北近江の賤ヶ岳から望む余呉湖
天正11年(1583)4月、信長と光秀亡き後、この山域で柴田勝家と羽柴秀吉が激突。賤ヶ岳の戦いと云うと「賤ヶ岳の七本槍」の活躍が有名だが、秀吉の勝因は戦う前の圧倒的な起動力にあった。大垣から木之本へ5時間で52キロを疾走するという離れ業は、柴田軍にとって予想だにしない出来事だった。
秀吉は本能寺で主君信長の死を知ったとき「中国大返し」やってのけているが、大部隊の迅速な大移動は2例目になる。この戦いは柴田軍内の身勝手な命令違反や与力の戦線離脱で、徐々に追い込められ、勝家は満身創痍となって居城の越前北ノ庄城へと逃げ帰った。そして城を包囲された彼は最期を覚悟したのか、少なくなった家臣団と最後の酒宴を開き、天守を大量の火薬で爆破させ自刃する。享年62歳だった。
そんな北近江の賤ヶ岳と越前の北ノ庄城跡を訪ねてみた。
〈その1 賤ヶ岳の戦い〉
琵琶湖の最北部にある賤ヶ岳(421 m)。山麓からは僅か6分の登山リフトで登れ、北には青い湖面の美しい余呉湖が佇み、南には海のような琵琶湖が広がっている。遠く南方向には竹生島や伊吹山が見え、標高は低いが素晴らしい絶景に囲まれている。11月中旬のこの日は晴天に恵まれ、吹きわたる爽やかな風が心地よい。たくさんの登山者で賑わい、気軽なハイキングを楽しんでいる。
余呉湖の向こうには幾つもの尾根が重なり合い、その複雑な地形が両軍の攻防戦の難しさを伝えている。対峙した両軍の砦の数は合わせて20余。それぞれの部隊が尾根上に布陣し、二重三重の防衛ラインを築いていた。
天正10年(1582)6月は戦国期最大の激動期だ。本能寺で信長と嫡男・信忠が自刃すると、それを知った秀吉は直ちに「中国大返し」を始める。そして山崎の戦いで光秀を討つと、秀吉は安土、美濃へと進み、尾張の清須城に入った。
27日に始まった清須会議は、亡き信長の後継者の選定と遺領配分を議題としたもので、織田陣営の将来を左右する重要な会議だった。それは光秀を討った秀吉の意向が終始優先され、織田家筆頭家老の柴田勝家の意見はことごとく退けられた。唯一聞き入れられたのは、秀吉の居城・長浜城のある北近江3郡を譲り受けたことだけだった。戦場では「鬼の柴田」と呼ばれた勝家だったが、智謀豊かな秀吉の政略にはなすすべがなかった。質実剛健な勝家と権謀術数に長けた秀吉の戦いは、ここから始まったと云えるかもしれない。
羽柴秀吉 柴田勝家
勝家が会議で北近江を欲しがったのは当然だった。信長から与えられた越前の領地は、冬は大雪で閉ざされる地域だった。特に栃ノ木峠を越え北近江に入る北国街道は、12月から3月までは深い雪で閉ざされ、部隊の移動などは到底不可能だった。そのため北近江にある長浜城を押さえておくことは、畿内に出る唯一の拠点となるのだ。
信長と光秀亡き後、織田家の有力幕僚は柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、滝川一益、そして羽柴秀吉の5人の家臣だった。秀吉とそれら4人との関係は、いかなるものだったのだろうか?
丹羽長秀は勝家と同格の譜代衆だったが、秀吉の非凡な政略の才能を評価し、清須会議では終始秀吉の側に立った。池田恒興は本能寺以前から秀吉と密な関係にあり、山崎の戦いでは秀吉軍の3番手として奮戦したほどだった。
一方、柴田勝家は筆頭家老の立場から、成り上がり者の秀吉とはことごとく対立した。しかし会議では光秀を討った秀吉の前では、影響力を低下させていった。滝川一益は関八州を監視する関東管領までになっていたが、本能寺後北条氏との戦いで敗れ、居城の伊勢長島城へ逃げ帰るという憂き目に合っていた。勝家にとって一益こそが唯一頼みとする武将だったが、秀吉の主導する会議には招かれず宿老の座も奪われた。
丹羽長秀 池田恒興
清須会議の後継者問題は、最終的には秀吉の推す3歳の三法師(信忠の嫡男)が織田家の家督を継ぐことになった。通説では信長の次男・信雄(のぶかつ)と三男・信孝の後継者争いとして語られてきた。しかし近年では三法師が家督を継承することは、信長在命時から決められていたことで、織田家中の者たちには異論はなかったされている。問題は三法師が成人するまで名代を置くかどうかで、信雄と信孝の対立はあったとされる。
結果として単独の名代は置かず、信雄と信孝が後見人となり、秀吉、勝家、長秀、恒興の4幕僚が補佐する体制ができ上がった。ただ遺領配分では、不満を持つ者が3人いた。
一人は勝家で、秀吉が光秀の旧領28万石を受け継いだのに対して、北近江12万石のみの加増で、勝家と秀吉の領地は逆転した。秀吉の領地は自領を合わせると百万石近い領地になり、家中第一の実力者になっていた。ただ、勝家にとってひとつ救われたことは、戦国一の美女と云われたお市の方との結婚が、信孝によってもたらせれたことかも知れない。二人目は信孝で、支配することになった美濃と信雄の尾張との国境線問題で意見が通らず、徐々に不平不満を募らせていった。三人目の滝川一益に至っては、会議自体に参加させてもらえず、かつて支配していた旧武田領が家康のものとなり、北伊勢以外の領地はすべて失ってしまった。
そのため会議の決定は、勝家、信孝、一益3人による反秀吉網を作りあげる結果となった。裏を返せば、秀吉の天下取りは織田家中の3人を排除すれば、大きく前進することになる。
そして更に秀吉の政治工作は続き、10月11日から15日には大徳寺で盛大な信長の葬儀を催した。主宰者の権威を高めるために、朝廷から中将という官位も得た。集められた警備の数は3万人、僧侶は宗派を問わず5千人という凄まじい葬儀で、織田政権の後継者は自分であると天下に知らしめた。もちろん勝家、信孝、一益の3人は、自国を離れることなく参列はしていない。
尾張清須城 (2019 4 26 撮影)
12月7日、秀吉は越前が雪で閉ざされたことを知ると、いよいよ5万の兵を率いて長浜城を包囲した。この城には勝家の甥・柴田勝豊が城主として入っていた。しかしこのとき勝豊は病床の身であったため、戦わずして降伏したが、柴田家内での不遇な彼の立ち位置が影響したようだ。
勝家のもうひとりの甥・佐久間盛政が、家中で威勢を増大させるにつれ、勝家は勝豊を疎んじるようになり、長浜城入封は左遷というべき人事だった。秀吉が長浜城を包囲したとき、勝豊はすでに柴田家離反の決意をしていた節がある。秀吉はそんな柴田家のお家事情を知って攻城したのかも知れない。各所に間者を潜入させていた秀吉の情報戦が勝利したと云えるだろう。
近江長浜城 (2019 11 10 撮影)
そして秀吉は美濃に軍を進め、12月20日には岐阜城の信孝を降伏させた。さらに翌年2月16日には滝川一益の北伊勢にある長島城を攻撃した。しかし一益も猛将のひとりだけあって抵抗は頑強だ。7月まではなんとか持ちこたえたが、最後には秀吉に降伏した。
秀吉が勝豊を誘降し、信孝や一益を攻撃したことを知った勝家は、満を持して雪深い越前北ノ庄城を出陣した。3月12日には総勢3万の兵を率いて、栃ノ木峠を越え北近江の柳ヶ瀬に布陣した。
一方秀吉は1万の兵を伊勢に残し、3月19日には5万という大軍で北近江の木之本に布陣した。しかし両軍ともしばらくは攻撃に出ることはなく、壕を掘り土塁を設け陣地や砦造りに専念した。双方とも山や尾根を利用して、二重三重の防衛ラインを構築していった。また秀吉の援軍・丹羽長秀7千は、勝家軍南下を阻止するために、琵琶湖北端の海津に布陣した。
賤ヶ岳の南側には満々と水を湛えた琵琶湖が広がっている。
舟でやって来た丹羽長秀隊はこの辺りから上陸した。
秀吉は平地戦を、勝家は山岳戦を得意とした。秀吉は勝家軍を平野に誘い出し短期決戦をもくろみ、一方勝家は狭隘な谷に秀吉軍を侵入させ撃破する長期戦の構えをとった。しかし数ヶ所で小さな小競り合いはあったものの、両軍の膠着状態は4月中旬まで続いた。
そんなとき一度は秀吉に降伏していた信孝が、再び挙兵し岐阜城に迫った。それに呼応したのか北伊勢の一益も息を吹き返し、美濃の諸城を攻撃し始めた。秀吉軍の主力は北近江に張りついている。数千の兵を残しているとはいえ、美濃や北伊勢方面の兵力は手薄だ。ここで秀吉は北近江、美濃、北伊勢の3方面で作戦を強いられることとなった。
そして4月17日、ついに秀吉は決断する。弟の秀長隊を木ノ本に残し、岐阜城の信孝を討つために、2万の兵を率いて大垣城へと急行した。ところが昨夜からの豪雨で揖斐川が氾濫し、渡河は不可能になり余儀なく滞陣を迫られた。
一方勝家側には、諜者の情報で秀吉の不在が知らされ、願ってもない好機が訪れた。勝家の甥で鬼玄蕃と云われた佐久間盛政は、余呉湖の東尾根にある大岩山の奇襲攻撃を進言する。大岩山は確かに兵が少なく防備が手薄だが、敵陣深い砦だったため勝家はすぐには首を縦に振らなかった。しかし若い盛政の熱心な提案に対して、攻撃後は速やかに撤収することを条件に許可した。
佐久間盛政(1554~1583 享年30歳)
4月20日午前1時、盛政率いる8千の奇襲部隊は作戦開始。同時に部隊を後方支援するために、前田利家隊2千も余呉湖北西部にある茂山に布陣。奇襲部隊は余呉湖西部を大きく迂回し、朝もやのなか、中川清秀の守る大岩山に駆け登り攻撃した。清秀は千の兵で奮戦したがあえなく戦死。同時に隣りの岩崎山も降伏させ、予想以上の成果を上げた。
そして勢いに乗った盛政は、勝家の即時撤収の命令を無視。眼下の秀長の陣を攻撃する準備に取り掛かっていた。勝家の脳裏には秀吉の「中国大返し」もあり、6度も使者を派遣し撤収を促したが、盛政は大岩山に居座り続けた。この盛政軍の突出こそが、後になって柴田軍の命取りとなる。
大垣城で足止めになっていた秀吉が、この「大岩山・岩崎山の両砦陥落」の報を受けたのは20日正午頃だった。彼は即座に北近江に引き返すことを決断。岐阜城の押さえのために5千の兵を残し、1万5千の本隊は疾風怒濤のごとく、木之本目指して「美濃大返し」を始めた。
大垣・木之本間は距離約52キロ。午後4時に出発した1万5千の大部隊は、午後9時には続々到着したと云うから、時速10.5キロの神速だ。通常の行軍速度は速くて4キロだ。大返しの兵は重い甲冑は付けず、ただひたすら走ったに違いない。先行した石田三成の手配で、住民の協力を得て松明や食料が用意されたと云う。
秀吉の大返しを予想だにしなかった佐久間盛政は、顔色を失った。秀吉の着陣は早くとも明日21日午後と踏んでいただけに、緊急事態発生だ。午後11時、盛政は即刻退却命令を出す。兵は戦闘で疲労困憊だったが、攻撃ルートと同ルートで退却を開始した。
手前が余呉湖東側にある大岩山と岩崎山の尾根
翌21日午前2時、盛政軍撤退の報を得た秀吉は直ちに総攻撃を命令。深夜の追撃だったが、盛政軍の殿隊(しんがりたい)の抵抗は凄まじい。樹陰に鉄砲隊を潜めておき敵が近づくと撃ってくる。おまけに勝政(盛政の弟)隊の側面からの援護も加わり、両軍は山間部や湖畔で激戦となった。山上から見ていた秀吉は、犠牲者が多すぎると判断し、目標を勝政隊だけに切りかえた。
午前7時過ぎ、湖の北西にある権現坂までほとんど無傷で撤退した盛政軍は、勝政隊に合流するよう促した。一方秀吉軍は賤ヶ岳周辺に兵力を集中させ、暫しの静けさの中で、勝政隊の背後を突くべく体制を整えた。
午前8時、勝政隊が移動し始めると、秀吉軍の鉄砲隊がいっせいに咆哮した。「今だ!撃て、撃て!」バタバタと倒れ伏す勝政隊は大混乱に陥り、浮足立った兵は我先にと敗走し始めた。
このとき秀吉の大音声(だいおんじょう)が響きわたった。「功名を立てるは今ぞ!我と思わん者は突っ込め!」
それを受けた将兵たちは先を争うように坂を駆け下りた。先頭を走るのは福島正則や加藤清正らの、秀吉軍屈指の精鋭たちだ。世に名高い『賤ヶ岳の七本槍』という名誉はこのときに生まれた。(実際には感状を与えられたのは9人だが、語呂のよい七本槍が世に流布したらしい)
これを権現坂から見ていた盛政軍は、再び山を下り打って出た。主戦場は余呉湖の南岸から西岸に移り、ますます勢いづく秀吉軍に対して、じりじりと追いつめられる盛政・勝政軍。勝政はいつしか無念の討死、湖畔には両軍の屍が無数に横たわり、余呉湖の水は赤く染まったと云う。
余呉湖西岸、左手前の谷筋を上ると権現坂
そしてこの激戦の最中、思いもしなかった異変が起こった。盛政の背後に布陣していた前田利家隊2千が、柴田側の負けを見越したのか戦場から離脱し始めた。それに呼応するように金森長近隊1400と不破勝光隊700も撤退していった。この行動は戦場心理として最も恐れられ、「裏崩れ」と呼ばれる。
この寝返りは戦い以前に密約がなされていたようだ。昨年11月、勝家の命を受けた3人は秀吉の山崎宝寺城に赴き、表向きではあったが停戦の和議を結んだ。そのとき秀吉の甘い勧誘があったのは間違いない。ましてや利家は若い時分から秀吉とは親友であり、家族ぐるみの付き合いだった。
盛政軍を後方から支援するはずの前田隊らの離脱は、盛政軍に決定的な打撃を与え、とうとう自身も敗走していった。
そして盛政軍を撃破した秀吉の大軍は、巨大な津波のごとく柴田軍本隊に襲いかかった。劣勢になった勝家軍は多くの敗走兵を出し、わずか3千ほどになっていて、反撃に出るほどの戦力はすでになかった。最後に重臣の毛受勝輝(めんじゅかつてる)は、勝家が安全な場所へ逃げるまで時間稼ぎの抵抗を続けたが、全員むなしく、そして華々しく散って果てた。勝家はわずか300の兵に守られ、越前北ノ庄城を目指して、北国街道を北上して行った。
勝家の敗因は、突出し命令違反をした盛政軍と迅速な秀吉の大返し、そして前田利家らの予想外の寝返りにあるのは間違いない。では、清須会議から合戦に至るまでの双方の外交的戦略はどうだったのだろうか?
秀吉は会議後すぐから来たるべき戦さに備えて、諸大名対策に余念がなかった。まずは細川父子に光秀の旧領丹後を安堵し味方に引き入れた。また同時に大和の筒井順慶は人質を入れ下ったきた。そして敵対する信雄と信孝を利用し、上杉景勝や徳川家康に傍観するよう協力体制を整えた。また毛利氏も安国寺恵瓊を仲立ちに動かぬよう釘を刺した。その他の有力大名も秀吉の味方にならずとも、中立を保つよう工作していった。
一方、雪で閉ざされ地理的に不利な立場にいた勝家は、信勝や一益と与して背後から秀吉を牽制したが、その反秀吉勢力との連携は充分とは云えなかった。勝家としては一戦で勝敗をつけるのではなく、秀吉を北近江と美濃を何度も往復させ、疲弊したところでとどめを刺す作戦だったのだろう。しかし秀吉の大返しにあったように、その起動力とそれを可能にした兵站力は、勝家の思惑をはるかに越えていた。また甥の勝豊や与力大名の前田利家らの離反は、人心を収攬(しゅうらん)する勝家の能力が欠乏していたというよりも、秀吉の掌握術の方が勝っていたのかも知れない。
賤ヶ岳の戦いは実質2日で終わってしまったが、秀吉の半年以上の外交戦略が勝利を導いたのは間違いない。また川の氾濫で滞陣を強いられたことは、自然をも味方に引き入れたと云えるだろう。
リフトから見える秀吉の本陣のあった木之本の町並み
〈その2 越前北ノ庄城跡〉
福井県の観光スポットの目玉は恐竜博物館。そのためJR福井駅前はまるでジェラシック・パークだ。巨大なアパトサウルスと2頭のティラノサウルスが、動いては雄叫びを上げていて、ファミリーの人気を集めている。
北ノ庄城跡はそんな駅前から南へ徒歩7分。広い国道に面した所にあり、周囲は高いビルの建ちこむ繁華街だ。城跡は柴田神社の境内になっていて、中央に柴田勝家の銅像が威風堂々と座っている。
石垣の遺構は思いのほかわずかで、野面積みの基礎部の数段だけが残っているだけだ。
守護大名の朝倉氏や越前一向一揆を討った信長は、その論功行賞として勝家に越前8郡50万石を与えた。城は天正3年(1575)に普請が始まり、約6年の歳月をかけ築かれた。広大な敷地の中には本丸、二ノ丸、三の丸が配置され、この柴田神社あたりに本丸の天守が聳えていたと云う。
天守は外観5層、内部9階の構造で、フロイスの日本史によると、信長の安土城に勝るとも劣らない壮大な城だと書き残している。屋根瓦は雪やツララ対策として石瓦が葺かれ、壁は真壁造りで柱が外部から見える建築物だったようだ。
天正11年(1583)4月21日、賤ヶ岳で秀吉に大敗した勝家はこの北庄城に逃げ帰り、わずか3千の兵とともに籠城した。そして23日、追撃してきた秀吉の大軍は、城を包囲し凄まじい攻撃にかかった。総兵力7万という秀吉軍は二ノ丸、三の丸を落とし、翌24日午前4時には本丸の総攻撃を開始し、天守へと迫った。
勝家は最期を覚悟したのか、天守の5層目に上り、生き残った80余の家臣と別れの酒宴を開いた。そして午後5時、天守の地下で大量の火薬を爆破させ、お市とともに自刃。勝家の切腹は腹十字に掻き切って、五臓六腑を掴み出す壮絶なものだったと云う。このとき戦国一の美女と云われたお市は36歳の若さで、勝家とはほんの5ヵ月ばかりの蜜月だった。
築城以来わずか7年、雄壮を誇った越前北ノ庄城は、紅蓮の炎に包まれことごとく灰塵に帰した。
信長の妹・お市の方は自刃してしまったが、遺子の三姉妹は救出された。このとき長女の茶々は15歳、次女のお初は12歳、三女のお江は10歳だった。お市の主で三姉妹の父である浅井長政が、信長によって滅ぼされたのは10年前の天正元年。三姉妹が炎上する城から助けられたのは、これで2度目になる。母と娘たちの断腸の別れは、きっと悲愴この上ないものだっただろう。
戦国一の美女と云われたお市の方と三姉妹
その後、次女のお初は長政の甥・京極高次に輿入れし、三女のお江は最終的に徳川第2代将軍・秀忠の正室となった。二人の人生は波乱万丈ではあったが、最期は比較的平穏に高齢の生涯を閉じている。ただ長女の茶々だけは違っていた。秀吉の側室になったばかりに、大坂夏の陣の落城で、嫡男の秀頼とともに自刃に追い込まれている。弱肉強食の戦国期から徳川初期まで生きた茶々は、3度も炎に付きまとわれた不運な生涯だったと云える。享年46歳。
この北ノ庄城攻城戦で秀吉は、織田軍団最強の勝家を滅ぼし、お市さらに信孝も自刃に追い込み、主家織田の匂いを払拭した。秀吉の天下取りは大きくステップアップし、翌年には信雄と与した家康との小牧・長久手の戦いへと突入していく。秀吉の機動力と決断の速さ、そして水面下での外交や情報収集力は、戦国武将の戦い方を大きく変えたのかも知れない。
〈その3 丸岡城〉
福井市内から北へ約12km、国道8号線から東に入り、閑静な住宅街を抜けると広い駐車場がある。比高17mの小高い丘の上にある丸山城は、望楼型の最も古い様式を伝える平山城だ。現存12天守のひとつで、天守は重要文化財に指定されている。見た目は小振りで武骨だが、古式ゆかしい風情を漂わせている。
屋根は二重で内部は三階になっていて、見上げた天井の木組みが古い様式を伝えている。屋根には雪対策として石瓦が葺かれ、雪国ならではの特徴になっている。
石垣は信長の安土城同様、典型的な野面積みで、ひとつひとつ積み上げられた自然石が美しい。
天正3年(1575)、越前の一向一揆を平定した信長は、その恩賞として先鋒となった柴田勝家に越前50万石を与え、北ノ庄城の築城を命じた。勝家は甥の勝豊に4万5千石を分封し、当初は丸岡の東方にある豊原に城を構えたが、翌4年に交通便利な丸岡の地に城を創建し、城下町の整備にも力を注いだ。
勝豊と云うと、天正10年(1582)の清須会議後、勝家の命で近江長浜城主となる人物だ。秀吉に攻城されたときは、病床の身で戦うことなく降伏した。その後、秀吉の好意で療養のため京に移り、賤ヶ岳の戦いの結末を知ることなく若くして没した。
丸岡城主は勝豊以降頻繁に入れ替わり、賤ヶ岳の戦い直後は丹羽長秀が、関ケ原の戦い後は家康の次男・結城秀康の家臣が城代となって入城する。その後、徳川期にも城主の改易や転封が繰りかえされ、明治維新を迎えることになる。
そして昭和23年の福井地震の折には甚大な被害を受け、昭和30年に修復再建され今日に至っている。
この城には2つの伝説が残ったいる。
ひとつは大蛇伝説だ。天正3年(1575)に信長軍は一向一揆を平定したが、築城後もその残党が攻撃を仕掛けて来ることが何度もあった。その度に井戸の中から大蛇が現れ、口から霞(かすみ)を吐いて城を包み、敵の眼をくらましたと云う。この城が別名「霞ヶ城」と云われる所以で、現在でも春先にはすっぽりと霞に覆われるようだ。
もうひとつは人柱伝説だ。築城の際石垣を何度積んでも崩れ、思うように普請が進まなかった。そんなとき人柱を入れるよう進言する者がいた。そしてその人柱に選ばれたのが、二人の子供を抱え貧しい暮らしをしていた未亡人の「お静」だった。お静は一人のの子を侍に取り立ててもらうことを条件に決意し、天守閣の下に埋められた。
その後城は立派に完成したが、城主の勝豊はほどなく近江長浜城に移封してしまい、お静の子は侍にしてもらえなかった。約束を守ってもらえなかったお静の霊は恨んでは悲しんだ。そして毎年藻刈りの4月になると、春雨でお堀の水は溢れるようになった。いつしかこの雨を「お静の涙雨」と呼ばれるようになり、小さなお墓を建てお静の霊を慰めたと云う。
大蛇が現れたという古井戸とお静の慰霊碑
人柱伝説は全国各地の城に残っている。松江城の「お鶴」伝説、長浜城の「おきく」伝説、そして大洲城の「おひじ」伝説など数多くある。いずれも残酷で悲惨な話しだが、城だけでなく橋や堤の普請にも行われたようだ。
しかし最近の研究では、城郭の人柱伝説は全否定されている。工事の無事と完工の祈願として何らかの物を埋めた形跡はあるが、人を生贄として埋めた立証はないそうだ。
ただ、約束を守らなかった若い勝豊の病死は、お静さんの霊の祟りだったような気がしてならない。