〈その1 三徳山三佛寺〉
米子自動車道湯原ICを降り、R313、482、179の3国道を経由して一路鳥取県倉吉市をめざす。広い天神川を渡り県道21号線に入り、三朝温泉を過ぎると三徳山正面入口に着いた。ICを降りて1時間弱、思いのほか早くの到着だ。今日は梅雨の晴れ間、正面の長い石段が朝の陽光を浴びてキラキラ光っている。
今回、世間をちょっと甘くみていた。受付で入山料を払おうとすると、一人入山をきびしく拒否されてしまった。事前の調べで知ってはいたが、なんとかなるだろうと思い、強く頼み込んではみたものの、受付のおにいちゃんは頑として首を縦にふらない。話しによると数年前滑落死亡事故があり、それ以来単独での入山は禁止されたらしい。
「ここまで来たのに諦めるのか、、、?」グループであれば可能だと云うので、不安と期待のなか待つこと20分。ケラケラと笑い声がしたかと思うと、60代と思われる4人のオバちゃんグループが上がってきた。すかさず「奥の院まで行かれるのでしたら、ご一緒させてもらえませんか?」とお願いすると、即座に快諾してもらい、ようやく受付を通過できる運びとなった。
さらに石段を上ると、樹齢数百年と思われる大杉に囲まれた境内に出た。一番奥に三佛寺本堂が見える。
三徳山三佛寺は、慶雲3年(706年)に伝説的修験者役小角(えんのおづぬ)が開山した、というから古い。「子守、勝手、蔵王」の三権現を祀り、嘉祥2年(849年)には円仁が「釈迦、阿弥陀、大日」の三仏を安置して「浄土院三徳山三佛寺」を正式名称とした。
深山の山寺だけあって長い歴史と神聖な空気に包まれ、心身共に六根清浄される心地だ。境内の手入れは行き届き、平日で参拝者も少なく、あたりは森閑と静謐で満たされている。
本堂参拝のあと、奥の院投入堂(なげいれどう)への入山となるが、またここでも参拝受付がある。入山者は住所、氏名、緊急連絡先を記入し、入山時間と下山時間を書かねばならない。北アルプスを目指す上高地じゃあるまいし、その厳格さは徹底している。おまけに靴裏を見せろと云い、金属製のソールじゃないかの確認はするわ、持っているストックはザックに入れろとか、そうしないなら受付に預けろとか、あれこれいちいち云う事には辟易する。「こちとら山は20年以上やっているのだ!」
門をくぐり赤い宿入橋を渡り、いよいよいきなりの急坂にかかる。
寒風山の登り始めにも似た坂道が続く。大阪の羽曳野から来たと云うオバちゃんグループは、卓球同好会のメンバーで意外と足腰はしっかりしているようだ。
元気に岩場を登るオバちゃん達
ただ4人のうち1人のオバちゃんだけが、重い身体を持てあましているようで動きが鈍い。聞きもしないのに「あたし72にもなるから、付いて行けるやろか?」と、もう汗をかきながら弱音を吐いている。今回が初めての登山らしい。
結局私は最後尾に付き、遅れがちなそのオバちゃんのヘルプ役となり、下山するまでお付き合いするハメとなった。浮き石や木の根に足を置くなとか、鎖場では鎖に頼ることなく足の置場に注意しろとか、急斜面では三点確保が大事だとか、ついつい口に出してしまう。それでも「私はいつも5点確保です」とだけは云えなかった。今日初めて会ったオバちゃんなのだから、それだけは神聖な場を汚してしまう。私は品格の人、、、うずく口を押え胸の奥深くにしまい込んだ。
文殊堂脇の鎖場
国の重要文化財文殊堂と地蔵堂には廻り縁があり、そこに立つと足のすくむような絶壁が足許から切れ落ちている。
さらに進むと岩の上に鐘楼堂があり、元気なオバちゃん達は入れ替わり立ち替わり鐘をつき始めた。
「ゴーン~ ゴーン~ ゴーン~~~、~~、~、、、」
その鐘の音は、ケラケラという笑い声と共に信仰と修験の山肌に響きわたった。
「ついてるとこの写真撮って!待受け画面にするから、、、」とか「孫に写真送らなきゃ、、、」とか、オバちゃん達はやることがいっぱいあるらしい。
この光景、女人禁制の時代、役小角でさえ想像だにしなかったであろう。
様々なお堂を通り過ぎていくなか観音堂が面白い。岩をえぐり取った様な空間に、まるで参拝者を追い返すように参道を遮っている。通る者はお堂裏の真っ暗な隙間を通過するしかない。
そしていよいよ奥の院投入堂の下に出た。眼前には石鎚東稜北壁を彷彿とさせる断崖絶壁が広がる。長年の造山活動で幾重にもなった岩の層、下方はどこまで続いているのか分からない絶壁の裾が、深い緑の底に消えている。中間部は大きく横に口を開け、その窪みとなった空間にへばり付くようにお堂が作られている。
流造という屋根の上方は岩がオーバーハングし、屋根を支える柱はそれぞれ長さが異なり、それらに支えられた板床が狭い水平面を維持している。
「どうやって作ったのだろうか、、、?」
まず外枠の足場は作れそうにない。クレーンなど大型重機のない時代、太くて長い柱の架設さえ困難を窮めたであろう。
立て看板があった。
『修験道の祖、役行者が神窟を開き法力を持って投入れた』とある。やはり法力や神通力に頼るほかないのかもしれない。
到着後まもなく30代と思われる山ガール二人組が上がって来た。受付のあの時、オバちゃんグループをやり過ごしておけば、この二人と一緒の参行になっていたに違いない。悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。今となってはオバちゃんグループと同行二人なのだ。役行者の御示唆と思い諦めるしかない。ともかくオバちゃんらがいたからこそここまで来れたのだ。感謝しなければならない。
山ガールA
山ガールB
足場の悪い岩場でオバちゃん達とキャッキャッと云いながら記念撮影をし、また来た道を引き返す。同じ隊列のもと、動きの鈍いオバちゃんをフォローしながら岩場を下る。やはり上るより下る方に難儀しているようだ。身体を岩側に向けるよう指導すると、立って下りられる岩場でも律儀にその動作を繰り返す。どうしてもそのオバちゃんと私は遅れ気味になる。下から見上げる元気なオバちゃん達も呆れ顔。まだかまだかと業を煮やしている。
ゆっくりと往復2時間、その気になれば1時間半あれば十分だろう。下山後オバちゃん全員の感謝を受けた。特に初登山のオバちゃんは私の見事なヘルプに感激したらしく、自販機で買ったコーラと昨夜泊まったらしい三朝温泉のお菓子「とちの実ゴラレット」を差し出した。
そして別れの挨拶もそこそこに、先を急ぐ私はとっとと逃げるように石段を下りて行った。
〈その2 松江城〉
三徳山から下りて来るとすっかり午後の陽射し。また天神川を渡り、今度は倉吉市街を北上し、日本海沿岸を走る国道9号線に出た。地図で見ると倉吉から松江までは約80キロ、おむすびをかじりながらとにかく急いだ。数基の風力発電のプロペラを見ながら信号の少ないR9は快適だ。右側にはどこまでが水平線なのか判然としない日本海が広がり、左側には見えるはずの大山が白灰色のガスでその山容を隠している。
途中からは無料区間の山陰道を西へひたすら走り、米子市手前から交通量は次第に多くなる。そして米子・松江間は一部有料区間(670円)になり、中央インターを下り一般道を北上すること20分、茶褐色の石垣が美しいお濠端に着いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現在、創建時から現存する天主は12。江戸初期の最盛期には100近くあったが、家康の「一国一城令」や明治の「廃城令」、そして火災などで多くが失われた。それでも昭和初期までは17の天主が存在していたが、さらなる戦災で現在の数になっている。そのうち4件(松本城、犬山城、彦根城、姫路城)が国宝に指定されていたが、今年に入り新たにこの松江城が国宝の仲間入りをした。(残り7は重要文化財)
松江城は慶長16年(1611)の完成と後世の記録に書かれていたが、裏付けとなる資料がなかった。国宝指定の切り札となったのは「祈祷札(きとうふだ)」の発見。城内にある松江神社の調査から出てきたもので、『慶長16年正月祥日』と墨書で書かれ、城の安全を祈願したものらしい。平成21年「松江城を国宝にする市民の会」の発足以来、市民の国宝昇格運動は盛んになり、官民揚げての念願がやっと成就したことになる。
城内に入るとまず馬留跡の広さと整然と積み上げられた石垣に圧倒される。
戦国期から徳川期にかけて、石の加工技術と積み方は飛躍的に進化する。自然石だけを積み上げた野面積(のづらづみ)、ある程度石を加工した打込接(うちこみはぎ)、さらに加工し形を整えた切込接(きりこみはぎ)、最終的には石と石の隙間を紙一枚通さないほどの接合技術となる。この松江城はほとんどが打込接で、一部が野面積だと看板にある。
石段を上り二の丸広場へ。かつてここには御広間や番所、石垣沿いに各種の櫓があり、一段高い西半分には最近祈祷札が見つかったという松江神社がある。
そして見学チケットを買いいよいよ天主のある本丸へ。松江城は標高29mの亀田山に作られた平山城なので、戦国期に作られた山城のように長い石段を上る必要はない。
初めて見た第一印象は壁の黒さだ。白を基調とした姫路城や彦根城と違って、上部だけが白く下部は柿渋で塗った黒さが全面を覆っている。ちなみに黒い城は西国に多く、白い城は徳川政権ゆかりの城に多い。
築城したのは戦国の猛将と云われた堀尾吉晴。当初は秀吉に仕え、関ケ原では家康に付いた。その戦功で出雲・隠岐24万石の所領を与えられこの城を築いた。波乱の戦国期を戦い抜いた武将だけに、天主の印象は武骨で男性的だ。
この城の特徴は複合式といわれる付櫓(つけやぐら)だ。入口は天守本体にはなく、天守台に接続する建物を経由しないと内部には入れない。「複合式天守」と呼ばれ、攻撃してくる敵に横矢を掛けられる防御機能がある。つい最近行った彦根城も同様だった。
もう一つの特徴は出入口を開閉する分厚く重い鉄扉(くろがねとびら)を入ると、正面の壁はまた石垣になっていて、右に左と進むうちに侵入者は背後から攻撃される構造になっている。門の枡形虎口の構造が建物内に作られていると言っていいだろう。
薄暗い地階に入ると、真正面には大樽の形をした古井戸がある。深さは24mもあり籠城戦に備えて掘られたという。その奥には天主の土台部分の柱が輻輳し、蔵としても使っていたのだろう、各種の大道具や部材が見え、それらに降り積もった灰塵が500年の歴史を物語っている。
急階段を上ると、数本の太い柱が規則正しく林立している。メインの展示室らしく、ガラスケースに入った数体の武者鎧がおどろおどろしく迎えてくれる。黒が基調の無駄を省いた実戦向きのものや、きらびやかな装飾を施した平和時のものなど、今にも動き出しそうな形相でこちらを見ている。
兜の種類も豊富にそろっている。様々なデザインは身分や階級、あるいは戦場での役どころを示唆するものだろうか?いや、それよりもこれらの武具、『なんでも鑑定団』に出品するといくらの値段が付くのだろうか?ついつい値踏みしてしまう。
そして部屋中央で並ぶ太い通し柱は、一本の材木を加工したものではないらしい。数本の檜柱を束ねて鎹(かすがい)を打って繋ぎ合わせ、それを鉄輪で締めている寄木柱(よせぎばしら)だ。力学的には一本の木よりも弾力性が優れているという。耐震性まで考えられた当時の作事技術には敬服する。
松江城天守は4重5階の望楼型天守。入母屋造りを基部にして、その上にもう一つの入母屋造りの物見(望楼)を載せた構造。代表的なのが秀吉の大阪城天守で破風(はふ)が多く装飾性に富んでいる。それに対して層塔型天守は、五重塔のように下階から上階へいくに従って、階のサイズが小さくなっていく構造。この層塔型は関ケ原以降に登場した新しい形式で、多数の築城を進めるには合理的で近世城郭のスタンダードとなった。代表的なのが明暦の大火(1657)で消失した江戸城が完成形であったといわれる。
そしてこの松江天守は、窓の外には廻縁(めぐりえん)がなく外に出ることはできない。大きく開閉できる窓には手摺りが付けられていて「内部望楼型天守」と呼ぶ。
外国人観光客で占拠された最上階は本当に明るく開放的だ。開け放たれた窓は広く市街がどの方向からも見渡せ、特に南側はシジミの産地宍道湖が海のように広がっている。水運と陸上交通の要のこのお城を中心に、平和な徳川期には風光明媚な城下町として発展していったのだろう。
松江城は、関ケ原から大阪の陣まで軍事的に緊張した時期を反映した実戦的な城だ。付櫓といい、出入口の鉄扉といい、籠城戦に備えた井戸といい戦闘を想定した構造になっている。他に、外部からは発見しにくい石落(いしおとし)や鉄砲狭間(さま)の構造もある。戦国期を戦い抜いた堀尾吉晴の周到なほどの「戦う天守」なのだ。
国宝昇格で沸く松江市、長年町のシンボルとして大事に保存されてきたお城は、新たな市民の誇りとなって生き続けていくだろう。
下城後、お城北側にある「塩見縄手」と云う通りを歩いてみた。お堀沿いの通りは武家屋敷の高い壁が続き、江戸時代にタイムスリップしたかのような風情が漂っている。鬱蒼とした緑に囲まれたお堀には頻繁に観光の屋形船が走り、歩道の植え込みには見頃の過ぎたアジサイが色を添えている。
通りの一角にある明治の文豪小泉八雲の旧居も訪ねてみた。三間続きの和室から望む庭園は、かつての侍屋敷の風流と美意識を伝えている。江戸、明治、そして現代が共存する塩見縄手、もう一度ゆっくり歩いてみたい場所となった。
もう陽光はすっかり夕方の様相、ふたつの国宝を胸に、遠い帰路にまた車を走らせた。
米子自動車道湯原ICを降り、R313、482、179の3国道を経由して一路鳥取県倉吉市をめざす。広い天神川を渡り県道21号線に入り、三朝温泉を過ぎると三徳山正面入口に着いた。ICを降りて1時間弱、思いのほか早くの到着だ。今日は梅雨の晴れ間、正面の長い石段が朝の陽光を浴びてキラキラ光っている。
今回、世間をちょっと甘くみていた。受付で入山料を払おうとすると、一人入山をきびしく拒否されてしまった。事前の調べで知ってはいたが、なんとかなるだろうと思い、強く頼み込んではみたものの、受付のおにいちゃんは頑として首を縦にふらない。話しによると数年前滑落死亡事故があり、それ以来単独での入山は禁止されたらしい。
「ここまで来たのに諦めるのか、、、?」グループであれば可能だと云うので、不安と期待のなか待つこと20分。ケラケラと笑い声がしたかと思うと、60代と思われる4人のオバちゃんグループが上がってきた。すかさず「奥の院まで行かれるのでしたら、ご一緒させてもらえませんか?」とお願いすると、即座に快諾してもらい、ようやく受付を通過できる運びとなった。
さらに石段を上ると、樹齢数百年と思われる大杉に囲まれた境内に出た。一番奥に三佛寺本堂が見える。
三徳山三佛寺は、慶雲3年(706年)に伝説的修験者役小角(えんのおづぬ)が開山した、というから古い。「子守、勝手、蔵王」の三権現を祀り、嘉祥2年(849年)には円仁が「釈迦、阿弥陀、大日」の三仏を安置して「浄土院三徳山三佛寺」を正式名称とした。
深山の山寺だけあって長い歴史と神聖な空気に包まれ、心身共に六根清浄される心地だ。境内の手入れは行き届き、平日で参拝者も少なく、あたりは森閑と静謐で満たされている。
本堂参拝のあと、奥の院投入堂(なげいれどう)への入山となるが、またここでも参拝受付がある。入山者は住所、氏名、緊急連絡先を記入し、入山時間と下山時間を書かねばならない。北アルプスを目指す上高地じゃあるまいし、その厳格さは徹底している。おまけに靴裏を見せろと云い、金属製のソールじゃないかの確認はするわ、持っているストックはザックに入れろとか、そうしないなら受付に預けろとか、あれこれいちいち云う事には辟易する。「こちとら山は20年以上やっているのだ!」
門をくぐり赤い宿入橋を渡り、いよいよいきなりの急坂にかかる。
寒風山の登り始めにも似た坂道が続く。大阪の羽曳野から来たと云うオバちゃんグループは、卓球同好会のメンバーで意外と足腰はしっかりしているようだ。
元気に岩場を登るオバちゃん達
ただ4人のうち1人のオバちゃんだけが、重い身体を持てあましているようで動きが鈍い。聞きもしないのに「あたし72にもなるから、付いて行けるやろか?」と、もう汗をかきながら弱音を吐いている。今回が初めての登山らしい。
結局私は最後尾に付き、遅れがちなそのオバちゃんのヘルプ役となり、下山するまでお付き合いするハメとなった。浮き石や木の根に足を置くなとか、鎖場では鎖に頼ることなく足の置場に注意しろとか、急斜面では三点確保が大事だとか、ついつい口に出してしまう。それでも「私はいつも5点確保です」とだけは云えなかった。今日初めて会ったオバちゃんなのだから、それだけは神聖な場を汚してしまう。私は品格の人、、、うずく口を押え胸の奥深くにしまい込んだ。
文殊堂脇の鎖場
国の重要文化財文殊堂と地蔵堂には廻り縁があり、そこに立つと足のすくむような絶壁が足許から切れ落ちている。
さらに進むと岩の上に鐘楼堂があり、元気なオバちゃん達は入れ替わり立ち替わり鐘をつき始めた。
「ゴーン~ ゴーン~ ゴーン~~~、~~、~、、、」
その鐘の音は、ケラケラという笑い声と共に信仰と修験の山肌に響きわたった。
「ついてるとこの写真撮って!待受け画面にするから、、、」とか「孫に写真送らなきゃ、、、」とか、オバちゃん達はやることがいっぱいあるらしい。
この光景、女人禁制の時代、役小角でさえ想像だにしなかったであろう。
様々なお堂を通り過ぎていくなか観音堂が面白い。岩をえぐり取った様な空間に、まるで参拝者を追い返すように参道を遮っている。通る者はお堂裏の真っ暗な隙間を通過するしかない。
そしていよいよ奥の院投入堂の下に出た。眼前には石鎚東稜北壁を彷彿とさせる断崖絶壁が広がる。長年の造山活動で幾重にもなった岩の層、下方はどこまで続いているのか分からない絶壁の裾が、深い緑の底に消えている。中間部は大きく横に口を開け、その窪みとなった空間にへばり付くようにお堂が作られている。
流造という屋根の上方は岩がオーバーハングし、屋根を支える柱はそれぞれ長さが異なり、それらに支えられた板床が狭い水平面を維持している。
「どうやって作ったのだろうか、、、?」
まず外枠の足場は作れそうにない。クレーンなど大型重機のない時代、太くて長い柱の架設さえ困難を窮めたであろう。
立て看板があった。
『修験道の祖、役行者が神窟を開き法力を持って投入れた』とある。やはり法力や神通力に頼るほかないのかもしれない。
到着後まもなく30代と思われる山ガール二人組が上がって来た。受付のあの時、オバちゃんグループをやり過ごしておけば、この二人と一緒の参行になっていたに違いない。悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。今となってはオバちゃんグループと同行二人なのだ。役行者の御示唆と思い諦めるしかない。ともかくオバちゃんらがいたからこそここまで来れたのだ。感謝しなければならない。
山ガールA
山ガールB
足場の悪い岩場でオバちゃん達とキャッキャッと云いながら記念撮影をし、また来た道を引き返す。同じ隊列のもと、動きの鈍いオバちゃんをフォローしながら岩場を下る。やはり上るより下る方に難儀しているようだ。身体を岩側に向けるよう指導すると、立って下りられる岩場でも律儀にその動作を繰り返す。どうしてもそのオバちゃんと私は遅れ気味になる。下から見上げる元気なオバちゃん達も呆れ顔。まだかまだかと業を煮やしている。
ゆっくりと往復2時間、その気になれば1時間半あれば十分だろう。下山後オバちゃん全員の感謝を受けた。特に初登山のオバちゃんは私の見事なヘルプに感激したらしく、自販機で買ったコーラと昨夜泊まったらしい三朝温泉のお菓子「とちの実ゴラレット」を差し出した。
そして別れの挨拶もそこそこに、先を急ぐ私はとっとと逃げるように石段を下りて行った。
〈その2 松江城〉
三徳山から下りて来るとすっかり午後の陽射し。また天神川を渡り、今度は倉吉市街を北上し、日本海沿岸を走る国道9号線に出た。地図で見ると倉吉から松江までは約80キロ、おむすびをかじりながらとにかく急いだ。数基の風力発電のプロペラを見ながら信号の少ないR9は快適だ。右側にはどこまでが水平線なのか判然としない日本海が広がり、左側には見えるはずの大山が白灰色のガスでその山容を隠している。
途中からは無料区間の山陰道を西へひたすら走り、米子市手前から交通量は次第に多くなる。そして米子・松江間は一部有料区間(670円)になり、中央インターを下り一般道を北上すること20分、茶褐色の石垣が美しいお濠端に着いた。
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現在、創建時から現存する天主は12。江戸初期の最盛期には100近くあったが、家康の「一国一城令」や明治の「廃城令」、そして火災などで多くが失われた。それでも昭和初期までは17の天主が存在していたが、さらなる戦災で現在の数になっている。そのうち4件(松本城、犬山城、彦根城、姫路城)が国宝に指定されていたが、今年に入り新たにこの松江城が国宝の仲間入りをした。(残り7は重要文化財)
松江城は慶長16年(1611)の完成と後世の記録に書かれていたが、裏付けとなる資料がなかった。国宝指定の切り札となったのは「祈祷札(きとうふだ)」の発見。城内にある松江神社の調査から出てきたもので、『慶長16年正月祥日』と墨書で書かれ、城の安全を祈願したものらしい。平成21年「松江城を国宝にする市民の会」の発足以来、市民の国宝昇格運動は盛んになり、官民揚げての念願がやっと成就したことになる。
城内に入るとまず馬留跡の広さと整然と積み上げられた石垣に圧倒される。
戦国期から徳川期にかけて、石の加工技術と積み方は飛躍的に進化する。自然石だけを積み上げた野面積(のづらづみ)、ある程度石を加工した打込接(うちこみはぎ)、さらに加工し形を整えた切込接(きりこみはぎ)、最終的には石と石の隙間を紙一枚通さないほどの接合技術となる。この松江城はほとんどが打込接で、一部が野面積だと看板にある。
石段を上り二の丸広場へ。かつてここには御広間や番所、石垣沿いに各種の櫓があり、一段高い西半分には最近祈祷札が見つかったという松江神社がある。
そして見学チケットを買いいよいよ天主のある本丸へ。松江城は標高29mの亀田山に作られた平山城なので、戦国期に作られた山城のように長い石段を上る必要はない。
初めて見た第一印象は壁の黒さだ。白を基調とした姫路城や彦根城と違って、上部だけが白く下部は柿渋で塗った黒さが全面を覆っている。ちなみに黒い城は西国に多く、白い城は徳川政権ゆかりの城に多い。
築城したのは戦国の猛将と云われた堀尾吉晴。当初は秀吉に仕え、関ケ原では家康に付いた。その戦功で出雲・隠岐24万石の所領を与えられこの城を築いた。波乱の戦国期を戦い抜いた武将だけに、天主の印象は武骨で男性的だ。
この城の特徴は複合式といわれる付櫓(つけやぐら)だ。入口は天守本体にはなく、天守台に接続する建物を経由しないと内部には入れない。「複合式天守」と呼ばれ、攻撃してくる敵に横矢を掛けられる防御機能がある。つい最近行った彦根城も同様だった。
もう一つの特徴は出入口を開閉する分厚く重い鉄扉(くろがねとびら)を入ると、正面の壁はまた石垣になっていて、右に左と進むうちに侵入者は背後から攻撃される構造になっている。門の枡形虎口の構造が建物内に作られていると言っていいだろう。
薄暗い地階に入ると、真正面には大樽の形をした古井戸がある。深さは24mもあり籠城戦に備えて掘られたという。その奥には天主の土台部分の柱が輻輳し、蔵としても使っていたのだろう、各種の大道具や部材が見え、それらに降り積もった灰塵が500年の歴史を物語っている。
急階段を上ると、数本の太い柱が規則正しく林立している。メインの展示室らしく、ガラスケースに入った数体の武者鎧がおどろおどろしく迎えてくれる。黒が基調の無駄を省いた実戦向きのものや、きらびやかな装飾を施した平和時のものなど、今にも動き出しそうな形相でこちらを見ている。
兜の種類も豊富にそろっている。様々なデザインは身分や階級、あるいは戦場での役どころを示唆するものだろうか?いや、それよりもこれらの武具、『なんでも鑑定団』に出品するといくらの値段が付くのだろうか?ついつい値踏みしてしまう。
そして部屋中央で並ぶ太い通し柱は、一本の材木を加工したものではないらしい。数本の檜柱を束ねて鎹(かすがい)を打って繋ぎ合わせ、それを鉄輪で締めている寄木柱(よせぎばしら)だ。力学的には一本の木よりも弾力性が優れているという。耐震性まで考えられた当時の作事技術には敬服する。
松江城天守は4重5階の望楼型天守。入母屋造りを基部にして、その上にもう一つの入母屋造りの物見(望楼)を載せた構造。代表的なのが秀吉の大阪城天守で破風(はふ)が多く装飾性に富んでいる。それに対して層塔型天守は、五重塔のように下階から上階へいくに従って、階のサイズが小さくなっていく構造。この層塔型は関ケ原以降に登場した新しい形式で、多数の築城を進めるには合理的で近世城郭のスタンダードとなった。代表的なのが明暦の大火(1657)で消失した江戸城が完成形であったといわれる。
そしてこの松江天守は、窓の外には廻縁(めぐりえん)がなく外に出ることはできない。大きく開閉できる窓には手摺りが付けられていて「内部望楼型天守」と呼ぶ。
外国人観光客で占拠された最上階は本当に明るく開放的だ。開け放たれた窓は広く市街がどの方向からも見渡せ、特に南側はシジミの産地宍道湖が海のように広がっている。水運と陸上交通の要のこのお城を中心に、平和な徳川期には風光明媚な城下町として発展していったのだろう。
松江城は、関ケ原から大阪の陣まで軍事的に緊張した時期を反映した実戦的な城だ。付櫓といい、出入口の鉄扉といい、籠城戦に備えた井戸といい戦闘を想定した構造になっている。他に、外部からは発見しにくい石落(いしおとし)や鉄砲狭間(さま)の構造もある。戦国期を戦い抜いた堀尾吉晴の周到なほどの「戦う天守」なのだ。
国宝昇格で沸く松江市、長年町のシンボルとして大事に保存されてきたお城は、新たな市民の誇りとなって生き続けていくだろう。
下城後、お城北側にある「塩見縄手」と云う通りを歩いてみた。お堀沿いの通りは武家屋敷の高い壁が続き、江戸時代にタイムスリップしたかのような風情が漂っている。鬱蒼とした緑に囲まれたお堀には頻繁に観光の屋形船が走り、歩道の植え込みには見頃の過ぎたアジサイが色を添えている。
通りの一角にある明治の文豪小泉八雲の旧居も訪ねてみた。三間続きの和室から望む庭園は、かつての侍屋敷の風流と美意識を伝えている。江戸、明治、そして現代が共存する塩見縄手、もう一度ゆっくり歩いてみたい場所となった。
もう陽光はすっかり夕方の様相、ふたつの国宝を胸に、遠い帰路にまた車を走らせた。
おこられるよ~
目に留まらないことをお祈りします。
誠心誠意のフォローが、台無しになった流れになってるかもしれん。
目に留まらんことをホンマに祈るわ!
後半書き上げるまでとりあえず非公開にしておくわ。
松江は山陰路の拠点で、さいさい訪れたところなのに松江城も小泉八雲も行った事がない。
読ませてもらって、すごく新鮮な発見をした感じだった。
お城に通じる幹線道路は拡張工事でガタガタしてたけど、北側の武家屋敷の通りは本当に閑静でした。ただ、国宝昇格で観光客は多かったな~。