俺がハムになるまで語り明かそう

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これから旅行に行く人の役に立てばと思います。

'18ベトナム11 ベトナム戦争のお話

2019-02-03 23:27:36 | 旅行

歴史の時系列をまとめるのに随分時間がかかってしまいました(´・ω・`)やっと更新できた

さて、今回はベトナム戦争証跡(しょうせき)博物館に行くにあたって、近代戦争の歴史をさらっと復習しておきました。
興味ない方もいるかと思いますが、軽く知っておいた方が状況がわかりやすいかと思いますのでしばしお付き合いください。


ベトナム戦争までの歴史とベトナム戦争
歴史的な流れは日中戦争→太平洋戦争→インドシナ戦争→ベトナム戦争となります。

1937年7月から始まった日中戦争ではアメリカ・イギリス・ソ連が中国を支援。

アメリカはフランス領のベトナムから陸路を使って中国を支援、これを蒋介石(しょうかいせき)を応援するルートということで援蒋(えんしょう)ルートと呼ばれる。

これにより日本は苦戦を強いられる。

1939年9月
ドイツがポーランドへ侵攻
ポーランドを支援するイギリスとフランスの両国と戦争になる
第二次世界大戦勃発

1940年6月
ドイツ軍によりフランスのパリ陥落

1940年9月23日
日本軍による北部仏印(ベトナム北部)進駐

第二次世界大戦中フランスがドイツに敗戦したのにかこつけて、日本は元フランス植民地であるベトナムに援蒋ルートを断ち切るために進駐した。

1940年9月27日
日本ドイツイタリアによる
日独伊三国同盟が結ばれる。

1941年7月
資源獲得のため日本軍は南部仏印(ベトナム南部)に進駐

1941年7月
日本軍の南部仏印進駐に対し経済制裁発動
ABCD包囲網
名前の由来は、America(アメリカ)・Britain(イギリス)・China(中華民国)・Dutch(オランダ)
海外日本資産の凍結、鉄や石油などの輸出を停止。

1941年 11月26日
アメリカがハル・ノート(ハルとはアメリカの国務長官)を日本へ提示
① 中華民国やインドシナからの撤退
② 日独伊三国同盟からの離脱
③ 中華民国で「蒋介石」政府以外認めない
という内容。

日本は納得せず真珠湾攻撃によりアメリカに宣戦布告、太平洋戦争が勃発。

その後、戦争で麻袋が必要なためベトナム人に米の栽培を減らさせ麻の栽培をさせる。
更に日本軍が食べるためのお米を大量に買い取る。

1944年ベトナムで干ばつ→北ベトナム人が大量に餓死。

1945年8月15日
太平洋戦争終戦 日本敗戦

1945年9月2日
フランスに行き共産党に入っていたホーチミンが、ベトナム民主共和国の成立を宣言

ホー・チ・ミン
ウィキペディアより

ドイツ日本が戦争で負けたので、再びフランスがベトナムを支配しようと戻ってくる。

1946年12月〜1954年7月
ベトナムがこれに反発、フランスとの戦争へ→インドシナ戦争勃発

ベトナムの独立を求めるベトナムの同盟会=ベトミンが発足

中華民国とソ連(共産主義)はホーチミン率いる共産主義のベトミンを支援。

ベトナムが共産国となるとカンボジアやラオス、その他近隣諸国もドミノ倒しのように共産国となってしまうのでアメリカ(資本主義)は食い止めたいと考える。
そのためアメリカはフランスを支援することに。

1949年
フランスはバオ・ダイを国家元首としてたてベトナム国を樹立。

1954年 ディエンビエンフーの戦い
ベトナム北部ディエンビエンフーでフランス軍が空港を作り供給物資を運ぶ。
フランス16000人に対し、ベトミンは4万人で空港を包囲、砲撃などで空港を破壊、供給を断つ。
フランス軍 死傷者6000人捕虜1万人の大打撃。

1954年5月
フランス軍降伏

1954年7月
ジュネーブ協定(インドシナ休戦協定)

ベトナム民主共和国が認められ、北緯17度線を境に南北に分断される。

この分断により北ベトナムはホーチミン率いるベトナム民主共和国(共産主義)南はフランス、アメリカの息がかかったベトナム共和国(資本主義)となる。

1955年
その後、ベトナム共和国の国家元首であるバオ・ダイは、首相にアメリカとの繋がりのあるゴ・ディン・ジエムを任命。

ゴ・ディン・ジエム(ベトナム人)はカトリック教徒でアメリカに暮らしていたので抜擢され南ベトナムの首相として配置された。

しかし、アメリカの支援を受けたゴ・ディン・ジエムは、1955年に国民投票でバオ・ダイの免職とベトナム共和国の設立、並びに初代大統領への就任を果たした。

ゴ・ディン・ジエム
ウィキペディアより

南のゴ・ディン・ジェムはアメリカからの支援金で私腹を肥やし、仏教が嫌いだったため仏教徒を弾圧(ベトナムは仏教)、カトリックを広めようとする。

カトリック信者が多かったサイゴン(今のホーチミン市)の有力者を優遇。
これに仏教徒が反発し、反政府運動が行われる。

1963年
政府は戒厳令を発令、南ベトナムの特殊部隊が南ベトナム全土の寺院を襲撃し1400人の僧侶を逮捕。

※戒厳令(かいげんれい)とは戦時、自然災害、暴動時に法律の一部の効力を停止して権力を軍部へ移行すること、要は軍が色々好きにやれる切り札。

この特殊部隊はアメリカCIAが組織したもので、これにより南ベトナムでアメリカへの反米意識が高まる。

南ベトナム人が南ベトナム民族解放戦線を発足。
これがいわゆるベトコン=ベトナム共産主義野郎。

ベトコンと南ベトナム政府軍の紛争が勃発


1963年11月1日未明
ベトナム共和国の軍事クーデターにより潜伏先の中華街でゴ・ディン・ジエムが暗殺される。
または拘束後処刑とも言われる。

この時のアメリカ大統領はJFケネディ、途中で暗殺され(1963年11月22日)副大統領のジョンソンが大統領になる。
当時のアメリカは徴兵制度のため士気は低く、戦争をしたくない兵士が多かった。


1964年8月2日
・トンキン湾事件
アメリカが北ベトナムの領海に侵入→北ベトナムがアメリカ軍に魚雷を発射、アメリカ軍は北ベトナムを爆撃する(北爆)


きっかけとなった北ベトナムによる2回目の魚雷発射はアメリカ軍の誤解だったと言われる。

1965年2月
北爆を恒久化させベトナム戦争に突入。
ちなみにこの時使われた爆撃機はB52。

この時爆撃を指示したのが東京大空襲の指揮をとったカーチスルメイというアメリカ人「石器時代に後戻りさせてやる」という言葉を残している。

カーチスルメイはのちの日本の航空自衛隊を育成したことで、日本政府から勲章を受けている。

1965年
ベトナム全土でベトナム戦争が勃発。

北ベトナムには中国ロシアから軍事支援物資が供給される。

北ベトナム軍が南のベトナム解放戦線を支援、ラオス、カンボジアなどのルートを使い武器や弾薬を補充。

ジュネーブ協定により北ベトナム・南ベトナムの境の北緯17度は非武装地帯になっていたので、北ベトナムが南ベトナム国内でアメリカに対しゲリラ活動を展開している解放戦線を支援するためには、他のルートを使う必要があった。
これをホーチミンルートという。

アメリカ軍はホーチミンルートを叩くためラオスやカンボジアのルートにも爆撃。
しかし完全にルートを断つことはできなかった。

1968年1月30日
テト攻勢で一時的にアメリカ大使館を占拠、のちアメリカや世界中でその状況が放映され勝利を確信していたアメリカ市民の不安を煽りアメリカへの反戦運動が加速。

※テト攻勢とは
テトはベトナムの旧正月で、この日はお互い休戦するという暗黙の了解だったが入念に準備した北ベトナム軍(と南ベトナム解放軍)がこの日に一斉攻撃を行った。

1968年3月16日
ソンミ村大量虐殺事件
南ベトナム解放戦線の兵士は日中は農作業をして、夜中にアメリカ軍を襲撃していたため、アメリカ軍は農民との区別がつかず混乱、ベトナム人の無差別虐殺へとつながる。

これには南ベトナム人が怒りアメリカを憎む解放戦線を支援。

アメリカが南ベトナム政府への支援を打ち切り、南ベトナム政府内でのクーデターが起きる。


1975年
アメリカがベトナムから撤退、実質北ベトナムがベトナムを統一。
ベトナム戦争終結

サイゴンがホーチミンシティとなる。



と、ここまでがベトナム戦争の流れです。
全然さらっとじゃなかったですけど、我ながらよくまとめたと思いますよはい(❛ω❛)

次回は証跡博物館の中をさらにご紹介します。
更新早めにしますすいません(´・ω・`)


'18ベトナム旅12へ続く



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