俺がハムになるまで語り明かそう

主に海外旅行などの行程や費用などを書いています。英語ほぼできません。
これから旅行に行く人の役に立てばと思います。

'18ベトナム13 戦争証跡博物館③

2019-02-17 01:34:00 | 旅行

引き続き写真をご紹介しますが、ちょっとそのまま載せると規約に引っかかってバンされそうなのでモザイクを施して掲載します。

ほぼモザイクですが、気分の悪くなりそうな方は見ない方がいいかもしれません。

本当はそのままを見ていただきたいのですが、あまりにエグいので…(´・ω・`)

前回載せてなかったのですが展示室はこうなっています。

すごい人です、白人が多かった印象ですね。
日本人の方も少しいました。

それでは展示物の続きを。

戦車に引きずり回されて殺されたベトナム人捕虜

グレネードランチャーで吹き飛んだベトナム人

焼き払われる村

大量虐殺のほとんどが女性と子供だったようです。

もうモザイクで何が何だかわからないと思いますが、道端に15人ほどの血まみれの死体が積み重なっています。
下に書いてある無数の文字はおそらく被害者の名前だと思う。

早朝の襲撃により村のいたるところで無差別に殺された村人

左はお父さんらしき人、右は男の子。

リン爆弾を受けたベトナム人
本来白リン弾は煙幕や照明弾として使われるのですが、人に対して使うのは化学兵器(非人道的なため戦争でも禁止されている兵器)と同様と言われています。
全身に火傷を負って死亡。

ここに展示してある写真が強烈過ぎて感覚が麻痺してきます。

《ベトナム戦争が終わったあとにも不発弾や地雷などの影響で沢山の人が犠牲になっています》という展示。吹き飛んだ人の写真。

殺された母親と赤ちゃん

これは結構有名な写真だと思いますが、これもピュリッツァー賞を受賞した作品です。

タイトル【戦争の恐怖】

チャンダン県の村にナパーム弾が投下され逃げ惑う子供達。

ナパーム爆弾に焼き殺された黒焦げの遺体

ここまでくるとエグさを通り越して見れますが一応モザイクをかけておきます。

なんかほぼモザイクですいません、グロ耐性ないとかなりキツイと思います。

見ているだけで体力が奪われそうです…というかメンタル削られる(´・ω・`)

さて多分一番エグいゾーンはこれで終わりです。

次回はベトナム戦争で使われた武器と枯葉剤のコーナーをご紹介します。

P.S それにしても新しくなったブログアプリほんとバグばっかりで使いづらい…

'18ベトナム 13へ続く


'18ベトナム12 戦争証跡博物館②

2019-02-09 04:27:02 | 旅行

写真多めになりますが、gooブログの規約によりエグい写真は載せれないので次回からモザイクをかけて掲載します。

ちなみに今回は一番最後のだけ微妙なのですがモザイクはかけていません。

苦手な方は読むのを飛ばしてください

さて、2階に上がると2つほど大きな部屋がありそれぞれテーマが決まっていて展示されています。

1階のレセプションか階段を上がったところにパンフレットがあるのでもらって進むと分かりやすいです。

ブログでは特に区切りなく写真で紹介していこうと思います。

アメリカ兵の人形

当時の装備を再現してあります、心なしか顔がニヤけて憎たらしく作ってあるような気が。

他の戦争との比較

左から第二次世界大戦(WW2)朝鮮戦争(KW)ベトナム戦争(VW)の比較

・戦争期間(見えないので補足)

WW2 38ヶ月

KW 31ヶ月

VW 172ヶ月

・戦った兵士の数

・ピーク兵力

・落とされた爆弾の量

・戦争にかかった費用

ドル表記です、ビリオンは10億単位

・死傷者

kill'dとありますが恐らく死者かと思います、下の数字は負傷者。

第二次世界大戦と数字を比べてもかなりの激しさがうかがえますね。

ライフマガジン 1963125日号より

"ベトナムでの悪質な戦い"

ライフル銃の音に泣くベトナムの少年

説明書きによると

1966年アメリカを支援している中国のヌン族が若いベトコンを捕まえた、彼にライフルを撃つそぶりをして父親のベトコンについて情報を聞き出そうとしている。

アメリカ兵に連れて行かれるベトナム兵

戦場カメラマン沢田教一の有名なピュリッツァー賞受賞作

"安全への逃避"

ちなみに右の母親と子供は親子、左は他の家族です。

映画の1シーンのようですが、現実の写真。

こちらも有名な戦争カメラマン【一ノ瀬泰造】のカメラ

"茂みに隠れていた時に被弾したがカメラのおかげで負傷を免れた"

(翻訳が違ってたらすいません)

でも普通に貫通してるように見える。

枯葉剤によるマングローブの消失

ここは殆ど英語とベトナム語ですが、日本語による説明も少しだけあります。

枯葉剤の影響を受けた赤ちゃん

下半身が一つで生まれた双子《ベトちゃんドクちゃん》

わたくしが若い頃テレビで見たことあります。

88年に分離手術をするために日本赤十字が医師団を派遣、ベトナム人医師70人日本医師4人による17時間の大手術が行われたようです。

アメリカ兵も無傷だったわけではありません、枯葉剤の影響で障害を持って生まれた子供。

爆弾の破片で作られたオブジェ

アメリカ軍によって焼き払われた村

アメリカ兵とベトナム人の頭蓋骨

U.S policy "ban all, destroy all,kill all"19709

下の説明は恐らく「アメリカの方針は"全て禁止、全て破壊、全て殺せ」と書かれています。

今までベトナム戦争についてふわっとした知識しかありませんでしたが、ここへ来たことによってより明確になりなんだかとても心が重くなりました。

思ってた以上に酷かった(´ω・`)

次回も戦争証跡博物館です。

'18ベトナム12へ続く


'18ベトナム11 ベトナム戦争のお話

2019-02-03 23:27:36 | 旅行

歴史の時系列をまとめるのに随分時間がかかってしまいました(´・ω・`)やっと更新できた

さて、今回はベトナム戦争証跡(しょうせき)博物館に行くにあたって、近代戦争の歴史をさらっと復習しておきました。
興味ない方もいるかと思いますが、軽く知っておいた方が状況がわかりやすいかと思いますのでしばしお付き合いください。


ベトナム戦争までの歴史とベトナム戦争
歴史的な流れは日中戦争→太平洋戦争→インドシナ戦争→ベトナム戦争となります。

1937年7月から始まった日中戦争ではアメリカ・イギリス・ソ連が中国を支援。

アメリカはフランス領のベトナムから陸路を使って中国を支援、これを蒋介石(しょうかいせき)を応援するルートということで援蒋(えんしょう)ルートと呼ばれる。

これにより日本は苦戦を強いられる。

1939年9月
ドイツがポーランドへ侵攻
ポーランドを支援するイギリスとフランスの両国と戦争になる
第二次世界大戦勃発

1940年6月
ドイツ軍によりフランスのパリ陥落

1940年9月23日
日本軍による北部仏印(ベトナム北部)進駐

第二次世界大戦中フランスがドイツに敗戦したのにかこつけて、日本は元フランス植民地であるベトナムに援蒋ルートを断ち切るために進駐した。

1940年9月27日
日本ドイツイタリアによる
日独伊三国同盟が結ばれる。

1941年7月
資源獲得のため日本軍は南部仏印(ベトナム南部)に進駐

1941年7月
日本軍の南部仏印進駐に対し経済制裁発動
ABCD包囲網
名前の由来は、America(アメリカ)・Britain(イギリス)・China(中華民国)・Dutch(オランダ)
海外日本資産の凍結、鉄や石油などの輸出を停止。

1941年 11月26日
アメリカがハル・ノート(ハルとはアメリカの国務長官)を日本へ提示
① 中華民国やインドシナからの撤退
② 日独伊三国同盟からの離脱
③ 中華民国で「蒋介石」政府以外認めない
という内容。

日本は納得せず真珠湾攻撃によりアメリカに宣戦布告、太平洋戦争が勃発。

その後、戦争で麻袋が必要なためベトナム人に米の栽培を減らさせ麻の栽培をさせる。
更に日本軍が食べるためのお米を大量に買い取る。

1944年ベトナムで干ばつ→北ベトナム人が大量に餓死。

1945年8月15日
太平洋戦争終戦 日本敗戦

1945年9月2日
フランスに行き共産党に入っていたホーチミンが、ベトナム民主共和国の成立を宣言

ホー・チ・ミン
ウィキペディアより

ドイツ日本が戦争で負けたので、再びフランスがベトナムを支配しようと戻ってくる。

1946年12月〜1954年7月
ベトナムがこれに反発、フランスとの戦争へ→インドシナ戦争勃発

ベトナムの独立を求めるベトナムの同盟会=ベトミンが発足

中華民国とソ連(共産主義)はホーチミン率いる共産主義のベトミンを支援。

ベトナムが共産国となるとカンボジアやラオス、その他近隣諸国もドミノ倒しのように共産国となってしまうのでアメリカ(資本主義)は食い止めたいと考える。
そのためアメリカはフランスを支援することに。

1949年
フランスはバオ・ダイを国家元首としてたてベトナム国を樹立。

1954年 ディエンビエンフーの戦い
ベトナム北部ディエンビエンフーでフランス軍が空港を作り供給物資を運ぶ。
フランス16000人に対し、ベトミンは4万人で空港を包囲、砲撃などで空港を破壊、供給を断つ。
フランス軍 死傷者6000人捕虜1万人の大打撃。

1954年5月
フランス軍降伏

1954年7月
ジュネーブ協定(インドシナ休戦協定)

ベトナム民主共和国が認められ、北緯17度線を境に南北に分断される。

この分断により北ベトナムはホーチミン率いるベトナム民主共和国(共産主義)南はフランス、アメリカの息がかかったベトナム共和国(資本主義)となる。

1955年
その後、ベトナム共和国の国家元首であるバオ・ダイは、首相にアメリカとの繋がりのあるゴ・ディン・ジエムを任命。

ゴ・ディン・ジエム(ベトナム人)はカトリック教徒でアメリカに暮らしていたので抜擢され南ベトナムの首相として配置された。

しかし、アメリカの支援を受けたゴ・ディン・ジエムは、1955年に国民投票でバオ・ダイの免職とベトナム共和国の設立、並びに初代大統領への就任を果たした。

ゴ・ディン・ジエム
ウィキペディアより

南のゴ・ディン・ジェムはアメリカからの支援金で私腹を肥やし、仏教が嫌いだったため仏教徒を弾圧(ベトナムは仏教)、カトリックを広めようとする。

カトリック信者が多かったサイゴン(今のホーチミン市)の有力者を優遇。
これに仏教徒が反発し、反政府運動が行われる。

1963年
政府は戒厳令を発令、南ベトナムの特殊部隊が南ベトナム全土の寺院を襲撃し1400人の僧侶を逮捕。

※戒厳令(かいげんれい)とは戦時、自然災害、暴動時に法律の一部の効力を停止して権力を軍部へ移行すること、要は軍が色々好きにやれる切り札。

この特殊部隊はアメリカCIAが組織したもので、これにより南ベトナムでアメリカへの反米意識が高まる。

南ベトナム人が南ベトナム民族解放戦線を発足。
これがいわゆるベトコン=ベトナム共産主義野郎。

ベトコンと南ベトナム政府軍の紛争が勃発


1963年11月1日未明
ベトナム共和国の軍事クーデターにより潜伏先の中華街でゴ・ディン・ジエムが暗殺される。
または拘束後処刑とも言われる。

この時のアメリカ大統領はJFケネディ、途中で暗殺され(1963年11月22日)副大統領のジョンソンが大統領になる。
当時のアメリカは徴兵制度のため士気は低く、戦争をしたくない兵士が多かった。


1964年8月2日
・トンキン湾事件
アメリカが北ベトナムの領海に侵入→北ベトナムがアメリカ軍に魚雷を発射、アメリカ軍は北ベトナムを爆撃する(北爆)


きっかけとなった北ベトナムによる2回目の魚雷発射はアメリカ軍の誤解だったと言われる。

1965年2月
北爆を恒久化させベトナム戦争に突入。
ちなみにこの時使われた爆撃機はB52。

この時爆撃を指示したのが東京大空襲の指揮をとったカーチスルメイというアメリカ人「石器時代に後戻りさせてやる」という言葉を残している。

カーチスルメイはのちの日本の航空自衛隊を育成したことで、日本政府から勲章を受けている。

1965年
ベトナム全土でベトナム戦争が勃発。

北ベトナムには中国ロシアから軍事支援物資が供給される。

北ベトナム軍が南のベトナム解放戦線を支援、ラオス、カンボジアなどのルートを使い武器や弾薬を補充。

ジュネーブ協定により北ベトナム・南ベトナムの境の北緯17度は非武装地帯になっていたので、北ベトナムが南ベトナム国内でアメリカに対しゲリラ活動を展開している解放戦線を支援するためには、他のルートを使う必要があった。
これをホーチミンルートという。

アメリカ軍はホーチミンルートを叩くためラオスやカンボジアのルートにも爆撃。
しかし完全にルートを断つことはできなかった。

1968年1月30日
テト攻勢で一時的にアメリカ大使館を占拠、のちアメリカや世界中でその状況が放映され勝利を確信していたアメリカ市民の不安を煽りアメリカへの反戦運動が加速。

※テト攻勢とは
テトはベトナムの旧正月で、この日はお互い休戦するという暗黙の了解だったが入念に準備した北ベトナム軍(と南ベトナム解放軍)がこの日に一斉攻撃を行った。

1968年3月16日
ソンミ村大量虐殺事件
南ベトナム解放戦線の兵士は日中は農作業をして、夜中にアメリカ軍を襲撃していたため、アメリカ軍は農民との区別がつかず混乱、ベトナム人の無差別虐殺へとつながる。

これには南ベトナム人が怒りアメリカを憎む解放戦線を支援。

アメリカが南ベトナム政府への支援を打ち切り、南ベトナム政府内でのクーデターが起きる。


1975年
アメリカがベトナムから撤退、実質北ベトナムがベトナムを統一。
ベトナム戦争終結

サイゴンがホーチミンシティとなる。



と、ここまでがベトナム戦争の流れです。
全然さらっとじゃなかったですけど、我ながらよくまとめたと思いますよはい(❛ω❛)

次回は証跡博物館の中をさらにご紹介します。
更新早めにしますすいません(´・ω・`)


'18ベトナム旅12へ続く