クリスマスのデコレーションも町では見当たらず、平常と変わりなかった。十一月上旬に加大―スタンフォード大学のfoot ballの大競技があったが別項に書く。
それよりも我々大学生にとっては、学期末の試験(final quiz)が始まるので、なんとしても、この試験にパッスしなければならん。私は初めて大学のクイズを受けるので、様子がわからず心配した。
試験は一学科三時間の時間が与えられ、印刷された問題が配布されると職員は教室から出ていって、試験監視員はつけないのが、加大の誇るアナーシステム(Honor System:名誉制度)と称せられるもので、生徒を信用して、カンニング(Cunning:これは日本人の作った言葉である。)は決してしないことを要求しているのである。三時間の間に用便をするものは、勝手に教室を出られたので、不正をしたければできるのだが、これをしないところにHonor Systemがあるのだ。日本の学生間に有り勝ちな、不正の色々の手段を講ずるとすれば、全く隙だらけで、いくらでもできるのだが、加大学生は決してしないところに、誇りがあるのだ。
幸い全学科パッスして、一学年前期19ユニットを修得した。十二月下旬に入ると、年末休暇を迎えて、ほっと肩身をおろした。クリスマスと新年はカーロスの家で送って、1913年(大正二年)となった。
一学年の後期は一月上旬に始まったので、前期の経験を活かして、また18ユニットを取って勉強した。特にミッチェル教授の”Principles of Economics”の後期授業には一段の努力を払った。
三月二十三日に母校の創立記念日(Charter Day)を迎えたが、これは別項で述べることにする。
今学期は特筆すべきこともなくして、六月上旬の後期末試験を受けて全学科パッスで18単元を修めて、これで第二学年に進級して、暑中休暇に入った。
また例の如く、一時の農園労働をするため、今度は南加州に近い夏蜜柑バレンシア(Valencia)の名産地であるサンバラデイノ(San Baradino)に行った。
蜜柑の摘み取りは以前にもしたので、経験ずみで、大した苦にもならなかった。
この農園キャンプの日本人ボスは宮田という人で学生上がりの人で、今まで働いたボスに比して、日本で学んだ教養あるインテリで俳句をよくして雅号を「鬼怒」といっていた。栃木県人であった。部下に安藤(名は忘れた)という、これまたインテリの人がいて、働いている労働者も大体日本での学生階級者らしく、キャンプの空気もなごやかであった。
一緒に働いた人の内には、東京外語を出たという人がいて、晩英語のアメリカ史を読んでいるので、話しかけると、学資ができたら大学生活を君のように送りたいと羨ましがっていた。
またM野順三君という人もいて、一晩一緒に話したが、私の今まで送ってきた生活を話したら、大いに発奮して、この夏で百姓の仕事を打ち切って、シスコ市に出て、スクールボーイに帰って再び勉強して石にかじりついても大学に学びたいと決心の程を打ち明けて感心した。
はたせるかな、M野順三君はその後苦学して、私より九年も遅れて1921年(大正十年)カリフォルニア大学の化学科を卒業した。
彼が卒業した時は、私はもう東洋汽船会社のれっきとした社員でバークレーのFisher夫人の宅に宿泊(家内の恵以は同年十二月に渡米した)していた時、晩私を訪問して用件もハッキリいわずモジモジしているので私は察して、「君金にお困りでしょう。相身互いで、いくらいるのですか」と聞くと十五弗融通して欲しいというので貸してやった。
卒業後帰国して東京の丸の内のイルス商会の化学部の社員となった。
M野君もまた、私の友人の一人としては立志伝中の人物である。こういう立派な人物が出るかと思う反面には、一生を棒にふる人々の多いのには、誠に残念なことである。
私は農園で労働して学資の一端は稼いだが、これにも優る貴重なる収穫を得て一生の思い出となった。
年と共に田園生活をして、その地方に働くと、年毎に排日の気分が増大しつつあったので、別項を特にこの問題に当てた。
私の学校生活には常に付き纏うものがあった。それはパンの問題であった。学業を継続するためには、先決問題として、どこかに良家を探して、そこで生活して、大学に通学さしてもらうことであった。大学生であるから、もうスクールボーイとは呼ばずに”home helper”である。米人の大学生でも全校生徒の何パーセントかは、アルバイトをしているものがあり、大学ではハイスクール時代と違って学友に対しても恥ずかしいというようなことはなく、寧ろ金持ちの贅沢な生活をしているフラタニテイー(Fraternity:学生の結社で金持ちの学生の宿舎)の学生に対しては一種の誇りさえ感ずるのであった。米人の学生はhome helperはしないので、日本人の大学生を使ってくれたので、それも日本人学生に同情して雇う家庭であるからその数も少なかった。
私は入学してから二十日間ばかりはクラブから通学したが学友から、スペイン人系のコステロという家で働いて見ないかと勧められたので行くことにした。
若夫婦二人きりの新家庭で、供に加大に在学中に結ばれたものとの由で、中途退学者で私には非常に同情してくれて気乗りだった。新築の二階家住まいで、私にも住みよい一室をくれたので勉強には良かったが、夜は大学の図書館で送った。
カーロスの主人は、バークレーで土地周旋所を開いて商売をしていたが、マーマーやって行ける程度らしく、私も大学の帰路二,三度訪問したが今は暇でもこれから郊外に住宅が発展するのだから、悲観することはないといっていた。
私は朝夕の料理一切をしてやったので喜ばれた。妻君のマジョリー(Majory)はカーロスが辛いものが好きだというので、辛いチェンペパー(赤唐辛子の粉)を沢山振った料理を作ったので辛いもの嫌いの私には困った。しかし二階の夫婦の用いる室は客室と寝室の二間だけだので仕事は少なく良かった。週給は二弗五十仙だった。
私はcollege boyであるから、来客にも”Saito is a college boy.”と紹介してくれ、常に面目を施した。
クイズ(Quiz:大学生の俗語で試験)の近づく時やレポート(report:宿題)の提出前は忙しいから、無理をいって、二,三日休ませてもらってクラブで送ったこともあった。
毎日忙しい学校の勉強に追われて、いつしか十一月下旬になった。バークレーにもX’mas seasonは来たが、大学町であるから、クリスマスのデコレーションも町では見当たらず、平常と変わりなかった。十一月上旬に加大―スタンフォード大学のfoot ballの大競技があったが別項に書く。
それよりも我々大学生にとっては、学期末の試験(final quiz)が始まるので、なんとしても、この試験にパッスしなければならん。私は初めて大学のクイズを受けるので、様子がわからず心配した。
試験は一学科三時間の時間が与えられ、印刷された問題が配布されると職員は教室から出ていって、試験監視員はつけないのが、加大の誇るアナーシステム(Honor System:名誉制度)と称せられるもので、生徒を信用して、カンニング(Cunning:これは日本人の作った言葉である。)は決してしないことを要求しているのである。三時間の間に用便をするものは、勝手に教室を出られたので、不正をしたければできるのだが、これをしないところにHonor Systemがあるのだ。日本の学生間に有り勝ちな、不正の色々の手段を講ずるとすれば、全く隙だらけで、いくらでもできるのだが、加大学生は決してしないところに、誇りがあるのだ。
幸い全学科パッスして、一学年前期19ユニットを修得した。十二月下旬に入ると、年末休暇を迎えて、ほっと肩身をおろした。クリスマスと新年はカーロスの家で送って、1913年(大正二年)となった。
一学年の後期は一月上旬に始まったので、前期の経験を活かして、また18ユニットを取って勉強した。特にミッチェル教授の”Principles of Economics”の後期授業には一段の努力を払った。
三月二十三日に母校の創立記念日(Charter Day)を迎えたが、これは別項で述べることにする。
今学期は特筆すべきこともなくして、六月上旬の後期末試験を受けて全学科パッスで18単元を修めて、これで第二学年に進級して、暑中休暇に入った。
また例の如く、一時の農園労働をするため、今度は南加州に近い夏蜜柑バレンシア(Valencia)の名産地であるサンバラデイノ(San Baradino)に行った。
蜜柑の摘み取りは以前にもしたので、経験ずみで、大した苦にもならなかった。
この農園キャンプの日本人ボスは宮田という人で学生上がりの人で、今まで働いたボスに比して、日本で学んだ教養あるインテリで俳句をよくして雅号を「鬼怒」といっていた。栃木県人であった。部下に安藤(名は忘れた)という、これまたインテリの人がいて、働いている労働者も大体日本での学生階級者らしく、キャンプの空気もなごやかであった。
一緒に働いた人の内には、東京外語を出たという人がいて、晩英語のアメリカ史を読んでいるので、話しかけると、学資ができたら大学生活を君のように送りたいと羨ましがっていた。
またM野順三君という人もいて、一晩一緒に話したが、私の今まで送ってきた生活を話したら、大いに発奮して、この夏で百姓の仕事を打ち切って、シスコ市に出て、スクールボーイに帰って再び勉強して石にかじりついても大学に学びたいと決心の程を打ち明けて感心した。
はたせるかな、M野順三君はその後苦学して、私より九年も遅れて1921年(大正十年)カリフォルニア大学の化学科を卒業した。
彼が卒業した時は、私はもう東洋汽船会社のれっきとした社員でバークレーのFisher夫人の宅に宿泊(家内の恵以は同年十二月に渡米した)していた時、晩私を訪問して用件もハッキリいわずモジモジしているので私は察して、「君金にお困りでしょう。相身互いで、いくらいるのですか」と聞くと十五弗融通して欲しいというので貸してやった。
卒業後帰国して東京の丸の内のイルス商会の化学部の社員となった。
M野君もまた、私の友人の一人としては立志伝中の人物である。こういう立派な人物が出るかと思う反面には、一生を棒にふる人々の多いのには、誠に残念なことである。
私は農園で労働して学資の一端は稼いだが、これにも優る貴重なる収穫を得て一生の思い出となった。
年と共に田園生活をして、その地方に働くと、年毎に排日の気分が増大しつつあったので、別項を特にこの問題に当てた。