なはの雑多ブログ

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幻のドラえもん?? その2・聖地編

2022-01-30 22:54:50 | 解説集

以前、幻のドラえもんこと日テレ版ドラえもんについての記事を書いてみましたが、これについての続編記事となります。
実は今現在誰でも知ってるであろうドラえもんのアニメが今のテレ朝で放送される前、日テレで半年間だけドラえもんのアニメが放送されていたのです。

ですが原作者の藤子先生が否定したり制作会社が消滅した上にそこの代表が失踪からの逮捕されたり…そんなゴタゴタぶりの結果、幻の封印作品となってしまったのが日テレ版ドラえもんなのですが、それについての詳細は前編のその1で詳しく書いているのでそちらをご覧くださいその1を読んでからこのその2の記事をご覧になることをお勧めします。

実はこの日テレ版ドラえもんを制作した日本テレビ動画のかつての制作拠点があったビルは半世紀近く経った今でも現存していたりするんです…!
会社の代表が新潟出身だったこともあり、新潟と東京の2拠点でアニメの制作が行われていたのですが、東京での拠点が入っていた中野区の雑居ビルが現存しているのでちょっと見てきました。

なお新潟での拠点が入っていた住所で検索してみると、新潟駅から程近い場所でここにも雑居ビルがありましたが、不動産情報のサイトによるとその雑居ビルは1980年に建てられたそうで、既にテレ朝版のドラえもんの放送が始まっている頃になります。なので残念ながら当時の建物ではありません…
そのため恐らく、この中野区の雑居ビルが日テレ版ドラえもんの唯一の聖地、と言える場所でしょう…

それは古着屋の聖地として名高い中央線文化の象徴の1つ、とも言える街…高円寺駅から環七通り沿いに出て12分程の場所にあります…
なお西武新宿線の野方駅からも15分で行くことも出来ます。また同じ中央線の中野駅からも20分と行けない距離では無いです。

まあ中央線や西武線に近いこの東京西部のエリアは漫画家の拠点やアニメスタジオが数多くありますからね…日本のアニメ産業の中心地とも言えます…なのでこの地に拠点があったのは当然の流れとも言えます。
何せ本作のスタッフの師匠でもある手塚治虫先生は東久留米の在住でしたし、ドラえもんの原作者の藤子先生も一時期入居していたトキワ荘も南長崎でした。
そして現在のテレ朝版ドラえもんを制作しているシンエイ動画は田無にあります、そのドラえもん達が住む練馬区だって西武線沿いですしね…またあのチャー研で有名なナックも武蔵関だったそうですし…
他にも有名どころだとジブリは美術館でも有名な三鷹、エヴァで有名なガイナックスは吉祥寺、化物語で有名なシャフトは上井草にあります。

さて環七通りをずっと歩いていると……見えてきました…

ここが1973年当時、日テレ版ドラえもんの拠点が入っていた7階建ての雑居ビルです…
当時とは所有者が変わったりしたのかビルの名称が2度も変わっているそうで、当時は五十嵐ビルという名前だったそうですが今は野方ビルという名前になっています。
まあ半世紀も経てばそりゃあ色々変わっていきますよね…

当時はこのビルの4階にあったそうで、この地でドラえもんのセル画が描かれたり編集したりといった作業で制作されていたのです…
また1973年当時、7階には高級麻雀店があったそうで、日本テレビ動画のスタッフは仕事終わりの息抜きに行っていたとか…

今は1階にはトランクルームがあり、2台しか止められないビル専用らしき駐車場には日産製ワンボックスのキャラバンとNV200が止められていました。ナンバーからしてここに入居している企業のものの車らしきものでしたが、あまり人の気配は感じなかったですね…照明も全部ついて無かったですし…
見ての通り古いビルですし取り壊されるのも、もしかして近いのでしょうか…

このビルが建てられたのは大阪万博の年、高度経済成長期真っ只中の1970年の5月とのことですので、今でこそ築52年の相当古いビルですが、日テレ版ドラえもんの当時はまたまだ築3年の真新しいビルだったことになります…
やはり塗装には劣化が見られ、配管からは蔦が生えるなど老朽化は隠せません…

またこのビルの周りの道路は中央線沿いらしく古い昔ながらの街なだけあって非常に狭く、建物が密集しているのでビル全体の姿を捉えることが非常に困難です。また目の前の環七通りには立体交差があります。なので向かいから全容を撮るといったことも出来ません。

と言ったこともあり、どうやったらなるべく全容を映せるか色々と考えましたね…

中には勿論入れませんでしたが、時代を感じさせる派手な青と黄色のタイルに丸いボタンの年代物のエレベーターがあるのが見えます…
オイルショック前の60年代末期~70年代初頭はやたらカラフルな物が流行りましたからね…それでこのタイルな訳でしょう…
きっとどちらも1970年の竣工時からのものでしょうし、日テレ版ドラえもんの放送当時もこんなだったはずです…

最終回の放送された日にはもう会社が解散する日だったので、スタジオは空っぽになり、ライトエース(トヨタのワンボックスバン)にカット袋1万袋分のセル画や台本、絵コンテを沢山積み込んでいたとのことですから、きっとオフィスの中から階段なりエレベーターなりでこのエントランスを通って車に積み込んだことでしょう…隣にある駐車場に止めるか、環七通りに路駐していたのでしょうか…

このビルがある角を曲がると煙突が見えてきますが、、、昔ながらの銭湯ってこういう煙突よくありましたよね、、、

やはりそこには銭湯がありました。こちらの上越泉という銭湯についてはこの記事にて紹介しています。
これだけ程近いですし風情ある建物ですから、きっと当時からあるだろうと思って調べたら、何とさらに前で戦後すぐの昭和21年からの営業だそうです。日テレ版ドラえもんの放送が昭和48年なので勿論その当時には既にあったことになります…
やはり制作スタッフの新倉さんや真佐美さんも仕事終わりの疲れを癒しにここに来ていたのかもしれません。

隣にある駐車場からもこのビルが見えます。70年代初頭はまだ高い建物が少なかったでしょうから、きっとかなり目立つ建物だったのではと思います。
そんな建物も今や築52年…いつ取り壊されても全くおかしく無い時期ですが、角の細長い敷地で使いにくさはあるでしょうし、周りを見ているとこの銭湯を含めてもっと古そうな建物は結構ありますから、意外とこの先も残るかもしれません…まあ油断は禁物ですが…

まだこのビルが残っているうちに、日テレ版ドラえもんが解禁されてここに記念碑とかでも作られたら…と思いますが、可能性はかなり低いでしょうね…

というか見ての通り痕跡が何も無い訳ですし…まあ雑居ビルですし当たり前と言えば当たり前ですが…真佐美さんのホームページや封印作品の憂鬱という書籍にここにあったという事実が記載されていた訳でそれらが数少ない資料ですし…

最後に環七通りの歩道橋や周辺から撮った写真を載せていきます。
半世紀近く経った今現在、この地で一番最初のドラえもんが作られてたことは恐らく近隣の住民でも知らない方がほとんどなはずです…
いや当時なんて、ドラえもんはまだ誰でも知ってる国民的な作品になる前ですし、勿論このビルもただの雑居ビルでしか無かった訳ですし知る訳がありません…
きっと物を運び出す最終日も、近隣の人はただの日常の風景として何も感じなかったはずです…

ですが、紆余曲折を経て放送されて6年後に封印されてしまい、今やこの地は伝説級の封印作品を生んた場所となってしまったという事実がある訳です…

今やドラえもんを知らない日本国民なんてきっとほぼいないことでしょう…誰でも登場人物が言えるでしょうし、今の曲はまだしも「こんなこといいな、出来たらいいな」から始まるあの定番の曲は誰でも歌えるはずです。
アニメや漫画に留まらず、様々な広告にも出演していますし日本中どこでも見かける存在です。

ですがそんな国民的作品の歴史の1ページを作った場所がこの地…でもあるんです…
国民的なアニメが最初にアニメ化され、その最初のアニメが作られた記念すべき場所がこのビルなのです。
いつの日か、封印が解かれてもっと最初のドラえもんが知れ渡って欲しい…そしてやはり完全な姿で映像を見れる日が来て欲しい…DVDが出たら絶対買ってみたい…そんな風に思いながら私は横断歩道から眺めていました…



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