なはの雑多ブログ

銭湯、雑多ネタ、野球などについて色々書く予定です。

幻のドラえもん?? その2・聖地編

2022-01-30 22:54:50 | 解説集

以前、幻のドラえもんこと日テレ版ドラえもんについての記事を書いてみましたが、これについての続編記事となります。
実は今現在誰でも知ってるであろうドラえもんのアニメが今のテレ朝で放送される前、日テレで半年間だけドラえもんのアニメが放送されていたのです。

ですが原作者の藤子先生が否定したり制作会社が消滅した上にそこの代表が失踪からの逮捕されたり…そんなゴタゴタぶりの結果、幻の封印作品となってしまったのが日テレ版ドラえもんなのですが、それについての詳細は前編のその1で詳しく書いているのでそちらをご覧くださいその1を読んでからこのその2の記事をご覧になることをお勧めします。

実はこの日テレ版ドラえもんを制作した日本テレビ動画のかつての制作拠点があったビルは半世紀近く経った今でも現存していたりするんです…!
会社の代表が新潟出身だったこともあり、新潟と東京の2拠点でアニメの制作が行われていたのですが、東京での拠点が入っていた中野区の雑居ビルが現存しているのでちょっと見てきました。

なお新潟での拠点が入っていた住所で検索してみると、新潟駅から程近い場所でここにも雑居ビルがありましたが、不動産情報のサイトによるとその雑居ビルは1980年に建てられたそうで、既にテレ朝版のドラえもんの放送が始まっている頃になります。なので残念ながら当時の建物ではありません…
そのため恐らく、この中野区の雑居ビルが日テレ版ドラえもんの唯一の聖地、と言える場所でしょう…

それは古着屋の聖地として名高い中央線文化の象徴の1つ、とも言える街…高円寺駅から環七通り沿いに出て12分程の場所にあります…
なお西武新宿線の野方駅からも15分で行くことも出来ます。また同じ中央線の中野駅からも20分と行けない距離では無いです。

まあ中央線や西武線に近いこの東京西部のエリアは漫画家の拠点やアニメスタジオが数多くありますからね…日本のアニメ産業の中心地とも言えます…なのでこの地に拠点があったのは当然の流れとも言えます。
何せ本作のスタッフの師匠でもある手塚治虫先生は東久留米の在住でしたし、ドラえもんの原作者の藤子先生も一時期入居していたトキワ荘も南長崎でした。
そして現在のテレ朝版ドラえもんを制作しているシンエイ動画は田無にあります、そのドラえもん達が住む練馬区だって西武線沿いですしね…またあのチャー研で有名なナックも武蔵関だったそうですし…
他にも有名どころだとジブリは美術館でも有名な三鷹、エヴァで有名なガイナックスは吉祥寺、化物語で有名なシャフトは上井草にあります。

さて環七通りをずっと歩いていると……見えてきました…

ここが1973年当時、日テレ版ドラえもんの拠点が入っていた7階建ての雑居ビルです…
当時とは所有者が変わったりしたのかビルの名称が2度も変わっているそうで、当時は五十嵐ビルという名前だったそうですが今は野方ビルという名前になっています。
まあ半世紀も経てばそりゃあ色々変わっていきますよね…

当時はこのビルの4階にあったそうで、この地でドラえもんのセル画が描かれたり編集したりといった作業で制作されていたのです…
また1973年当時、7階には高級麻雀店があったそうで、日本テレビ動画のスタッフは仕事終わりの息抜きに行っていたとか…

今は1階にはトランクルームがあり、2台しか止められないビル専用らしき駐車場には日産製ワンボックスのキャラバンとNV200が止められていました。ナンバーからしてここに入居している企業のものの車らしきものでしたが、あまり人の気配は感じなかったですね…照明も全部ついて無かったですし…
見ての通り古いビルですし取り壊されるのも、もしかして近いのでしょうか…

このビルが建てられたのは大阪万博の年、高度経済成長期真っ只中の1970年の5月とのことですので、今でこそ築52年の相当古いビルですが、日テレ版ドラえもんの当時はまたまだ築3年の真新しいビルだったことになります…
やはり塗装には劣化が見られ、配管からは蔦が生えるなど老朽化は隠せません…

またこのビルの周りの道路は中央線沿いらしく古い昔ながらの街なだけあって非常に狭く、建物が密集しているのでビル全体の姿を捉えることが非常に困難です。また目の前の環七通りには立体交差があります。なので向かいから全容を撮るといったことも出来ません。

と言ったこともあり、どうやったらなるべく全容を映せるか色々と考えましたね…

中には勿論入れませんでしたが、時代を感じさせる派手な青と黄色のタイルに丸いボタンの年代物のエレベーターがあるのが見えます…
オイルショック前の60年代末期~70年代初頭はやたらカラフルな物が流行りましたからね…それでこのタイルな訳でしょう…
きっとどちらも1970年の竣工時からのものでしょうし、日テレ版ドラえもんの放送当時もこんなだったはずです…

最終回の放送された日にはもう会社が解散する日だったので、スタジオは空っぽになり、ライトエース(トヨタのワンボックスバン)にカット袋1万袋分のセル画や台本、絵コンテを沢山積み込んでいたとのことですから、きっとオフィスの中から階段なりエレベーターなりでこのエントランスを通って車に積み込んだことでしょう…隣にある駐車場に止めるか、環七通りに路駐していたのでしょうか…

このビルがある角を曲がると煙突が見えてきますが、、、昔ながらの銭湯ってこういう煙突よくありましたよね、、、

やはりそこには銭湯がありました。こちらの上越泉という銭湯についてはこの記事にて紹介しています。
これだけ程近いですし風情ある建物ですから、きっと当時からあるだろうと思って調べたら、何とさらに前で戦後すぐの昭和21年からの営業だそうです。日テレ版ドラえもんの放送が昭和48年なので勿論その当時には既にあったことになります…
やはり制作スタッフの新倉さんや真佐美さんも仕事終わりの疲れを癒しにここに来ていたのかもしれません。

隣にある駐車場からもこのビルが見えます。70年代初頭はまだ高い建物が少なかったでしょうから、きっとかなり目立つ建物だったのではと思います。
そんな建物も今や築52年…いつ取り壊されても全くおかしく無い時期ですが、角の細長い敷地で使いにくさはあるでしょうし、周りを見ているとこの銭湯を含めてもっと古そうな建物は結構ありますから、意外とこの先も残るかもしれません…まあ油断は禁物ですが…

まだこのビルが残っているうちに、日テレ版ドラえもんが解禁されてここに記念碑とかでも作られたら…と思いますが、可能性はかなり低いでしょうね…

というか見ての通り痕跡が何も無い訳ですし…まあ雑居ビルですし当たり前と言えば当たり前ですが…真佐美さんのホームページや封印作品の憂鬱という書籍にここにあったという事実が記載されていた訳でそれらが数少ない資料ですし…

最後に環七通りの歩道橋や周辺から撮った写真を載せていきます。
半世紀近く経った今現在、この地で一番最初のドラえもんが作られてたことは恐らく近隣の住民でも知らない方がほとんどなはずです…
いや当時なんて、ドラえもんはまだ誰でも知ってる国民的な作品になる前ですし、勿論このビルもただの雑居ビルでしか無かった訳ですし知る訳がありません…
きっと物を運び出す最終日も、近隣の人はただの日常の風景として何も感じなかったはずです…

ですが、紆余曲折を経て放送されて6年後に封印されてしまい、今やこの地は伝説級の封印作品を生んた場所となってしまったという事実がある訳です…

今やドラえもんを知らない日本国民なんてきっとほぼいないことでしょう…誰でも登場人物が言えるでしょうし、今の曲はまだしも「こんなこといいな、出来たらいいな」から始まるあの定番の曲は誰でも歌えるはずです。
アニメや漫画に留まらず、様々な広告にも出演していますし日本中どこでも見かける存在です。

ですがそんな国民的作品の歴史の1ページを作った場所がこの地…でもあるんです…
国民的なアニメが最初にアニメ化され、その最初のアニメが作られた記念すべき場所がこのビルなのです。
いつの日か、封印が解かれてもっと最初のドラえもんが知れ渡って欲しい…そしてやはり完全な姿で映像を見れる日が来て欲しい…DVDが出たら絶対買ってみたい…そんな風に思いながら私は横断歩道から眺めていました…


アストロガンガー inWorld

2021-11-07 15:13:56 | 解説集

止まらないオルガBBというのをご存知でしょうか?
少し前に流行った「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」の「止まるんじゃねぇぞ…」でお馴染みのオルガが、やたらマッチョで、ガタイが良くなった姿で超高速で走るやつです。

他にも肩幅のでかい奴が走る動画としてオルガ以外にも様々なキャラで作られています。何故かポプテピピックで偶然似たようなシーンが出てきており、参考にした可能性もありますが、これもあって一緒にネタにされています。

さてこれらのネタ、元ネタがオルガ、鉄血のオルフェンズ、という訳ではありません。
アストロガンガーという昭和のロボットアニメが元ネタとなっていたりします。

アストロガンガーとは1972年に放送されたロボットアニメで、
あの伝説的な出来の悪さで有名になったチャージマン研と同じ、ナックによる制作ということで、ニコニコ動画で同じくネタにされるようになりました。

実は鉄人28号の次(と言っても10年くらい空白有)に放送されたロボットアニメだったりするんです…あのマジンガーZより2ヶ月早く放送されています。
にも関わらず、ガンガーは意思を持った巨大ロボットでもありながら、主人公カンタローと合体することで戦えるようになるロボットでもある、という普通なら片方しか無い設定が両方アリの複雑な設定だったためか、あまりヒットとまでは言えない知名度でした。

ただこの両方アリ設定の自体は20数年後のエヴァンゲリオンともやや類似しており「早すぎたエヴァンゲリオン」とも言われています。

こう書くとライバルのようにも見えますが主題歌はマジンガーZ・アストロガンガーともにアニソン界の帝王、水木一郎さんによるものなんですけどね…

↑主題歌。ばっちり水木一郎アニキの力強い歌声ですねぇ…

このアストロガンガーの最終話のクライマックスのシーンで、ガンガーの攻撃で得物のショーテルを取り落としてしまい、予備武器と思われる直剣を構えた悪役のブラスターデビルと、落としたショーテルを利用しようとしたガンガーが両者同時に駆け出す、というシーンです。
そしてこれを高速再生したのが、この走るガンガーBBで、さらにこれをネタにされた当時流行っていたオルガの「止まるんじゃねぇぞ…」とかけ合わせて出来たのが、止まらないオルガBB、という訳なんです…

↑この動画では元ネタ・オルガ・その他と色々まとめられています。

もうめちゃくちゃ、と思うかもしれませんが、昭和のしかもあまり知られていないアニメが、こうやって発掘されて流行っていたガンダムの最新作のキャラと合体されるものですから恐るべし…

日本では昭和のあまり知られていないアニメ、と書きましたが、実はこのアストロガンガー、お隣の韓国で大ヒットしていたことはあまり知られていません。
また韓国のみならず中東やイタリアになどでも放送されていたそうで、アストロガンガーは割と世界的に愛されたアニメだったりするんです!韓国版の紹介がメインですがそちら2つについても少しだけ紹介します。

韓国では自国制作の「テコンV」(テコンドーをモチーフにしたロボットアニメでこの中では一番ヒットした)や同じく日本から輸入された「マジンガーZ」と同様、70年代当時を代表するロボットアニメの1つとされており、今も当時の世代を中心に絶大な人気を誇っているんです。

韓国では日本から遅れて6年後の1978年よりTBCというテレビ局で日曜17時より放送されていました。
当時は前大統領パク・クネの父、パク・チョンヒによる軍事政権真っ只中(翌年暗殺されてしまいます…)で、まだ日本文化は全く開放されておらず、かつての植民地支配に対抗する政府の方針で日本文化の流入に制限をかけていました。
(20年後の1998年にキム・デジュン大統領によってようやく解禁されました)

にも関わらず、ソフト不足(というか技術不足)を補うべく日本のアニメをタイトルを全く別のに変えることで制限を回避した上で多数輸入しており、アストロガンガーもその1つでした。
というか当時の韓国は家電や車なども似た理由で、ほぼ日本からの技術提供で作られていた時代ですからね…

アストロガンガーはチャンガの宇宙戦争(韓国語:쨩가의 우주전쟁)というタイトルに変えられ、キャラクターの名前も全く別のものとなりました。また流入制限がある中だったため、放送当時は日本製アニメであることを伏せて放送していました。

主題歌も水木一郎が歌っていた日本のものを歌詞を変えて韓国語にした上で使っていました。後述しますが、割と日本でのものを忠実に翻訳しているのが特徴です。
また白黒映像なのは何と1978年当時の韓国ではカラー放送が始まっていなかったからです。カラー放送開始は2年後の1980年のことになります。

東京オリンピックの直前に始まり70年代には既にカラーテレビが普及していた日本と比べてだいぶ遅い気がしますが、当時の軍事政権の政策によるものだったとか…
西側諸国なので意外に思われるかもしれませんが、同じく軍事政権だったギリシャとかもカラー放送開始はかなり遅かったそうですし…

さて、韓国での人気ぶりを象徴するものとして、2018年にはかなり大きめのフィギュアが発売され往年のファンを中心に話題を呼びました。
日本では案の定「これアストロガンガーじゃんww」となりましたけどねw まあその後日本向けにもきちんと販売されています。

そして、日本でCMなどにおいて昔のアニソンが替え歌になったりで使われることも多いですが、韓国でも同じような現象があり、ドラマのテーマソングやCMソングなど様々な分野で今も幅広く使われています!

このように少女時代が一部分のみとは言えカバーして銀行のCMに使われていたり…新韓銀行という銀行らしいですが歌詞は変えられてるみたいです

ヒムセンヨジャトボンスン(力の強い女 ト・ボンスン)というドラマのテーマ曲に替え歌で使われていたり…どうやら何か超人的な主人公の女性が戦うドラマらしいです。歌詞もチャンガの部分をボンスンに変えて、サビのところを「ボンスン ボンスン ヒムセンヨジャトボンスン」に変えたこと以外は下にある韓国語の歌詞とほぼ同じです。なおこの予告編以外でアストロガンガーの主題歌は使われていない模様…残念

当時の世代で無いであろう子供達がお遊戯会で踊っていたり…だいぶ現代的になった感じ

消火器の正しい使い方みたいな安全警報の動画でも BGMに使われていたり…

他にもOP曲自体ではないですが、「어디산가 누군가에 무슨 일이 생기면」(どこかで誰かに何かが生じれば間違いなく現れるホン班長)というドラマがあり、このタイトルもアストロガンガーの主題歌の冒頭の部分をもじったものです。

このようにお隣の韓国では日本とは真逆の非常にメジャーな存在として今も愛されているんですよ…オルガのも凄いですがこれも中々凄い現象です…向こうでは70年代に幼少期を過ごした中高年世代では知らない人がまずいないというレベルだそうですから…

正直上にリンク貼った我々オタクにはどう見ても縁が無さそうな韓ドラの美女が出てる予告映像でありながら、メロディがどう聞いてもアストロガンガーなのですから、日本でオルガとかけてネタにしてる我々オタクからしてもびっくりですし、何より元々の曲を歌った水木一郎さんが向こうでの愛されぶりを見たらどう思うのでしょうか…

続いて中東でのアストロガンガーの紹介です。アラビア語のページのわかりにくさや怪しそうなページの多さなどもあって韓国版と比べると資料が中々見つけられず補足程度の僅かな紹介になってしまうのですが、それでも少し見つけたので紹介します。

アラビア語圏ではスペースインベーダーズ(غزاة من الفضاء)という全く違うタイトルで放送されており、ガンガーについてはジョンカー(جونكر)という名前に改められていました。
ただし主人公のカンタローやヒロインのりえなどの名前は同じだったそうです。アラビア語版の翻訳・制作はレバノンで行われて中東各地で放送されていたそうです。声優もレバノンでは有名な俳優を起用していたとか…

OPの動画がこちらです。こちらでの主題歌も水木一郎が歌っていた日本のものを歌詞を変えて使っていたそうです。
アラビア語は発音が日本語と比べて長めとなっており、文法が日本語と近い韓国語の場合は上手く元の曲のメロディに合わせることが出来るのに対し、アラビア語の場合は尺が合わず中々上手くいかないようですね…

こちらの動画は比較的近年になった合唱で歌ったものなのですが、何とアラビア語版と日本語版の両方を歌っています!日本語もわかる人が歌ったのでしょうか…?それとも頑張ってわからないはずの日本語も歌ってみたのでしょうか…

最後にイタリアでのアストロガンガーの紹介ですが、イタリア語版ではタイトルはそのままアストロガンガ(Astroganga)という名前で本国より8年遅れの1980年に放送されていました。wikiには欧州ではイタリアとスペインでも放送されて人気があったと書かれていますが、残念ながらスペイン語版の動画は見つかりませんでした…
ただし主人公のカンタローはチャーリー、ヒロインのりえはシンディ、という西洋人風の名前に変えられており、吹き替えは現地で映画の吹き替えで経験ある人が主にしていたそうです。

OP動画はこちらになりますが、韓国語版やアラビア語版と異なり残念ながら全く違う曲に変えられています…映像は同じのようですが…パンデモニウムというグループが歌っているそうで、他にもマジンガーZやふしぎなメルモのイタリア語版も歌っていたらしいです。

余談ですがイタリアではアストロガンガーと同じナック制作で、割と後の80年代に制作されたアタッカーYOUというバレーボールのアニメが国民的ヒットを飛ばしてバレーボールのプロリーグが作られるきっかけになる程にヒットしていた、という歴史もあります。現地ではオリジナルの続編が作られたりイタリア語のwikiではキャラごとのページまであります。

最後にOPの歌詞をオリジナル版での日本語韓国語版カタカナ韓国語版韓国語版和訳アラビア語版アラビア語版和訳紹介したいと思います。イタリア語版は曲が全く違うので省略します…イタリアの方ごめんなさい…

韓国語版は比較的元のオリジナル版の歌詞を忠実を翻訳しているのも特徴です。また韓国語版のみサビを繰り返すようにアレンジされています。アラビア語訳は現地のwikiにあったものを翻訳サイトにかけて和訳したのを文法を整えて書いているのでちょっとわかりにくさもありますがご了承ください。

どこかで どこかで なにかがあれば

オディソンガ ヌグエゲ ムスニリセンギミョン
어디선가 누구에게 무슨 일이 생기면
どこかで誰かに何が起きても

حان الموعد حان الموعدحان الموعد حان الموعد حان موعدنا
時間だ時間だ 僕らの時間だ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ガガガガガガ~ンと大きな力


チァチァチァチァチァ チァンガ オムチョンナンキウニ
짜짜짜짜짜짱가 엄청난 기운이
チャチャチャチャチャチャンガ 大きな力

جاء البطل يفرح شاشتنا
僕らの時間を 皆が喜ぶ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

必ず必ずやってくる


トゥルリモシ トゥルリモシ センギョナンダ
틀림없이 틀림없이 생겨난다
必ず必ずやってくる

اهجم اهجم لا تلين
アタックアタック 容赦しない

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

心をはずませ 見上げる空を~


チグヌン チャグン セゲ ウジュルル ヌビョラ
지구는 작은 세계 우주를 누벼라
地球は小さい 宇宙を縫って

نحن معك معك أجمعين
僕は皆と一緒だ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

たくましく 今日も飛ぶ


シクシクハゲ チャルド ナルンダ
씩씩하게 잘도 날은다
たくましく よく飛んで

حطم الأشرار ساند الأحرار
敵を倒し、自由を作る

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ガンガー ガンガー アストロガンガー


チャンガ チャンガ ウリドゥリ チャンガ
짱가 짱가 우리들의 짱가
チャンガ チャンガ 僕らのチャンガ

جونكر جونكر البطل الجبار
ジョンカージョンカー 強い英雄

---------ここから下は韓国語版のみ--------------

ダンダンハゲ チグルル チキョンダ
당당하게 지구를 지킨다  
堂々と 地球を守る

チャンガ チャンガ ウリドゥリ チャンガ
짱가 짱가 우리들의 짱가    
チャンガ チャンガ 僕らのチャンガ


新潟あああああああああああああああ

2021-03-31 02:11:38 | 解説集

久々に動画解説?の4回目、行きたいと思います。なお動画リンク中心となるのでご注意ください。

このタイトルで何の曲かわかった人は結構古参のニコ厨かな…とは思いますw

今回取り上げるのはニコニコ動画の初期に流行した高らかにオナニーの、解説です。
ニューハーフが歌う下ネタだらけの空耳で有名で、サビで「新潟ああああああああああ」と叫ぶ、あの曲についてです。

見ての通りの下ネタだらけの空耳なんですが、実は本家の方も中々の曲なので、ここで解説したいと思います。

この曲は2007年に発表された「(Åh) När ni tar saken i egna händer」(読み:(オー)・ナー・ニ・トー・サーケン・イ・イグナ・ヘンデー)という曲で、歌詞は全てスウェーデン語となっています。

冒頭の「(Åh) NäR Ni Tar Saken I Egna HäNder」の「(Åh) När ni」の部分が「オナニー」に聞こえる上、これを高らかに歌うことから高らかにオナニーと呼ばれるようになりました。
ちなみにこのオナニーの部分は空耳ではありません。スウェーデン語でもオナニー(自慰行為)のことをオナニーと言うので、あえて「オナニー」と聞こえるような別の語句を並べています。いわゆるダブル・ミーニングという物です。

また「新潟あああああああ」と叫ぶことから、全く関係無いにも関わらず、勝手にニコニコ民では「新潟県歌」という扱いになっています。
なお本当の意味での新潟県歌は「新潟県民歌」という曲が別にあるようです。また他の歌詞の部分については後述しようかと思ったのですが、gooブログでは30000文字までしか入力できないので、字数制限にかかってしまったので、画像形式にて紹介したいと思います。

この曲が発表された2007年には、毎年ヨーロッパで一番のアーティストを決める大会である、ユーロビジョン・ソング・コンテストにおいて、スウェーデン代表を決定する予選大会のメロディーフェスティバーレンにおいて5位という結果を残しました。                                                                動画の映像もこの時のもので、スウェーデンの公営放送であるSVT(日本のNHKと同じような形態の放送局で、受信料も同じように取る)で放送されたものです。

歌っているのは、上の写真のAfter darkというアーティストグループのクリステル・リンダル、というメンバーです。

メンバーの2人、左がラッセ・フリンクマン、右がクリステル・リンダルとなる。

このAfter darkは1976年に結成するという大変歴史あるドラッグ・クイーンのグループなのですが、メンバーはこのクリステル・リンダルともう一人、ラッセ・フリンクマンという2人のメンバーのデュオとなっていました。        

今回はこのAfter darkの歴史についても述べます。なお以前取り上げた「世界一ダサいPV」のArmi and Dannyと比べると資料が少なく、あまり取り上げることが出来ないのが残念ですが、可能な限り紹介していきたいと思います。

結成初期のものとされる写真

1976年に、代表的存在であったロジャー・ヨンソンとクリステル・リンダル、ラッセ・フリンクマン、他数人のメンバーによって同名のナイトクラブと同時に結成されたのがAfter darkの始まりです。ウエスト・サイド物語のパロディでドラッグショーの要素を加えるべくアレンジされたワイルドサイドストーリーで初デビューを飾りました。
それをストックホルムの中心街にある人気のある劇場で公演したことで、彼らの才能を首都ストックホルムの大衆にすぐに披露することが出来たのです。舞台は初デビューでありながら大変好評でした。
その後、ナイトクラブの「Shazam」で数か月間独自のショーを開催した後、正式にAfter Darkというドラッグショーグループを結成し、すぐにストックホルムのデビッドバガレスストリートに同じ名前のナイトクラブをオープンしました。

その後もドラッグショーやテレビ出演を多数を行い、スウェーデンのLGBT文化の発展に大きく貢献したと言われています。

さらにはデンマークやノルウェーなどのスカンジナビアの近隣国にも進出し、さらに1983年にはマドリードとサンフランシスコでの公演を果たしました。
しかし、1984年には代表的存在であったロジャー・ヨンソンが亡くなるという悲劇も起こりました…

1980年代のクリステル・リンダルとラッセ・フリンクマンの写真

その後メンバーの入れ替わりが激しかったようですが、1993年にはクリステル・リンダルとラッセ・フリンクマンの2人組デュオに落ち着いたようです。
1996年には結成20周年を記念し、ストックホルム、ヨーテボリ、マルメといったスウェーデン主要都市を巡るツアーを開催しました。

クリステル・リンダル(高らかにオナニーを歌った人)は1953年3月3日にスウェーデン北部の都市であるエシルストゥーナにて生まれました。                

エシルストゥーナのワンルームマンションで幼少期を通して母子家庭で暮らした後、19歳のときに首都ストックホルムに引っ越しました。

またストックホルムのベックマンスクールオブデザインという大学を卒業し、デザイナーとして訓練も受けています。
既に子供の頃より、彼はしばしば歌や娯楽の経験を重ね、10代の頃には既に南東部の都市のセーデルマンランドの民俗公園において、ABBAのメンバーのアンニ=フリッド・リングスタッドと一緒に数回出演した程でした。

若手時代のクリステル・リンダル

ドラッグショーのジャンルへの彼が興味を持ったきっかけは、性別の立場が逆転したことをテーマにした仮面舞踏会によるものでした。その後ロジャー・ヨンソンに誘われたことをきっかけにAfter darkとしてデビューしました。

↑女装の時と男性の時の比較画像

また時には男性として登場することもあり(現にwikiの写真は男性での姿です)、彼は大学時代の経験を活かして服飾デザインでも成功を果たしました。After darkの衣装の多くは彼が自分でデザインしたと言われています。

ラッセ・フリンクマン(ニコニコのコメントでマツコっぽいと言われてる太めの人)は、1949年8月5日にフィンランドの首都ヘルシンキで生まれました。
カール・グスタフ・フリンクマンとアン・マリーの息子で、父親がフリンクマンが3歳のときに亡くなった後、家族と一緒にスウェーデンにやって来ました。

スウェーデン語のwikiやその他サイトを見てもあまり情報が集まらなかったのですが、クリステル・リンダルとはデビュー間もない頃の一時期ではあるものの亀裂が発生したこともあったと言われています。
2009年に肺の問題に苦しんでいたこともあって芸能活動から引退し、晩年は自身のカフェを開いていたそうです。

2016年4月18日に亡くなり、スウェーデン南部のスコーネ県のヘルシンボリという町に埋葬されています。

アーティストデビューした頃の写真

そして、2004年にドラッグショーのみならず、アーティストとしてのデビューを飾る訳です!ここから、あの高らかにオナニーにまでの伝説が始まりました!

そのデビュー曲がこの、La dolce vita(ラ・ドルチェ・ヴィータ)という曲です!

この曲も高らかにオナニーと同様、空耳が存在し、「スペインでゴマキ」「堀江さんメロン食い逃げ~」などと言うのがありますw

そしてこのLa dolce vitaはスウェーデンのオリコンチャートで最高8位を記録し、ユーロビジョン・ソング・コンテストのスウェーデン代表を決定する予選大会である、メロディーフェスティバーレンにおいて3位という結果を残しました。
当時は託児所などでも流されていたそうですが、ドラッグ・クイーンの曲がここまでヒットして託児所で幼児がいる中で流されるとは流石自由度と民度の高い北欧のスウェーデンならでは…ですね…


・他にも代表曲を紹介します。もう一つ、知られているのがKom ut(コム・ウット)という曲です。

日本では「ザマス!」「座間市」などの空耳となっています(勿論本当は座間市とは無関係ですよw)。
他にも「生んでね暴言」「はよ○ねや」「出っさなきゃオッ○ンコ」など物騒な空耳もありますが…w

この曲は世界的に有名なヴィレッジ・ピープルのGo Westという曲のスウェーデン語のカバーとなっており、日本でもポンキッキの番組内で、「LET'S GO!いいことあるさ」というタイトルでカバーされたことで知られています。
なおKom utというのはスウェーデン語で出て来てという意味だそうです。

Vi är alla stjärnorという曲で、どちらも同じ箇所ですが、「あなたの、あなたの、Linux」、「あなたの、あなたの、INAX」という空耳で知られています。他にも「○ン○ンがクエン酸」とか言う相変わらずの下ネタの空耳もありますが…                                                            (INAXはトイレのメーカーだけど、LinuxはITわかる人じゃないと馴染み薄いかも…簡単に言うと自分で中身をいじくれるフリーなOS…のこと)

・最後に最新曲、そして結果的に最終作となってしまったのが、2016年に発表されたKom ut som en stjärna(コム ウット サム エン ファーナ)という曲です。

こちらも、サビのKom ut som en stjärnaが「お味噌バーガー」に聞こえるという空耳があります。

そしてこの2016年に、フリンクマンが亡くなったことも影響してか、残念ながら2018年をもってAfter Darkは活動を終了し、42年の歴史に幕を閉じる形となってしまいました…

:高らかにオナニーの歌詞
上から空耳本家のスウェーデン語本家のカタカナ表記本家の和訳の順になっています。なお先述した通り、字数制限の関係で画像での紹介となります。見づらくなってしまいますが申し訳ございません。

:用語解説
この曲にはスウェーデンを代表する芸能人の名前が多数入っているのも特徴で、それらを中心に解説します。なお歌詞に入った人にはちゃんと許可取ったらしい…()

*1
likadant(リカダント)
この曲で有名な「新潟ああああ」と叫ぶところにあたる原語での歌詞であるが、likadantとはスウェーデン語で「同じ」という意味であり、決して新潟県のことを歌っている訳ではない。
(そもそもスウェーデン人が日本の地方都市を知っているとは思えん…だって逆にスウェーデンの地方都市の名前とか知らんでしょ?)

*2
Matin(マーティン)
日曜大工番組の司会者であるマーティン・ティメルのこと。1980年代よりテレビ出演をしており、日曜大工以外にも長年に渡り様々な番組の司会者を努めているが、2017年に無実のレイプの罪で起訴されてしまったらしい。既婚で2人の子供がいる。

マーティンが出演する日曜大工番組の様子、何と家を自らの手で作っているようだ。

*3
Tina(ティナ)
スウェーデンを代表する料理研究家のティナ・ノルドストリョムのことで、南部のスコーネ地方の訛りで「イェッテギュオット!」(ローマ字ではJättegottと表し、標準スウェーデン語の発音ではイェッテゴットとなる。とってもおいしいという意味)と叫ぶのがトレードマークとなっている。
ティナの料理、イェッテゴットティナといった料理本や、新スカンジナビア料理、ティナの食品といった料理番組を数多く手掛けている。日本で言う平野レミのような存在といったところ。

ティナが出演した料理番組の動画。馴染みの無い北欧料理だが、どうやら肉料理の模様。

*4
Bosse(ボッセ)
自動車番組司会者のボッセ・アンデルソンのこと。自動車整備士としての経験も持ち、それを元にインストラクターとしての自動車番組を始めたらしい。内容に関する情報が少ないものの、日本のジャーナリスト的な自動車番組とは異なる模様。

*5
Amazon(アマゾン)
通販サイトのことでは無く、1960年代のボルボを代表する中型のセダン/ワゴンのボルボ・アマゾンのことである。1956年から1970年までの長きに渡って生産された。この曲の歌詞はボッセ・アンデルソンが愛車のアマゾンをいじっている、といった内容になっている。

↑ボルボ・アマゾンの写真

*6
Ernst(エルンスト)
インテリア番組の司会者である、エルンスト・キルクシュテーガーのこと。日本でもお馴染みのイケアにおいてインテリアデザイナーとして務めていた経験があり、その実績からインテリア番組に抜擢された経歴を持つ。

エルンストが対談番組に出た時の動画だが、どう見てもこれは日本の徹子の部屋に雰囲気がそっくりである……なお若かりし頃と思われる写真もある。


幻のドラえもん??

2020-10-08 16:23:31 | 解説集

今現在、ドラえもんと言えば、テレビ朝日で夜に放送されているアニメを真っ先に思い浮かべると思います。
40年以上も放送されていて、日本人でわからない人はいない程に説明不要で誰でもわかる国民的アニメ、、、ですよね?


しかし、、実はこれに遡ること6年前の1973年に全く別のドラえもんのアニメがあったのです!!

どんなのかと言いますと、

・ドラえもんの声がバカボンのパパから悟空に放送途中で変わる
・ドラえもんがのび太を呼び捨て
・しずかちゃんがジャイアンをそのままジャイアンと呼ぶ
・ガチャ子って聞いたことないキャラが出てくる
・後の大山のぶ代のドラえもんでスネ夫役の人がジャイアンの声
・ドラえもんとのび太のドタバタギャグ
・日テレで放送された
・タケコプターをヘリトンボと呼ぶ
・ひみつ道具を秘密兵器と呼ぶ


もう聞いてるだけで訳わからなくなると思います、、


まあ詳しいことはwikiの項目や当時のスタッフの方のサイト、にあるのでそちらを見るとわかると思いますが、、

1973年、僅か半年だけ日本テレビにてドラえもんのアニメが放送されていました。俗にこれを日テレ版ドラえもんと言います。以下、今のテレビ朝日のドラえもんを全体での総称をテレ朝版・声優交代前を大山のぶ代版・現在放送しているバージョンを水田わさび版と言います。
制作していたのは日本テレビ動画という会社で今現在制作しているシンエイ動画ではありません。

*追記
続編でその2も書いてみました。こちらも合わせてご覧ください。


・前史
この日本テレビ動画という会社がかなり曰く付きの会社で、波乱万丈の歴史を辿っています。
元々、国映という2021年現在でも存在するピンク映画(エロい映画)専門の会社のテレビ・アニメ部門の子会社の日本放送映画として1965年に設立…といういきなりちょっと怪しいスタートとなっていますが…これにはこんな経緯があります。

60年代前半、フジテレビの鉄腕アトムを皮切りにテレ朝の狼少年ケン(ただし当時の社名はテレビ朝日ではなくNETテレビ)など国産アニメブームとなり様々なアニメが放送されました。今現在に続くアニメの国・日本の原点はまさにここと言っても良いでしょう。
しかし日テレは「そんなのより昔から知名度も高く安定したデ○ズニー作品を放送する方がいい」と国産アニメには消極的でした。テレビ放送の黎明期はまだ日本に番組制作能力があまり無かったことからソフト不足であったため、海外のドラマやアニメをそのまま放送することが多かったのですが、他局が国産の作品を放送しても日テレはまだ海外作品の輸入に頼っていたのです。

ですが国産アニメブームは留まることを知らず、日テレは遅れをとります。東京オリンピックの1964年頃になると主要なアニメ制作会社は他局に契約を取られており日テレが入る余地がありませんでした。
そこに手を挙げたのが新興だったこの日本放送映画だったのです。

1965年にこの日本放送映画のアニメ第一作であり日テレ初の本格的な国産アニメでもある戦え!オスパーというアニメがスタートしました。ちなみにこのアニメの映像ははOP以外残っていないと言われています。
しかし中心人物だった新倉雅美が社内で対立したことで東京テレビ動画という別会社を立ち上げアニメ部門は国映から独立します。
引き続き日テレのアニメをほぼ独占して制作していたのですが、1971年に日テレと東京テレビ動画の間で、日テレのプロデューサーが新倉雅美に賄賂を渡していたことが発覚して干されてしまいここでピンチが訪れます。

ここで再起を計り、社運をかけてアニメ映画を制作したのですが…
これが赤字に次ぐ大赤字で東京テレビ動画は倒産しました……

この映画がヤスジのポルノラマ やっちまえ!!というHでヤバい映画でこんなのに社運をかけたらそりゃ倒産するわという程の酷い出来だったようです…この後には性蝕記というこれまたHでヤバい映画を作る予定でエロ路線で行くようだったようです…これは中止になりましたが…

・日本テレビ動画について
しかしそれでも新倉雅美は懲りずに立ち上げたのが今回の日テレ版ドラえもんを制作した日本テレビ動画でした。日本テレビ動画という名称ではあるものの日テレを干されたためか資本関係は無く日本テレビ+動画ではなく日本+テレビ動画という意味の社名だったようです。

そのためか日テレではなくTBSと契約を結び、1972年に「アニメドキュメント ミュンヘンへの道」「モンシェリCoCo」というアニメを制作しました。
ミュンヘンへの道は当時のミュンヘンオリンピックでのバレーボール日本代表を描いたもので実写とアニメを合わせたものだったようです。モンシェリCoCoは少女漫画が原作のアニメで、フランス人の父と日本人の母の間に生まれたハーフの子が恋を描くものだったと言われています。

そしてTBSでの実績が認められたのか、日テレに復帰を果たして制作したのがこの日テレ版ドラえもんだったのです。

なお、この日本テレビ動画・日テレ版ドラえもんを語る上で欠かせない人物がいます、真佐美ジュンさんという方で元々は旧虫プロダクション・手塚プロダクションというプロダクションで手塚治虫先生の部下を勤めていた方でしたが、社内での著作権とロイヤルティーをめぐるトラブルがきっかけで日本テレビ動画に移籍し、この日テレ版ドラえもんを最後にアニメ業界から引退したとのことです。
現在は手塚治虫先生や日テレ版ドラえもんにまつわる講演活動などを行っています。またリンクは載せられませんがホームページを立ち上げて当時の資料を公開しています。

・アニメ化の経緯
今でこそドラえもんは国民的に有名ですが、当時は小学館の学年誌に連載されて3年程度という漫画でしかなく知名度も低いものでした。当時の新聞などにはスーパーロボットなどと書かれて紹介されているものもあり、知名度の低さがうかがえます。
(余談ですが、日テレ版放映後の1974年からてんとう虫コミックスの単行本が刊行されるとこれが予想以上の大ヒットとなり、連載媒体の学年誌以外にも読者層が広がりました。1977年にはコロコロコミックが創刊されて、ドラえもんが多数収録されるようになりこの知名度上昇の流れによってテレ朝での再アニメ化に繋がった訳です。)
しかし同じ藤子先生によるオバケのQ太郎がヒットしたことで、藤子作品のアニメ化する機運が高まっていたからアニメ化されたとも言われており、1972年初頭にはアニメ化の企画があったそうです。
当時の小学館の編集長だった井川浩は、日本テレビ動画が制作するテレビアニメの原作を推薦するよう日テレのプロデューサーから頼まれて「ドラえもん」と「かあさん星」(谷ゆき子作)を推薦したそうです。

また「少年次郎長三国志」という、硬派任侠物の作品のアニメ化をしようかと新倉雅美は考えていたそうですが、諸事情あって失敗し、代わりに浮上したのがコレだったという話もあります。
さらに元々は別の番組で決まっていたのを急遽変更してねじ込んだという噂もあったそうで、放送開始3か月前に急遽決定したため、その1973年の1月には既にパイロットフィルムが完成しています。このため告知もこの時期に行われました。放送開始前に都内の幼稚園でドラえもんの予告フィルムの上映会を開催したりもしていたそうです。


・フジテレビ版ドラえもん???
実はドラえもんのアニメ化の企画は同じ時期に全く無関係ながらもう一つありました。原作を同じとしながら全く別のアニメ計画があったのです。企画のみで終わりましたが当時の企画書は現存しています。
快傑ライオン丸(大洋の助っ人、シピンのあだ名の由来)で有名なピー・プロダクションによるもので、当時のフジテレビでの新番組の放送枠獲得を狙ったものだったそうです。
ドラえもん役を演じる予定だったのは何と、後のテレ朝版のドラえもんでお馴染みの大山のぶ代さんだったのです!

ただし、内容がだいぶ改変されていて、
「或る日、のび太くん(小学生二年生位)の机の抽出しから、突然可笑しなドラねこが出現した。これこそ未来の国(宇宙)からやって来た宇宙ロボットである。やがて、のび太くん一家の家族の一員となって人間社会の生活の中で、日常まき起す面白い事件がこの物語の構成。
そして、ここに登場する「ドラえもん」こそ、キャラクター・ネーミング共に抜群の主人公である。」
とのことらしく、まずドラえもんが宇宙ロボットという時点で全然違っているのが分かります…あとそもそも主人公ではない…

また実写でやるとも言われていたようで、ぬいぐるみの原形まで作られていたそうです。実写のドラえもんと言えば近年でもトヨタのCMとかでありましたが昭和という時代を考えると全く違うものだったでしょう…

もしこのアニメ化企画が実現していたら…と考えるのも面白いですね。日本テレビ動画とは異なり一応今でも現存している会社なので封印されることなく続いていたかもしれません、そうなるとお台場のフジテレビには今の六本木のテレ朝のようにドラえもんが沢山いたかもですね(この当時は新宿の外れにありましたが)。
ただこれだけ改変されたことを考えると日テレ版のように原作者が否定して封印された可能性も無くはないですが…

・東京ムービー版ドラえもん?
3つ目のアニメ化企画…と言えなくもないですが、これは企画すら立ち上がっておらず、あくまで当時の関係者による推測でしかない話なのですが、日本テレビ動画がドラえもんの企画を立ち上げなかった場合は、それまで怪物くんやオバQなど数多くの藤子先生の作品を手掛けていた東京ムービー(現:トムスエンタテインメント)が「新・オバケのQ太郎」の後番組として製作する可能性があったそうです。

と言いますのも、この日テレ版ドラえもんより前の藤子先生の作品のアニメは全てこの東京ムービー制作だったためです。そうなるとたまたまドラえもんは不運の作品だった…と言えなくもないですが…

もしこのアニメ化企画が実現していたら…現在まで断続的にアニメが続く作品にはなっていた可能性は低いものの、やはり藤子先生の作品を多数手掛けてきた実績のある会社なので封印作品になることはあり得なかったでしょう。事実、この日テレ版ドラえもんでのトラブルからアニメ化の権利は東京ムービーに託されていたそうですが、テレ朝版を制作しているシンエイ動画は元々この東京ムービーの下請けだったからこそ再アニメ化することが出来たのです。


・放送内容
放送していたのは日曜の19:00から30分、現在は鉄腕ダッシュが放送されている時間帯にあたります。
当時裏番組(フジテレビ)にマジンガーZがあったために苦戦するも、声優交代やマジンガーZより高い年齢層を狙うなどしてテコ入れしたこともあり安定した視聴率を誇っていました。
日テレとしても元々この時間は視聴率で長年苦戦していた時間帯、いわゆる死に枠だったので最初から4〜5%取れればいいという話で始まっており多めに見ていたようです。そのため元々2クールの予定だったのが、日テレ側によってさらなる延長を打診された程で、実際に日テレの保養所に日本テレビ動画のスタッフが招かれたそうです。

当初ドラえもんの声は先日亡くなられたバカボンのパパ役で有名な富田耕生さんで、その後に演じた声優さんが女性であることを考えるとかなり意外ですが、当初ドラえもんに対して世話好きのオッサンというイメージで考えていたからだそうです。
東京の下町が舞台の渋い下町人情路線だったそうで、それに似合った非常におっとりとした哀愁漂う親父臭い性格に設定されていました。

その後テコ入れの際にドラゴンボールの悟空役で有名なあの野沢雅子さんに交代します。悟空や鉄郎に代表されるように陽気な少年役が多い声優さんですが、ドラえもんも例外ではなく活発的で短期な性格になっていたそうです。そして渋い下町人情路線から原作の初期に近いドタバタギャグ路線に変更されていきました。

またひみつ道具と呼ばずに秘密兵器と呼んだり(戦闘アニメみたい…)、タケコプターをヘリトンボと呼んだり(一応原作の初期もそうだった)、どこでもドアをミラクル扉と呼んだり、だいぶ設定が違うことがわかります。野沢雅子さんが演じていた時代にはドタバタギャグ路線だったために、この秘密兵器を出すもののドタバタ劇で失敗に終わるといった話も多かったようです。

全26話存在しましたが、当時は原作がまだ連載されて数年でストックが少なかったため、このテコ入れした辺りからはオリジナルの話が増えていきましたが、これは藤子先生の公認だったそうです。
そのため、キャラクター紹介で後述するガチャ子を始め、後のアニメに登場しないキャラも比較的多数登場しています。

スポンサーはいすゞ自動車・宮田自転車・ペプシコーラ・津村順天堂(現:ツムラ)・東鳩・任天堂などだったそうです。(だいぶ余談ですがこの頃のいすゞは何の車種のCM流していたんでしょうね…ジェミニが出る1年前ですし…)

また放送当時はタカトクトイズ(後に1985年をもって倒産)よりタイアップした玩具も発売され、指人形やソフト人形・乳母車まであったそうです。
さらに当時池袋西武の屋上で開催された日テレの子供向けショーに特撮のサンダーマスク(こちらも権利関係で揉めた封印作品)と共にドラえもんの着ぐるみが出演していたそうです。

・テーマ曲
OPはそのまま「ドラえもん」というタイトルで、藤子先生自ら作った曲です。そのためか意味不明な歌詞がちょくちょく入っているのが特徴です。カラオケに「ドラえもん(旧)」というタイトルの曲が入っていたらこの曲になります。中の人もJOYSOUNDのカラオケでこのOPを歌ったことがあります(DAMに入っているかは不明)。
「ぼくのドラえもんがまちを歩けば、みんなみんなが振り返るよ」という歌詞から始まる演歌風の女性の声が特徴です。

EDは「ドラえもんルンバ」という曲なのですが、歌詞がハッキリ言って無茶苦茶なんです…
「さっささっさと飛び出せ飛び出せ飛び出せドラえもん」から始まり、「光線銃がものいう」「コンピューターが友達」といったドラえもんといかにも関係無さそうなのばかり並んでいます…
恐らく作詞した横山陽一さんという方は、失礼ながらドラえもんがどういったアニメなのか理解していなかったのではないでしょうか…

歌っていたのはOPED共に内藤はるみさんという方で、この日テレドラえもんのOPEDを歌った当時は何と高校生でした。しかも芸能人御用達で有名なあの堀越高校にいたそうです。高校卒業をきっかけに大人向けの歌手を目指し「朝月 愛」と改名して演歌歌手として70年代に活躍されていたそうです。
何と2020年2月にNHKの鶴瓶の家族に乾杯に出演し、岐阜県内のカフェにてOPを歌っていました!!まさかの日テレドラえもんが地上波に帰ってきたのです!!
以前にも野沢雅子さんがドラえもんの声を出すといったこともありましたが、こうして徐々に戻ってくれると嬉しいですね。

他にも挿入歌として「あいしゅうのドラえもん」、「ドラえもん いん できしいらんど」という曲も存在します。
あいしゅうのドラえもんは初期にドラえもんの声を演じていた富田耕生さんによるもので、タイトル通り哀愁を感じさせるおっとりした声が特徴で、昭和アニメらしい暗い曲調…ってところです。
作曲についてはOPED・挿入歌含め、全てが日本を代表する作曲家であり童謡の「おもちゃのチャチャチャ」などで有名な越部信義さんが担当しています。

・放送終了へ…
しかし、プロデューサー且つ会社の代表でもあった新倉雅美が放送途中で謎の失踪をします。すると過去に制作した「ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!」などで作った赤字がデカったものの、このドラえもんが安定した視聴率でそれなりにヒットしたことから赤字の清算が可能となり、急遽決まった新経営陣に会社を続けていく気は無く「もう止めよう」の一言で会社を畳むことを決定しました。

結果、放送延長はされることなく半年間で終了してしまいました。当時はアニメは人気あればどんどん続いていく時代だったので残念な結果に終わってしまいました。
残されたスタッフは日本テレビ動画の清算に追われ、グロス請け(アニメ業界における下請け)先に支払金を当てるために売れるものはとことん売り、社屋を引き払うために本作の資料やセル画の一切合切を廃棄処分してしまいました。


今だったら昔のアニメの資料やセル画があったらお宝モノですが、当時はまだそのような収集する趣味の文化もあまり無かったですし、保存するにもお金と手間がかかった時代ですから仕方ないですね…

そして最終回の放送された日にはもうスタジオは空っぽになり、ライトエース(トヨタのワンボックスバン)にカット袋1万袋分のセル画や台本、絵コンテを沢山積み込んで浦和まで走り、そこの河川敷で焼いてセル画などを廃棄処分したというエピソードがあります。
今だったら河川敷でいきなり燃やしたら問題になりそうですが当時は問題視されなかったのでしょう…
「わが子を荼毘に付す気持ちでした」との想いだったそうでこのエピソードについては真佐美ジュンさんのサイトにあります。

なお新倉雅美さんは後にフィリピンに移住したものの事業が上手くいかず、結局は拳銃密輸に手を出してしまい1986年5月2日に逮捕され、その後の消息は不明となっています。ネット上には出所後小笠原の海に消えた…という記述のあるサイトもありましたが真相はわかりません…
また新潟県出身で田中角栄をはじめとする県内の有力者とも繋がりがあったそうで、実際に失踪した後に一応の取締役になったのは新潟総合テレビ(フジテレビ系列)役員の稲庭左武郎という方だったそうです。
このことから、日本テレビ動画は東京と新潟の2拠点体制でアニメ制作を行っていました。なお当時の東京での拠点が入っていた中野区の雑居ビルは2021年現在も現存しています。

:追記
この東京での拠点が入っていた中野区の雑居ビルを見てきましたので、その2の方に掲載してあります。

chakuwikiにもありますが、もしこの日テレ版が続いていたら…と考えるのも面白いですね。今のような長寿作品になっていたら汐留の日テレにはドラえもんが沢山いたりZIPにもドラえもんがよく出ていたかもしれません。同じ日テレの長寿アニメであるアンパンマンと並んだ局の看板番組になっていたでしょうし、コラボもあったかもしれません。

・ドラえもんのアニメの空白期間
本放送が終了した後、制作会社こそ解散したものの放送用のフィルムは日テレ自身が7年間保管し、70年代のうちは日テレにおいて朝の時間帯の再放送が行われていたり、地方局でも再放送されていました。1979年に今のテレ朝版のアニメが始まるまでの間、9回も再放送されたと言われています。またこの間、ドラえもんのみならず藤子先生の作品のアニメ化自体にも空白期間が生まれることになってしまいました。

1980年に保管期間が終了した後は消息不明と見られており、藤子先生が仕方なく引き取った後にスタッフが焼却処分したという噂もあったそうで、フィルムは焼却されてもう見れないと言われたこともありました。

また前述のてんとう虫コミックスの単行本のヒットを受けて1976年にはアーモンドグリコのCMにドラえもんが使われましたが、この際に声を演じたのは本作で演じた野沢雅子さんでした。このCMはYoutube上にアップロードされているので現在も見ることが出来ます。数少ない日テレドラえもん関連の動画資料です。 

当時は単行本がヒットしたものの、まだテレ朝版のアニメが無かった時代であり、勿論日テレ版も封印はされておらず「漫画だけじゃなくてアニメもあったんだ」程度の認識だったと言われています。

また、アニメの放送が終了したことでドラえもんはもう作品として終わったもの、と当時の小学舘の担当者は考えていたそうで、藤子先生に対して新しい作品を出すよう依頼しました。

藤子先生はドラえもんに思い入れがあったものの、その声に応える形で翌1974年より「みきおとミキオ」という新作を並行して出しました。

しかしちょうどこの年にてんとう虫コミックスの単行本が予想外のヒットを飛ばしたことでわずか1年で「みきおとミキオ」の連載は打ち切られ、再びドラえもんが主役の座に帰ってきたのです。

・まる子も日テレ版ドラえもんを見ていた?

今現在、ドラえもんと同じぐらいに国民的アニメとなっているのが、ちびまる子ちゃんですが、
主人公のまる子は、何と日テレ版ドラえもんを見ていた可能性があります!

というのも、以前原作を読んだことがあるのですが、この際にテレビを見ていて、私にもドラえもんいたら良いのに…とまる子が嘆くシーンがありました。
確かいつものようにお母さんやお姉さんに怒られてすぐ現実に戻される…というオチだったと思います。

しかし、ちびまる子ちゃんの時代設定は1974年頃と言われています!
1974年と言えば、日テレ版ドラえもんの放送終了の翌年で、ちょうどてんとう虫コミックスの単行本が出た時期にあたります。

すると、まる子がドラえもんのアニメを見たとなると、この時期は日テレ版ドラえもんの再放送以外にあり得ないのです。
あるいは1年前の本放送だった可能性もあり得ます。昔のことですから、記憶が混ざっていた可能性も無くはないです。

まあ作者のさくらももこ先生の、幼少期の経験を元にした作品とは言え、いくら何でも流石にこんな細かいところまでは設定していないでしょうから、あくまで可能性、の話ではありますが…

・封印…そしてテレ朝版へ
そして、1977年頃にシンエイ動画による今のテレ朝版ドラえもんの企画が立ち上がりますが、やはり日テレ版が短命に終わったこともあってかなり難航したそうです。藤子先生も「私の作品はどこが受け入れられなかったのでしょうか?」とテレ朝側の担当者に聞いたそうです。

この担当者に対して藤子先生は日テレ版全26話分の台本と漫画の単行本を入れた風呂敷包みを贈ったそうで、それを自宅に持ち帰った担当者は、小学校低学年と幼稚園児だった娘たちが単行本を楽しそうに読む姿を見てドラえもんは低年齢層向けの作品だと確信するものの、日テレ版の台本を読むと対象年齢のターゲットが少し高いように感じたそうです。初期に下町人情路線だったことやマジンガーZとの競合を避けるべく路線変更したことが影響したのでしょうか…なお台本のうち一部のものはWEB上で実際に見ることが出来ます。

またテレ朝の上層部もこのような事情から「日テレ版で失敗したものがウチで成功するはずがない」と当初は消極的であったため、よみうりテレビなどの他局に売り込む話もあったそうです(もしよみうりテレビ制作だった場合、関東では同じ系列の日テレで放送したでしょうから、結局ドラえもんのアニメが全て日テレで放送したことになっていましたね)。

パイロットフィルムの「勉強部屋のつりぼり」は1978年秋に完成しています。なおパイロットフィルムの声優と実際の本放送の声優は異なる例が多いですが、このフィルムは全く同一となっており、大山のぶ代さんもドラえもんとして出演しています。

そして紆余曲折を経て1979年4月、ついにテレ朝でドラえもんの放送が始まります。しかしその直後の7月から8月にかけて富山テレビ(フジテレビ系列)で日テレ版ドラえもんが再放送されています。
ただしこれは9回目の放送で打ち切りとなってしまいました。現時点ではこれが最後の再放送となっておりこれ以降、封印状態が続いています。この封印劇を「富山事件」と言われています。
これについては小学館関係者による藤子先生が「原作のイメージと違うので放送してほしくない」と述べたから警告状を送って封印した説と、テレ朝関係者による「せっかく新しいドラえもんが放送されたのに旧作が放送されると子供たちが混乱する」として小学館に封印させてもらったという説があり、どちらが正しいのかは分かっていません。

なおこのエピソードから派生して、富山県においては新しく始まったテレ朝版のドラえもんがやっている一方で、裏番組では日テレ版のドラえもんが放送されていた…という都市伝説が流れていたこともありました。
しかしこの富山事件が起こった1979年当時、まだテレ朝版のドラえもんは富山県で放送されておらず、翌1980年の4月5日からようやく北日本放送においてテレ朝版のドラえもんの放送が開始されたので、この都市伝説は間違いということになります。


また1979年当時の小学生において、小学校低学年の子供がテレ朝版を見て「ドラえもんって新しいアニメが始まったんだ!」と盛り上がっていた一方で、兄や姉がいる家庭において日テレ版を以前見た人がその話を聞き「あれ?ドラえもんってもう終わったアニメじゃなかったの?」と疑問に思う…といった事例もあったようです。

原作者の藤子先生は「あれは失敗だった」「この件についてはいっさい語りたくない」など他にも本作に対する否定的なコメントを残していますが、一方で個々の制作スタッフの前では「またやろうよ」と言ったり優しく接していたようです。なおこれらの発言は書籍の取材などで明らかになった関係者からの証言によるもので公式上での発言は一切ありません。
真相は亡くなられたので闇に葬られましたが、恐らく個人的に否定的でありながらもスタッフの前では仕方なく優しく接していたのではないかと思われます。

・現在
封印後、代表者・権利者の新倉雅美さんが失踪し、会社が解散したこともあって著作権管理が宙に浮き、偽物のセル画や事実無根のデマや誤った情報が出回るといったことが慣例化し、真佐美ジュンさんがホームページを立ち上げて正しい情報を伝えるまでは誤った情報が当たり前とされてきていました。
その後、真佐美ジュンさんの情報公開や藤子先生の作品愛好家の団体などの取材によって徐々に情報が明るみに出るようになってきました。

また1995年にフィルム現像を担当したIMAGICA(1973年当時は東洋現像所)にシリーズ後半の16話分のネガフィルムが奇跡的に残っていたことが判明しています。ただしやはり著作権が宙に浮いていることから使われた事例はありません。
放送した日テレにおいても2000年代に特命リサーチ200XやCSの日テレプラスで放送しようと権利者(新倉雅美さん)の行方を探したそうですが、やはり見つけることは出来なかったようです。

藤子プロや小学館では1979年の大山のぶ代さんのテレ朝版ドラえもんが最初であるかのようにされ、現在では作者ゆかりの地である向ヶ丘遊園に藤子・F・不二雄ミュージアムがありドラえもんに関する展示も沢山あって連日多くの観光客で賑わっていますが、そこにもこの日テレ版ドラえもんに関する展示や紹介は一切ありません。
2005年にドラえもんの声優陣が一斉交代し、ドラえもんの声が大山のぶ代さんから現在の水田わさびさんに変わった時も、大山のぶ代さんが初代のドラえもんとして紹介されていました。

というか、封印されている以上、世間一般的には大山のぶ代さんが初代ドラえもんだと思われていますよね…事実自分も中学生になってネット上でこの日テレ版の存在を知るまではそう思っていました…

封印を解除するのは完全には不可能だとしても、恐らく新倉雅美さんの消息さえ分かればだいぶ進めていけるのではないかと思いますけどね…まあそれを日テレが出来なかった訳ですが…
あとは制作会社のルーツとなった国映は今でもある訳ですし、そこをなんとか上手く使うのも良いかもしれません。

あるいは日テレのどこかに保管していたフィルムがちゃんと残っているかどうかというのもありそうです…
事実、更に古い1958年のアニメで、日テレが最初に放送したアニメでもある「もぐらのアバンチュール」というのが長らく現存していないと言われていながら2012年に発掘されたという事例もありますし…

また最後に富山テレビで再放送された1979年には既にVHS・ベータ共に発売されていますので、奇跡的に富山県在住の方が録画したビデオテープが発掘…という可能性も無くはないですが、当時は家庭用ビデオデッキが出たばかりでまだまだ高価でしたので流石に難しい部分があります…

そして全ての鍵を握るのはやはり真佐美ジュンさんということになるのでしょう…

1979年の富山事件で封印されて以降の公式での露出例

・1988年 TVアニメ25年史
大貫信夫さんが関わっているなど間違った情報で伝えられていた。
・1991年 テレビ40年inTVガイド
日テレ版とテレ朝版を一挙に紹介した。
・1992年 日本テレビ EXテレビ
藤子先生の特集を行った際に、内藤はるみさんの歌うOPが流れた。また止め絵が1枚だけ映された模様。
・1994年 声優事典
日テレ版とテレ朝版を混同して紹介しており誤りが多い。
・1996年 テレビ史ハンドブック
上記と同様の内容。
・2000年 ムック「ドラえ本3」
珍しく公式の藤子プロと小学館が監修しており、写真も掲載されているが「原作のイメージと違っていて半年で終了した幻の番組」と否定的な紹介をされている。
・2003年 日本テレビ 公式ホームページの社史
1973年の項目に「『ドラえもん』がスタート」と書かれていた。リニューアルに伴い現存しない。
・2003年 CD 昭和キッズTVシングルスVOL.8
OPが収録された。
・2004年頃 フジテレビ トリビアの泉
「大山のぶ代は、ドラえもん役として…二代目である」「初代は野沢雅子である」と紹介され、真の初代である富田耕生さんについては触れず間違った情報を流してしまった。
・2004年 安藤健二 封印作品の謎
サンダーマスク、キャンディキャンディなど他の封印作品と一緒に取り上げられている。この書籍の取材で分かった事実も数多い。
・2008年 安藤健二 封印作品の憂鬱
上記の続編的な書籍。
・2009年 産経ニュース
幻のドラえもんがあったと紹介された。
・2009年 ニッポン放送 高嶋ひでたけの特ダネラジオ夕焼けホットライン
真佐美ジュンさんの持つ映像から音声が流された。
・2009年 藤子・F・不二雄大全集
ガチャ子の出るエピソードなど封印された単行本未収録となったエピソードが収録された。
・2013年2月6日 日本テレビ 1億人の大質問!?笑ってコラえて!
野沢雅子さんが「ぼくドラえもん。」「今日もごきげんよう」と演じた。モノクロだった(実際にはカラー)と証言した。
・2015年7月9日 NHK総合 あさイチ
野沢雅子さんが「出すの早すぎたんでしょうね、そんなに長く続かなかった」と証言した。
・2020年 ドラえもん50周年特設サイト
公式のものとしては珍しく、年表の1973年の項目に「ドラえもん」TVアニメ放送開始(日本テレビ)、1979年の項目に「ドラえもん」再びTVアニメ化(テレビ朝日)と2つのシリーズがきちんと紹介されている。
・2020年2月10日 NHK総合 鶴瓶の家族に乾杯
OPEDを歌った内藤はるみさんが出演し、OPの曲を生披露した。

⋆キャラクター紹介・声の一員
敬称略で紹介します。途中で声優交代しているのが特徴で、ドラえもんが富田耕生から野沢雅子、スネ夫のパパがはせさん治から加藤修、先生が加藤修から雨森雅司、ポタ子が野沢雅子から不明の人物に交代している。


:ドラえもん
前述した通り、のび太のことを呼び捨てで呼んでおり、これは最初から最後まで変わらずだった。
また姿は原作初期のものに合わせた太めの体型であり、目が小さめだった。その後のドラえもんのアニメとはだいぶ異なる。また原作初期同様に21世紀の未来からやってきたという設定だった。
・富田耕生(第1話~第26話)
当時ですら大ベテランだった大御所。平成天才バカボンのパパ役で有名。また最近では亡くなった永井一郎に代わって名探偵コナンの鈴木次郎吉役を担当していたが、今年10月1日に脳卒中のため死去。
その後に演じた声優さんが女性であることを考えるとかなり意外だが、当初ドラえもんに対して世話好きのオッサンというイメージで考えていたかららしい。
非常におっとりとした哀愁漂う親父臭い性格に設定されていたようで、実際に「あいしゅうのドラえもん」というタイアップ曲を歌っており、これは動画サイトで聴けるがタイトル通り哀愁漂う悲しげな雰囲気の曲となっている。
また「あらよっと」という掛け声でひみつ道具を出していた。勿論声はだいぶ低いオッサン声であり、映像で見れないため確認出来ないものの、これがドラえもんの声であると想像することは難しい。

・野沢雅子(第27話~最終話)
言わずと知れた声優界のレジェンド。ドラゴンボールの悟空を始め数多くの役を担当。悟空や鉄郎に代表されるように陽気な少年役が多い声優さんだが、ドラえもんも例外ではなく活発的で短期な性格になっていたらしい。
なお2013年に放送された笑ってコラえて!の回でしょこたんの前でこの日テレ版ドラえもんの声を出した。恐らく地上波で披露するのは本放送以来40年ぶりと思われる。
ただし実際にはカラーだったにも関わらず「モノクロだったんです」と証言していた。

他に星の子ポロンという、これまた幻のアニメで主人公ポロンの声を演じているのでこちらもいずれ取り上げたい。なおこのポロンでの声と日テレ版ドラえもんでの声は時期が近いこともあってかほぼ同じである。ただしまだ若かったせいかその後の悟空の声に比べてやや明るく高い印象である。ただし富田耕生さんの時と違ってドラえもんの声らしさはあってわかりやすい。

:のび太
今では黄色の服を着ているイメージだが、これでは赤色の服を着ていた。また原作や後のテレ朝版でのすぐドラえもんに頼るキャラとは異なり、ある程度は自主性のあるのび太少年というキャラで、これは子供たちの教育のためにとの思いで変更したとのことである(ただし藤子先生はこれに対して否定的だった)。
・太田淑子
後の大山のぶ代版でセワシ役を演じた人物。他にひみつのアッコちゃんのアッコ役でも有名。声に感してはその後の声と比べてかなり声が高く明るい印象。

:しずか
その後のテレ朝版と比べてもやや顔立ちがシンプルで明るく可愛らしい印象だった。そしてジャイアンのことを今のテレ朝版では「たけしさん」と呼ぶのに対し、この日テレ版では男性陣と同じように「ジャイアン」と呼んでいた。
後述するが源家にはボタ子という訛りが特徴的なお手伝いさんとガチャ子というメスのアヒルのロボットも住んでいた。
・恵比寿まさ子
サザエさんで2代目のタイコ役も演じた人物のようで脇役の女性役を演じることが多かった。2001年頃を最後に活動していない。

:ジャイアン
今ではオレンジ色の服を着ているイメージだが、これでは赤色の服を着ていた。父子家庭で育った設定で母親は故人、ジャイ子はそもそも存在しないという設定。
なおジャイアンの母は遺影で登場しているが、この姿は今のテレ朝版とは全く違う温厚そうな風貌であった。
・肝付兼太
前述した通り決してスネ夫ではなくジャイアンである。
後の大山のぶ代版のスネ夫でお馴染みの、あの特徴的なハスキーボイスは全くそのままなので動画サイトに音声のみ上がっている動画で聴いていると、どっちがジャイアンなのかスネ夫なのか混乱する。2016年に肺炎のため死去。80歳没。

:スネ夫
今のテレ朝版と比べて顔つきがやや鋭い印象だった。またジャイアンよりも上の立場に立つこともあったという。声もスネ夫らしいハスキーボイスで違和感もない。
・八代駿
プーさん役を演じていたことで有名だった。その後プーさんの声優はさらに交代している。2003年に脳梗塞のため死去。70歳没。
その後のスネ夫の声と比べてやや暗い印象もあるがそれほど違和感は感じない。

:ガチャ子
黒歴史キャラで立ち位置は今のドラミにも似ている(ドラえもんの妹として出たこともある)。原作では初期に数作連載されていたものの単行本では封印された(後に藤子・F・不二雄大全集で復活した)。
その理由について藤子・F・不二雄は「ライバルキャラがいたほうがいいという軽い思い付きで登場させたが、ちっともよくなかった。焦点が分裂して全く違った性格の漫画になってしまうため、ガチャコはいなかったことになった」と述べている。
この日テレ版ドラえもんではオリジナルの設定となっていてしずかちゃんの家に居候していた。またドラえもんが未来に帰った後もしばらく残るとしていた。
・堀絢子
昭和ムーミン(こちらも本作同様、原作者が否定的だったために封印作扱い)のミイ役で知られる。

:のび太のママ
怒ることはあるものの、後の大山のぶ代版のようにのび太のものを取り上げたり、おつかいを頼むのを強引に行うといったことはしなかったようで、やや優しい設定だった。
・小原乃梨子
後の大山のぶ代版でのび太役を演じた人物。これに対し本人は「世の中の常識や年齢に逆らって生きるのが私の運命のようだ」と述べている。しかしこの日テレ版ドラえもんでの声は若干低めで怖い印象を受ける。

:のび太のパパ
・村越伊知郎
長年に渡りサザエさんのノリスケ役で有名だった。2007年5月23日に死去。76歳没。

:のび太のおばあちゃん 
風貌については後のテレ朝版とほとんど変わらない。
・不明

:スネ夫のママ 
空手の達人で空手三段を所持している設定だった。
・高橋和枝
長年に渡りサザエさんのカツオ役で有名だった。余談だがカツオ役の初代は大山のぶ代で開始からわずか3か月でこの人に交代している。1999年に死去。70歳没。

:スネ夫のパパ
・はせさん治
脇役を演じることが多かったがポンキッキに顔出しして出演していたりもしていた。2002年に肺癌のため死去。66歳没。
・加藤修
後の大山のぶ代版でもスネ夫のパパ役を演じており、日テレ版とテレ朝版で唯一同じ役を続けて演じていた。後述するが先生役を演じていたこともある上、さらに現在の水田わさび版でもなんでもソムリエというひみつ道具の役で出演していた。3シリーズ存在するドラえもんの全てに出演していた唯一の声優さんだった。2017年に死去。81歳没。

:ジャイアンのパパ(剛田小助)
現在のテレ朝版では出てくることの少ないジャイアンのパパだが、この日テレ版では数多く出演しており正直屋という雑貨屋を営み、体格が小柄で人柄が良く息子思いの性格だったという。 出番が少ないもののジャイアン以上に大きく強そうなテレ朝版のジャイアンのパパとは全く異なる風貌であり、大人しそうで眼鏡をかけた風貌でスネ夫程の身長だった。また剛田小助という名前についても日テレ版のみの名前でオリジナル設定である。
また剛田家では前述した通り「たけし!」と怒ることでお馴染みのジャイアンの母は故人という設定であり、またジャイ子と飼い犬のムクも存在しない。
・不明

:しずかのママ
・不明

:しずかのパパ
・不明

:セワシ
・山本圭子
バカボン役、サザエさんの花沢さん役、ちびまる子ちゃんの山田役などで有名な大御所声優。今年9月に下肢骨折の治療のためしばらくの間休養すると発表された。

:我成先生
がなりと読む、あののび太を廊下に立たせる先生にも日テレ版にはちゃんとした苗字がついていた。また小学校の名前は初期に下町人情路線だったためか下町小学校という名前だった。風貌は後のテレ朝版とあまり変わらない。
・加藤修
先述した通り声優交代前に演じていた。その後はスネ夫のパパ役を演じたので詳細はそちらを参照。
・雨森雅司
初代のバカボンのパパ役で有名だった。そしてその後を継いだのが先述した初代ドラえもん役の富田耕生である。1984年に若くして肝硬変で死去。満53歳没。

:ボタ子
しずかちゃんの家に居候していたお手伝いさん。原作に一度だけ登場したゲストキャラクターをアレンジして作ったオリジナルキャラだがテコ入れのためにレギュラーキャラとして出演していた。風貌は後のジャイ子にも似ているがジャイ子以上に太めではある。なお、動画サイトに上がっている次回予告の映像にもこのキャラらしき女性キャラが出ている。
こちらも原作に登場した回は藤子・F・不二雄大全集が出るまで封印されていた。
・野沢雅子
言わずと知れた声優界のレジェンド。先述した通り声優交代前に演じていた。その後はドラえもん役を演じたので詳細はそちらを参照。
・不明

:デブ子
この日テレ版にしか登場しないオリジナルキャラとなる近所の子供で外見はジャイ子にも似ているらしい(今だったら問題視されそうな名前だけど…)
・つかせのりこ
魔女っ子メグちゃんの郷ノン、おはよう!スパンクのスパンク、つるピカハゲ丸くんのハゲ丸などが代表作とされる。1989年に若くして直腸癌で死去。43歳没。

:ジャマ子
こちらも日テレ版にしか登場しないオリジナルキャラとなる近所の子供らしい(これも今だったら問題視されそうな名前…)
・吉田理保子
魔女っ子メグちゃんの神崎メグ、まいっちんぐマチコ先生の麻衣マチコが代表作とされる。1998年に声優業から引退しマネージャー職を経て現在はキャスティング・コーディネーター、声優講師などの活動に主に携わっている。

:カワイ子ちゃん
ドラえもんのガールフレンドの白猫。OPの映像にもそれらしきネコが登場しており、現在の水田わさび版におけるドラえもんのガールフレンドで近所のメスネコであるミイちゃんにも近いと思われる。1973年4月8日放送の屋根の上のすてきな子の巻に登場する。ドラえもんはのび太からのアドバイスを受けてデートを試みる。
・不明

:沢村
オリジナルキャラのようだが映像を見ることも出来ない状況のため詳細不明。
・不明

:チンドン親子
日テレ版のオリジナルキャラであり、11話の台本を見る限りでは角刈りの父とサザエさんのカツオにも似た5歳の息子の健坊の2人で台車を転がしながらちんどん屋として太鼓を叩く、といったことをしていたらしい。ドラえもんも混ざってちんどん屋になっていたこともあった模様。
・不明

なお、ジャイアンの母・ジャイ子・ドラミ・小池さん・出木杉は登場しない。ただしドラミは放送途中に連載された回で初登場しているためか、主題歌のレコードのジャケットにはドラミも描かれている。

:追記

誤字訂正と「まる子も日テレ版ドラえもんを見ていた?」の項目を追加しました。


世界で一番ダサいPV 

2019-03-01 22:48:59 | 解説集
動画解説?の2回目、行きたいと思います。なお動画リンク中心となるのでご注意ください。
 
今回取り上げるのは世界でいちばんダサいシリーズでお馴染みの、あの曲です。
BGMを変えられるMADが多く、白いニットを着て、真っ赤なパンツを履いたダサい衣装を着て謎の踊りをするバックダンサーが特徴ですw 一応男女2人組のデュオが歌ってます。
このPV、BGMを変えられることが多いため元ネタの曲がどんなものか知らない人も割といるような気がしますが、実際は結構渋めのムード歌謡のような曲だったりするんですw それに曲の中身は結構普通なラブソングだったりします。
見ての通りのダサさで、狙いがとにかく分かりません…
 
ちょっと映像が古臭い感じですし、そもそも曲自体昭和歌謡みたいな渋いメロディですが、実際に1978年に発表されたフィンランドのArmi and Dannyというデュオによる「I Want To Love You Tender」という曲です。つまり40年以上の前の曲になるわけです。
ニコニコ動画で流行り始めた2007~2008年頃でも既に30年以上前になる訳ですし、よくそんな昔の遠い異国の洋楽のPVを見つけてこれたな…とは思いますw
 
フィンランドは北欧ですから遠いですし馴染みが薄い国ではありますよね…直行便は出ているみたいですが…
一般的に有名な物としてはサンタクロースとムーミン、マズいことで知られるお菓子のサルミアッキ、ハリセンボン春菜による「ハロネン大統領じゃねぇよ!」のネタぐらいでしょうかw
 
ちなみにタイトルの「I Want To Love You Tender」というのは日本語に訳すと「私はあなたを優しく愛したい」といったところです。ちなみにこれはあくまで英語版でのタイトルであり、フィンランドのアーティストであるからには勿論フィンランド語版も存在し、こちらでは「Tahdon olla sulle hella」というタイトルになります。読めねぇ…
このフィンランド語版については後述します。
 
歌っているアーティストのArmi and Danny(フィンランド語ではArmi Ja Dannyとなるようです)というのは女のアーミ・アーヴィッコ(Armi・アーミ)と男のイルッカ・リプサネン(Danny・ダニー)の2人によるデュオユニットで、あのダサいダンサーの衣装のD&Aというのもこれに由来します。女の方は普通に本名からとっているのに対し、男の方は全く無関係なダニーという名前をつけていますw
ダニーは76歳で今もご存命で尚且つ現役のアーティストですが、アーミは2002年に43歳の若さで亡くなってしまっています。
 
ライブかテレビ番組で歌ったと思われる映像です。
 
1977年に結成し、コンビを組んでからは初となるデビュー曲がこの曲でした。当初はフィンランド語版の「Tahdon olla sulle hella」のみがシングルとして先に発売されました。例のダサいPVは英語版のためこの時はまだ存在しませんでした。
同じ年にPain seinaa、Kaiken sulle antaisinというシングルを出した後、翌1978年に1stアルバム、「Danny & Armi」(何故か2人の順番が逆になってます)を発売しました。
このアルバムは基本的には英語版となっており、ダサいPVもこの時に発表されました。
その後同年に新曲としてMe vainと Silloin vasta kaiken saanを発表しました。最初の数年はそれまでのソロ活動の時より派手過ぎる衣装や曲に批判も少なくなかったようです。
1981年にはmeri tanaan rauhatonとVain kaksi nauhaaという新曲を発表し、翌1982年には「Tahdon olla sulle hella」をラテン風にアレンジしたバージョンを発表しました。
アレンジバージョンのライブでの映像です。
 
1983年頃の写真
 
80年代後半には大規模なショーやツアーよりも、サプライズとして小さなレストランやピザ屋でライブすることが多かったとwikiなどには書かれていました。しかしこの頃から双方共にソロでの活動も目立つようになっていきます。
90年代に入るとコンビとしての活動は減少し、アーミのアルコール依存症の悪化を理由に1995年をもってコンビを解消してしまいました。
この2人のメンバーについて詳しく触れていきたいと思います。

・アーミ・アーヴィッコ(Armi Aavikko/アーミ・1958年9月1日~2002年1月2日)
1958年に首都ヘルシンキで生まれ、19歳だった1977年には9人の候補を破ってミス・フィンランドにも選ばれ、これに目をつけたダニーによって同年にArmi and Dannyを結成します。あのPVで姿だけ見れば普通にお綺麗な方ですよね…
またソロでも活躍しており、1981年にはカバー曲ですが「Japanese boy」という日本人男性について歌った曲まで出しています。
これがその曲の動画で上がアーミが歌った方のPV、下がカバー元でテレビ番組?での映像です。PVの方はあのダサいPVから4年経ちだいぶ洗練されたものになってますね。下のテレビ番組での映像は和風?に見せたものとなっています。しかし、いかにも外国人から見た日本…って感じがしますね…日本人の目線から見ると…
ググってみて出てきた歌詞を見る限りTokio(普通に東京のことで決して5人のメンバーのうちの1人がやらかしたアレではないw)というのも入っているみたいですね。
そしてこれはスコットランドのAnekaという歌手が同じ年に歌ったものをカバーしたものです。結構ヒットした曲のようで近年になっても中国のアーティストにカバーされています。
1989年時点での写真。
 
2002年、エスポーにてアルコール依存症に起因する肺炎のため43歳の若さで亡くなってしまいました。
エスポーはヘルシンキに隣接している港町で、日本で言うなら横浜のような都市です。携帯電話で有名なノキアの本社もあります。
またこの年にはベストアルバムが発売されています。

・イルッカ・リプサネン(Ilkka Lipsanen/ダニー・1942年9月24日~)
1942年にフィンランド10番目の都市であるポリにて生まれました。ポリはフィンランド南西部のスウェーデンとの国境に接する都市です。正式にはイルッカ・ヨハネス・リプサネンという名前になります。
3年後には弟のペッカも生まれ、11歳の時にヘルシンキ東部のカタヤノッカへ移住します。そこでフィンランド有数の作曲家であるエーリク・ベリマンに影響を受け、
音楽の研究を始め、その後ポップに興味を持つようになりました。また同時に地元の少年サッカークラブにも所属していた模様です。
1962年に英語を勉強するためにイギリスのマンチェスター(サッカーのマンチェスター・ユナイテッドで有名ですね)に留学します。翌年には帰国し、プリムラというレストランチェーンで働く一方、歌手デビューに向けて準備を進めていました。
 
そして1964年、ついにアーティストとしてデビューしました。芸名のダニーはこの時に決まり、パトリック・マイケル・リチャードなどの候補の中から決まった模様です。
しかし翌年には徴兵制のため軍隊へと行ってしまいました。(フィンランドでは男子に半年から1年の徴兵制がある)。
1966年に復帰し、ヘルシンキ西部のラウッタッサリへと移住しました。この年に1stアルバム「Se olla voi toisinkin pain」を発売し、同年のユーロビジョン・ソング・コンテストで2位となりました。
ユーロビジョン・ソング・コンテストというのは簡単に言えば「EU版レコード大賞」みたいな物でEU各国で予選を勝ち上がった後、毎年開催国が変わる決勝大会にて1位を競う大会です。
デビューしていきなりEUで2位なのですから凄い実績を持っている方なんです。さらに同年からは毎年夏にツアーを開き、
これは後にArmi and Dannyを結成してからはそちらで行うようになり1995年までの長きに渡り続きました。また自らが所属するDプロダクションという事務所まで立ち上げました。
デビュー間もない頃のダニー
 
 
1968年にはカンヌで最も人気のある海外のアーティストとして賞を受賞し、リオデジャネイロでポップシンギング世界選手権というのにも参加した模様です。
この時期には当時人気のあった歌手のカトリー・ヘレナと交際していました。
1969年にはフィンランドで人気のあるアーティストを集めた「ロック・サイド・ストーリー」に参加しましたが、そこで爆発事故が起こるというハプニングにも遭遇してしまっています…
70年代に入ると1972年にはリサ・リプサネン(旧姓Seppala・セッペラと読むのか?)と結婚しますが一旦失速してしまいます。特に1973年から1974年にかけてフィンランドのポップ全体に大きな変化があり、その時期に新しくデビューした歌手のヒットや彼自身が過度のストレス、彩度、やる気の欠如に苦しんでしまったことで批判を浴びてしまったことから低迷しました。
しかし1975年、Seikkailija(冒険家という意味のようです)という曲がヒットし、再びユーロビジョン・ソング・コンテストに出場しました。ここから帰り咲き、2年後に若い人と組んでいきたいとの考えから同年のミス・フィンランドに選ばれたアーミ・アーヴィッコとコンビを組むことになります。
 
その後約1986年に「忍者」というアルバム・曲をリリースします。まさかのまた日本に関係するタイトルですね…アーミの方はジャパニーズボーイで、ダニーの方は忍者とは…
当時、「忍者」でユーロビジョン・ソング・コンテストに出場した時の映像です。
 
1995年にArmi and Dannyのコンビを解消して以降、1996年に「Valo and Energy」(光とエネルギー)、翌1997年に「taika」(マジック)というアルバムを発表しました。また1996年には大統領勲章であるフィンランド獅子勲章を受章しました。
2002年には60歳になったことを記念してフィンランド最大の屋内競技場であるハートウォールアリーナにて記念コンサートを開きました。しかし2005年には33年連れ添ったリサ・リプサネンと離婚してしまいました。2008年には生まれ故郷、ポリの生家に記念プレートが貼られました。
2008年時点での写真
 
近年では2016年に「Songs」というアルバムを発売し、作曲家のエサ・ニエミネンによってプロデュースされています。また昨年の2018年にはIskelma-Finlandiaという国内有数のエンターテイナーに贈られる賞を受賞しています。
あのPVこそ無茶苦茶ダサいですが、このように華やかなキャリアを積んだとても偉大なアーティスト達なんですよね…
特にダニーはマジで今もフィンランドという国を代表するアーティストと言っても間違いでは無いです…多分フィンランドの国民で知らない人はまずいないレベルなのではないかと思われます。
日本で言うなら誰だろ…詳しくないけどマッチこと近藤真彦さんが近いのかな…?
 
さて本題の例のPVに戻りますが、これは英語版・フィンランド語版のwikiにも「出来に問題があった」とはっきり書かれている程ですww 本国でも当時からダサいと感じられたようですが、この曲自体は当時大ヒットして1万枚以上を売り上げ、国内の賞レースにおいて金賞を受賞したそうです。そのためこのPV自体もネタとして受け入れられたそうです。
PVの撮影時に撮られたと思われる写真

このPVは元々「Armi ja Danny Avaruusajassa」という番組内で放送されたものを使用しており、翻訳すると「アーミ&ダニーの宇宙」とか出てきました。
日本で言うならAKBINGO!のようなアーティストとのタイアップ番組だと思われるこの番組、タイトルに宇宙と入っているからこそラストのシーンは宇宙っぽくなったのかもしれません。
 

ちなみにフィンランド語版のジャケットには何故か日立製のカセットテープが写っていますw また日本に関するものが出てきましたね…2人ともそれぞれ「ジャパニーズボーイ」「忍者」という曲を出してますし、30年以上経って日本のネット界でネタにされるわけですから、日本との縁があり過ぎますねwww
フィンランドはヨーロッパの中では割と親日的な方という噂を聞いたことありますし…
英語版は本来アルバムに収録されていたのですがシングルとしても出ていたようで、それのジャケットがこれになるのですがまだ普通な感じがします。
しかし、そのアルバムの方のジャケットはPV同様かなりダサいですw
 
動画の右下にはMTVというのが入っていますが、これは音楽チャンネルのMTVでは無くフィンランドの民放テレビ局の名称です。MTVは1957年にフィンランド初の民放テレビ局として開局しましたが、1993年以降はMTV3という名称に変更されて今に至ります。
またライブかテレビ番組で歌ったと思われる映像に出てくるYLEというのもテレビ局の名称で、こちらは公共放送…つまりNHKと同じです。NHK同様受信料を徴収し、テレビとラジオを運営しています。

他にも数多くのフィンランドのアーティストによってカバーされており、また例のダサいPVも国内のコメディアンなどによるパロディが存在します。勿論一般の人でも真似する例は結構あるようです。
現地の一般人と思われる2人が庭で真似している動画です。
 
学園祭?か何かで真似した例です。
発表から40年以上経ちますが最近になってもカバーされているようで、この動画の場合今年録られたものだと思われますが、結構アレンジされています。

このため、フィンランドにおいては老若男女問わず有名なネタ曲…といった扱いなのだと思われます。日本で言うなら吉幾三さんの「俺ら東京さ行ぐだ」みたいなものでしょうか(これもニコ動においてラップ調に合いの手が入る形でネタによく使われていますねw)

歌詞
フィンランド語・英語・日本語の順に並べてみました。フィンランド語と英語は海外の歌詞サイトに書いてあったもの参考にし、日本語は英語版を翻訳サイトにかけながら和訳していきました。
なお、フィンランド語版の歌詞は英語版においてそこに該当する部分のを書いただけで意味まで同じであるかは不明です…


Tahdon sulle olla hyvin hellä
I love you,I Want To Love You Tender
愛してる、私はあなたを優しく愛したい
 
oisit mulle kukka kämmenellä
You could be my only sweet surrender
あなたはただ一人の運命の人さ
 
tuskaa sulle en vois ikinä mä tuottaa
I would never bring you any kind of sorrow
あなたを悲しませるなんてことはしない
 
Tahdot mulle olla hyvin hellä
You love me,you wanna love me tender
あなたは私を愛してくれる、大切に愛してくれる
 
näin kun väität käsi sydämellä
How can I he sure you`re not pretender?
だけど私はあなたを信じて良いのか分からない
 
täysin voinko silti
You want me today
今日は愛してくれる
 
sun sanomaasi luottaa
But what about tomorrow?
だけど明日は分からないよね?
 
 
Niin suloinen oot
Oh, you're absolutely fine
ああ、あなたはとても素晴らしい
 
sun vartalosi on
Your lips are taste of wine
あなたの唇はワインの味のようだ
 
niin uskomaton
I'd like to think you're mine
私はあなたを彼女にしたい
 
jos sua koskea mä saan
And if I could touch your hand
そして、もし私があなたの手を触れるのなら
 
mä sillon kauttaaltaan
This rock would turn to sand
この岩も砂のようになって
 
käyn vapisemaan
So this is where we stand
私たちの足元に落ちる
 
 
Tahdon sulle olla hyvin hellä
You love me,you wanna love me tender
あなたは私を愛してくれる、大切に愛してくれる
 
näin kun väität käsi sydämellä
How can I he sure you`re not pretender?
だけど私はあなたを信じて良いのか分からない
 
täysin voinko silti
You want me today
今日は愛してくれる
 
sun sanomaasi luottaa
But what about tomorrow?
だけど明日は分からないよね?
 
Tahdon sulle olla hyvin hellä
I love you,I Want To Love You Tender
愛してる、私はあなたを優しく愛したい
 
muuten en sua voisi käsitellä
I just want to be your loving fender
あなたは私の運命の人だ
 
täysin voinko silti
I would like to take you
私はあなたを連れていきたい
 
sun sanomaasi luottaa
I know I can't deceive you
私はあなたを騙すことなんて出来ない
 
~間奏~

Tahdon sulle olla myöskin hellä
I love you,I do can be so tender
愛してる、私はあなたを大切にしたい
 
jos voit muutakin kuin lähennellä
I can be your only sweet surrender
私はあなたをただ一人の運命の人と信じれる
 
jos voit mulle yksin
And if you give your heart
もしあなたの心をくれるなら
 
jos voit mulle yksin
I'll never ever leave you
私は永遠にあなたから離れない
 
 
Niin suloinen oot
Oh, you're absolutely fine
ああ、あなたはとても素晴らしい
 
sun vartalosi on
Your lips are taste of wine
あなたの唇はワインの味のようだ
 
niin uskomaton
I'd like to think you're mine
私はあなたを彼女にしたい
 
kun sua koskea mä saan
And if I could touch your hand
そして、もし私があなたの手を触れるのなら
 
sä sillon kauttaaltaan
This rock would turn to sand
この岩も砂のようになって
 
käyt vapisemaan
So this is where we stand
私たちの足元に落ちる
 
Tahdon sulle olla hyvin hellä
If we all say "Wanna love you tender,"
「あなたを大事にしたい」と皆が言えば
 
silloin onni oisi ihmisellä
No-one has to be a great pretender
大の嘘つきはいなくなる
 
kaiken kun hän saa
And this world would be
そしてこの世界はもっと
 
ja kaiken myöskin antaa
A better place to live in
もっと良い場所になるだろう
 
*フィンランド語版のみ、*の後の最後のサビを繰り返す
 

最後に、他にもフィンランドは初音ミクが歌ったことで有名な「levan Polkka」(ロイツマ)や、かの有名なYMCAのカバーですがこれまたダサくなってしまった「しょし」を生み出した国でもあります。ロイツマって本来はlevan Polkkaを歌ったアーティストの名前なんですけどね…
他にもこういったネタ要素以外にメタルバンドを中心に洋楽界において有名な曲が多く、国家産業として音楽産業の育成には力を入れている程、音楽には非常に強い国です。これは隣のスウェーデンを始め北欧全般に言えることで、スウェーデンもかつて流行した「ウッーウッーウマウマ(゚∀゚)」や「高らかにオ〇ニー」を生み出した国でもあります。