祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第64回(大学卒業式 Bachelor of Arts )

2011-12-22 09:37:48 | 日記
63.大学卒業式 Bachelor of Arts 1916年五月下旬頃


 同年五月待ちに待った卒業式の日が来た。当日はCapとgownを着用して式場に臨むので、私は買わずに学校のCoop(購買部)で一日分の料金を出して借用した。式はギリシャ劇場で挙行された。前述したCharter dayの時と同じように数十名の主賓教授がcapとgownに色とりどりの頭巾(Hoods)を垂れた正服で、総長ウイラー先生と、副総長バロース先生の後に続いて粛々と正面の座席に着く、その光景は今でも心に浮かんでくるが壮観そのものだった。

ウイラー総長の挙式の辞があって、Hoover(副大統領だったと記憶しているが、或いは誤っているかもしれん。大学の卒業式には名士の講演を聞くことになっていた)副大統領の祝辞講演が終わって式は修了した。

 デイプロマの授与は先ず博士号(Doctor of Philosophy文学博士、Doctor of Jurisprudence法学博士、Doctor of Sciences科学博士 等々と)の人々から始まって、一人一人姓名を読み上げて、舞台の上に設けられたテーブルの前に進んでデイプロマの授与を受けて、肩にカリフォルニア大学の博士号を顕わすBlue and GoldのHoodを掛けて貰うのであった。

 博士達の後は、Master級の免状が授与されて、これはBachelorのHoodをつけており、その後は長いMaster級のHoodをつける資格を与えられるのである。Masterは一人一人の姓名を読み上げて、代表が進んで壇上で一括して授与され各Masterに後で配分された。
 
 以上で大学院の学生の免状の授与を終わってから、いよいよ我々バチェラー級の授与に移ったが、総長よりここに二千有余名の各単科大学卒業生に対してBachelorのデイプロマを授与すると言って、各collegeの各学部代表が出て一括して貰って我々に配分してくれた。

 経済学専攻者は何人だか知ることはできなかったが、丸くした免状の束を見て、百二十名位の名が呼び上げられて私もその一人としてSheep Skinを貰った。

実にこの一枚のデイプロマを得るまでには渡米以来満十一年を閲したのである。
 
顧みれば、渡米以来約十一年の歳月を経て、ここに目出度く卒業の栄冠を獲得することができたのであった。この間悪戦苦闘赤貧に甘んじて学業を継続し、時にはスクールボーイとして糊口を凌ぎ、更に学資を補わん為には、一介の農園労働者となって炎天下に終日汗を流して働き、学問の尊さ会得すると同時に労働の貴重なることをも体験して、しみじみ人生の何たるかをも認識することができて、生涯のよい指針として今日までも私の進むべき道を教示してくれた。

 私にとっては”Poverty is blessing”であった。人生に悔いなき道を辿りつつ、老齢八十一歳の冬を迎えんとして、はたまた過去を追想して感慨無量のものを禁じ得ないのである。

 それにしても、私の素志貫徹のために、始終格別の温情を垂れて、私にその日の糧と、心の恵を与えられて、長年に亘る学業を継続して下さった幾多のアメリカ人家庭の各位に対して、満腔の感謝の意を奉げざるを得ない。誠にその親切心と愛情の深さには今でも頭が下がる次第である。各家の幸福を祈って止まない。

 これと同時に日本の一青年であった私に、人種を超越して、一視同人、学問の道に邁進するよう、未熟な語学力を根気よく修得して下さった各学校の先生方に対して、深甚の敬意と感謝を奉げるとともに、進んではカリフォルニア大学が私を加州市民の如き同等の対偶を与えられて授業料の免除をして四ヶ年の間高等教育を授けて下さった恩義は終生私の忘れることのできないDear Alma Meterであって永久にAlumniとしての母校の絆は断たれないであろう。


 終わりに臨んでカリフォルニア大学で私に薫陶を垂れ給いて私をして今日あらしめた諸教授の方々に対しても深甚の敬意と感謝を奉げて、ここにこの稿を一先ず終えることにする。


第63回(卒業に向けて)

2011-12-21 10:37:30 | 日記
62.第四学年に進級したSummer Schoolを受けて1915年8月~12月まで卒業


 桑港の日米新聞社の委嘱を受けて、暑中休暇中三週間に亘って加州の排日中心地のスタクトン地方とサクラメント地方より更に北上してチコ地方の日本人排日問題の真相を調査研究して帰社し、その報告を纏めて新聞社に提出して、七月中旬バークレーに帰ってクラブで静養した。

 学校の開始までに未だ三,四週間もあるので、新学期に備えて毎日大学の図書館で勉強して暮らした。

私は、休暇開始後の六月上旬から二週間サンマースクール(Summer School)のゼミナーコース(Seminar Course)を受けて毎日一学科二時間づつ三科目を受けて、幸い試験に合格したので六ユニットを得た。この夏期大学の講師は他の大学の教授で、今名前は忘れたがワシントン大学の経済学の教授とラファエット大学の社会学の教授と、もう一校の教授だった。

 学科はIndustrial Psychology(産業心理学)とSocial Reform(社会改造論)とModern Capitalism(近代資本論)だった。

 これは教授の講義中心のゼミナーで、思ったより試験は易しく、良い点が取れた。受講者は中、高校の先生達で受験は聴講生の勝手だったので、テストも簡単だったのだろう。これで今学期16ユニットを取ってパッスすればいよいよ卒業の資格を得られることになって安心した。

 新学期が八月下旬に開始したので、いよいよ最後の頑張りで学力をつけようと、経済理論として、Crook教授のHobsonのWorks and Wealth(この講座は難解)同じくHobsonのThe Evolution of Modern Capitalism、経済政策はPhelan教授のMarshallのEconomics of Industry、古代経済学はボン大学商科部長の講義でシュンペター(Schumpeter)のSurplus Value(週一時間)、社会経済学はAnderson教授のFabian WareのWorkers and their country、Hutchinson教授のTheory of Interest and Wealth 等々。

 試験は全部合格してこれで合計128ユニット、内経済学専攻学科46ユニットで卒業の資格を十二月末に得た。

 在学中は前述したオジルビー家で過ごしてクリスマスと正月を迎えて、1916年(大正五年)になった。私は満三十歳になった。

 冬十二月の卒業者は翌年六月に卒業する学生と一緒に卒業式を挙行する規定になっていたので、私はその間半歳待たねばデイプロマ(diploma)を手にすることができないので、バークレーに留まっていた。

 一月から六月までは依然オジルビー家で働き、新学期を迎えた。日本人小学校の教員として勤めた傍ら、東洋汽船の東郷正作船長の夫人と子供の家庭教師をして、生活の資金を得て暮らし、晴れの卒業式を待った。

第62回(排日問題)

2011-12-20 09:33:50 | 日記
61.第四学年に進学した暑中休暇中日本農園や排日家を訪問して排日問題を研究した


 1915年(大正四年)に大学の後期を修了して、いよいよ最高学級の四学年に進級して、暑中休暇に入った。

 前述したように同年五月にはアメリカは第一次欧州戦争に参加したが、予定通りに同月パナマ大博覧会はサンフランシスコで開催せられ、多数の来観者で市内は賑わった。

 しかるに、一時終息していた排日運動(anti-Japanese Movement)が再び盛り上がり、カリフォルニアの各地で益々熾烈を極めるようになった。
 そのため六月頃米国労働者大会(AFL)がシスコ市で開催せらるることになったので、日本政府もそのまま看過するわけにはいかず、運動緩和のために渋沢栄一氏や鈴木文治氏(友愛学長)が来米した。

 大会が開催せられた時は暑中休暇に入っていたので、私は粟山博氏と一緒に桑港日米新聞社社長の阿彦久太郎氏の依頼を受けて、日本人移民問題の研究を実地調査することになった。

 因みに粟山博氏は早稲田大学の出身で在学中は弁論部の重鎮であった人で、卒業後米国に来て学術の研究をして、サンフランシスコにいた時、私が交際して親交を結んだので、二人で調査することになったのである。

 粟山氏はその後ノース・カロライナ大学(North Carolina 州立)を卒業して帰朝、福島県から代議士として出馬して当選し、以来数回代議士として政界に活躍した有名人で、夫人も粟山博氏の後を継いで代議士として活躍せられた夫妻の代議士としては世にも珍しい方々である。

 日米新聞社から交通に便利な鉄道乗車券三千哩を貰ったので、先ず日本人農民の最も活動しているサンウオーキン河流域地方のスタクトン方面(Stockton District)の調査に出発した。この地方は排日運動の第一先鋒であったからだ。

 最も私はこれまでに幾度も農園の労働をして、その地方の実情にも詳しく、自ら排日の空気も吸ったし、白人の日本人を嫌悪する人種的偏見の状態や、日本人農民の発展を危惧する感情なども大体知っているので、調査も容易に進んだ。

 私達はスタクトンに行って、日本人会を訪れ、この地方の日本人農民の実情を聞いたが、やはり勤勉でよく労働に耐えて、短い年月の内に着々成功の実績を挙げているので、村民から恐れられて、この村にいてもらいたくないという、単純な理由によるものが多く、結局は労働者組合の扇動に乗ぜられている状態が見られたのである。

 私と粟山氏は一日馬車を駆って農園の実情を観察したところ、皆異口同音にこの地方は以前、蔬菜の栽培をしたり、果樹園ではなかった所を借地して耕作に従事して今日の美しき畑と化したのを羨んで、今では自分達が尽くした功績を忘却して排日をしている状況は遺憾であるとの意見だった。これは最もの主張で、吾達は排日家に会ってこの点を釈明して彼等の啓蒙を開いてやらねばならんと努力した。

 日本人会の主催で一夜講演会が開かれ数十名の在留同胞の前で私は「アメリカにおける移民問題の対策と将来」と題して一時間に亘って講演したが、私の主張は「この問題は時を貸せば、必ずいつかは解決する。辛抱が第一でこの時の来るまでは、頑張ってくれ。土地所有権禁止問題もあえて恐れることなく、要は子供の成人を待って、子供の名義で土地を購入すればよい。それまでに勤労してその資金を作っておくことが大切である。諸君等の第一世はこの受難期に処して十分に自重して、第二世に立派な教育を施して、白人に伍してひけを取らない立派な米人市民に育ててくれ。さすれば排日等といういやな言葉はいつしか消滅してしまうであろう」、等など講演したが、歳月は流れて六十年は過ぎ去った。当時の赤ん坊第二世今は六十歳となって立派なアメリカ市民である。排日などという言葉はもうとっくに消滅してしまった。

 粟山君は「日本における政界の状況」(これは私の記憶によるので正しくないかもしれない)と題して熱弁を振るわれて聴衆を湧かした。

 翌々日私達はサンウオーキン河のデルタ地方で馬鈴薯の栽培をして全米第一の「ポテトキング」(Potato King)と称せられた牛島謹爾氏の農園を視察した。
 牛島氏は福岡県人で早くに渡米して農業に従事し、白人の顧みなかったサンウオーキン河口のデルタ地帯に着眼して、ここを開拓してポテトの栽培を始めて、その生産高においても、品質の優秀さにおいても恐らく全米一と当時いわれて、ポテトキングと称せられるに至ったのである。

 私達はスタクトン河の渡航場から牛島氏のランチに集まって河流を約一時間下りた所に牛島氏の農園本部があり、ここより河下のデルタ一帯が氏の耕地であった。

 本部の世話になって一泊し、翌朝船で経営しているデルタ方面を見学した。四千英町だというキング島(King Island)の広漠たる平らな耕地を見て、その規模の雄大なるには一驚した。耕地が遠く地平線のかなたに続いている。

 私は今までにこんな広い耕地は見なかったし、粟山君もびっくりしていた。このKing Islandの外にもう一つ大きなデルタがあって、ここも何千英町だとのことだった。

 ポテトは連作を嫌うので年々新しい場所に栽培するのでこんなに広い島を活用しているとの説明だった。
 また今日のようにトラクターやカルティベーター等のない時代だから、数百頭の馬や数千の労働者を使用しているとの説明を聞いた。見学を終わってスタントンに帰った。

 翌日はこの地方の白人農園者の有力者を二、三名訪問して排日の理由を正したり、彼等と日本人農園家との利害関係を聴いたりしたが、時にはこちらからも彼等の不合理を指摘してその緩和を懇請して、村民の共調を希望したりした。

 調査の結果は大体予想通りであった。


1.日本人の移民労働者が低い労銀で勤勉であるから、白人労働者を駆逐していること。(これは雇主には有利)
2.居住している地方民との社会性、共同力に欠けること。
3.同化力に欠けて日本人的生活に甘んじていること。
4.宗教的の相違と人種を異にしている外人居留者であること。
5.労働を厭わず、休業を取らず、生産物の配給に齟齬をきたすこと。
6.地方の開発もできたから、これ以上村に居てもらいたくない。
7.日本人が段々村の土地を買い入れられては迷惑する。
  等々。


 スタクトン方面の視察を終えて、更に北上してサクラメント(首府)地方へ行って、排日家を歴訪したり、日本人農家へ行って彼等の白人との利害関係などを聴聞したが、殆ど同一意見だった。日本人農民は未だ発展の途上にあったから、どこの地方に行っても、田畑にポツンと立つみすぼらしいバラックの家は、訪れなくても日本人の農家であって、一夜の宿を借りることが容易だった。

 私達はフェザー・リバー(Feather River)地方の金鉱の発掘を視察した。この地方でオリーブを栽培している日本人農家に一泊させてもらい、その人の苦心談などを聞いて感心した。そして翌日は更に足を延ばしてチコ(Chico)方面を視察して一軒の日本人農家の世話になったが、邦人労働者も二十人位いたが、白人の農園者が夜やって来て、一場の話をしてくれというので、私が日米の関係について話をしてペリー(Commodore Perry)の浦賀開港のことや、ハリス(Harris)の話しや、それからTheodore Rooseveltのポートマスの日露講和会議の尽力に対する感謝の言葉等を聞いて、喜んで握手してくれた。米人の農民は一般に人がよく、話せば解るので、排日運動者に乗ぜられないように啓蒙運動を日本人側が起こすべきにも係らず、ないがしろにしている日本人側にも何か考えさせられるものがあった。

 日米新聞社が私達をして、この視察を行わせたのも、誠に良い計画で、自負心ではないが、私はまたとない機会に恵まれたことを今でも感謝している。
 三週間に亘る長期間の調査をし終えて無事サンフランシスコに帰った。

 私は粟山氏に代わって長編の視察報告を三日間に亘って新聞紙に連載して私の責任を果たした。
 この記事は切り抜いて保存していたが、今は失ってしまった。

 カリフォルニアで最も排日家として有名だったリード(Read)という地方議員と親日家として孤軍奮闘していたミス・ブラウン嬢(Miss Brown)を訪問した時の双方の意見の概要を今古い記憶を辿って思い出の一端にして、当時の排日の真相を伝えて置くことにする。

 サクラメントの近郊に住んで食料品店を経営していたリード(Reed)を訪れて、彼の排日の意見を聞いた。
「日本人は十数年前からこの村に姿を現した。最初は白人農家の手伝いをして、良く働いてくれたので重宝がられた。その内に漸次独立して白人から狭い田畑を借りて(lease)自作人となり、野菜やその他の栽培をやっていた。白人農家と異なって、朝から晩まで働き、日曜日もなにもあったものでない。教会にも顔を出さないし、全然交際もせず、あまつさえ日曜日には妻子も一緒に終日島で働いて、翌朝の月曜日に野菜等を市場に出して儲けるから、我々には迷惑である。それに村税も払わず、荷車を引いて道路を荒らしている。村のためには何もしないので居てもらいたくない。我々には『好ましくない移民だ』。この分だと村の良い耕地はやがて日本人のものになるであろうから、この村から出て行ってもらいたい。」との意見だった。


 私はリードの外、一,二の排日家の意見を徴したが、皆、大同小異であった。

それで、今度は、全加州でも最も親日家として知られているMiss Brown(ブラウン嬢:この人は排日の最中にも親日の意見を発表していた人)嬢の家を訪問した。彼女の意見は、

「日本人農民を排斥するなどとはもっての外だ。まだまだ加州の地方を開拓するのには日本人の手を借りねばならん。今まで尽くしてくれた功績を村人は忘れかけている。ただ目先の日本農民の急速な発展振りに眼を奪われて、将来の加州の発達を顧みない愚論である。この村をはじめこの地方は、日本人が入らなかった時代は、ろくな野菜や果実もなかったのが、今は毎日新鮮なものが食卓に乗せられている。これは誰のお蔭か、白人は、感謝の心を忘れている。日本人の生活程度が低いとか、非社交的で村民から離れたエーリアンと軽蔑するが、これは過渡期であって、私は寧ろ彼等の向上を見守りたい。」と言って、排日緩和運動に今後とも共同戦線を張ろうではないかと、固く握手して別れた。  以上

               

第61回(オジルビー家(バークレー市長の妹)で働いて大学を卒業 )

2011-12-19 09:45:20 | 日記
60.オジルビー家で働いて大学を卒業 (放課後は日本小学校の教員)

1915年1月中旬から1916年7月まで

  
 オークランドの日本キリスト教会付属英学校の教師をやめて、バークレー小学校の教員になった間は、日本人学生クラブに泊まって大学へ通っていたので、日本人会から支給される給料では食費や小遣がせい一杯であった。

 そのためどこか良い家庭を探して住み込みたいと考えていた折り、友人からバークレーのオジルビー家(Ogilby)で大学生のハウスウォーカーを求めているから行く気はないかと勧められたので、夫人を訪問して交渉したところ、話しがうまく運んで働くことになった。

 このオジルビー家はバークレー市長(Mayer Ogilby)の妹の家で九十歳近くにもなる母親の面倒を見ているので、私が働いてくれるというので、夫人はもとよりお婆さんも大変喜んでくれた。

 オジルビー夫人は未亡人で鉄道会社の事務員を勤めており、一人息子のジャック(Jack)は加大工学部の学生で、昼間お婆さんの世話をする人がいないから、私が昼頃学校から帰って、昼食を作って食べさせてやったから、私も都合がよかった。

 お婆さんはいつも”My dear Saburo”と吾が子のように称んで可愛がってくれた。
 家は二階住まいで、私には良い部屋をくれて、有難かった。ジャックも私も夜は大学の図書館で十時まで勉強していたので家で勉強することは殆どなかった。

 お婆さんは足が悪くて、杖をついて室内を歩き、終日道路に面した二階の窓から、長椅子に座って表を眺めて暮らしていたが、年の割には元気で、少しも手がかからなかった。

 毎日曜日の午後は息子のオジルビーが市長夫婦と弟のウイリアム夫婦が必ず老婆を訪れて慰め、私の作った晩餐の料理を嬉々アイアイに会食して、一同テーブルを囲んで楽しく一夜を過していた。

 アメリカの親子関係は思ったより親密で感心した。晩餐の料理はいつも同じで、ロースト・ビーフが中心で私が腕によりをかけて作った料理を喜んで食べてくれ、一度も不満足の様子をしたことは見なかった。

 バークレー市長ともなれば、一流のシェフ(chefクック長)の作った料理を食べ慣れておられるのに、私の下手な料理でも慈母との列席でこそあれ、喜んでくれたのだと思うと今でも頭が下がる。

 市長は青年頃苦学して加大を卒業して、事業を起こし、バークレーで工場を経営している社長であって、college townの市長として評判が良かった。


 晩餐がすんで、お婆さんと別れるときは、必ずポケットから金の包みを出して、キッスして渡していたが、この金が恐らく扶養料として、使われていたのであろうか。米人は親に冷淡などという人がいるが、それは実際に米人家庭に入って生活を共にした経験のない人の皮相感であって、孝行(filial piety)という観念は日本だけのお家芸などと考えるのは、もっての外である。このオジルビーに限らずどこでもそうであった。

 日本でも最近の若い人達の間では、結婚すれば親から離れて別居生活をして、核家族などという新語ができている状態で、「家つき、カーつき、婆抜き」という言葉が流行しているとのことだが、経済的にゆとりのない核家族には自分等の生活に精一杯で親の面倒など実際にできない状態が益々増加しつつある現状である。

 日本の経済化が急速に家庭生活の変化を齎したためと住宅難の結果、核家族に分裂して行く一方、老人は老後の生活の準備をする余裕なくして、この急激な変化に適応しなくてはならないから、これからの老人対策は大変だろう。

 六十年前のアメリカの家庭で自ら体験した親子の人間的関係は思ったより親密で、日本の社会より生活のゆとりがあるから、扶養の義務も自然と果たしていたのであろう。

 最近東京大学の中曽根助教授(女性)が欧米を視察せられた研究をNHKテレビで発表されたが、親子の関係は益々緊密になる傾向が著しく、「スープの冷めない所に子供が家を持つ」(They tend to have their homes where soups will not cold down.私の英訳)ようになっているとのことで、子供は週に二、三回少なくとも一回は必ず親を訪問して慰めているとの話しであった。

 他山の石として、学ぶ所があるのではなかろうか。

 さて私はこのオジルビー家に世話になって、放課後は日本人小学校の教師として勤めていたので、学資金にもたいして困らず、無事に五月末の期末試験に全科目をパッスして第四学年に進級した。


第60回(1915年5月米国参戦と巴奈馬(注:パナマ)開通大博覧会)

2011-12-18 09:36:22 | 日記
59.1915年五月米国参戦と巴奈馬(注:パナマ)開通大博覧会


 1914年七月セルビアの一青年がオーストリアの皇太子を暗殺した一発の弾丸が、バルカン半島の戦乱に突入して、やがて戦禍は全欧州に広がり、独逸軍がベルギーの局外中立を侵して、進入したため、佛、英の対独戦争に入って、いよいよ重大な局面を展開した。

 米国は八月上旬中立を宣言して局外に立っていたが、戦争には直接の影響を蒙らず寧ろ軍需物資の供給や食料品の輸出で景気は上昇していた。

 ところが翌年五月パナマ大博覧会が開会の間近になった時、英船のルシタニア(Lusitania)が独逸の潜航艇で大西洋の領海近くで撃沈され、米人乗客の多数が死亡した。このため直ちに米国はドイツに対して宣戦の布告をして参戦したので、大学生も多数召集を受けて欧州の第一線に戦場の花と散った。

 加大の学生も幾百といわず戦傷したので、今、ドー・ライブラリー(Doe Library)の正玄関の扉の横に、ブラス(真鍮)のプレートにそれらの名誉ある戦死を遂げた英名が記念として記されている。

 一方パナマ大博覧会は宣戦布告後の五月下旬開催された。世界の多数の国が参加して盛会を呈した。日本からは早くから博覧会建設事務局がシスコ市にでき、官吏の渡米もあって、立派な金閣寺と庭園と茶房が建てられて参観者の人気は良かった。

 娯楽方面では芸者の元禄踊りや変わったものには「猿芝居」や「山椒魚」アクロバットや奇術場もあった。

 各国の出し物は、皆、珍しいもので、エジプトやシリアのダンス、等は人気があった。チャリー・チャップリンも若い時代で、人気俳優で、私はチャップリンが例の洋服に山高帽にステッキ姿でゾーンの中を歩いているのを度々見て喜んだ。

 当時としては珍しい、夜間に空中の美技を演ずる飛行機の飛行などもあって、大した人気だった。

 日本政府の出品は日本館に陳列されて、文部省の統計表などが多く、民間の陳列品は少なかった。

 私は二度行って見物したが、やはり良かったのは美術館で世界各国が参加して、日本からも当時の洋画の大家のものも二十点位の大作が出品されていた。作家は全然記憶にないが中村不折の画だけは今も印象に残っているだけだ。

 そして、美しい建物としては、フランス館だった。あとは大同小異だった。大博覧会のことはこの位にしておくことにする。


注)中村不折とは、、慶応2年7月10日(1866年8月19日) - 昭和18年(1943年)6月6日)は明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画家、書家である。正五位。太平洋美術学校校長。夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵画家として知られている。また森鷗外や夏目漱石等の作家とも親しく、『若菜集』『野菊の墓』などの挿絵や題字を書いた。なお、不折の筆跡は現在でも、宮坂醸造の清酒「真澄」や新宿中村屋の商品表記に用いられている。