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拾い読み★2017-293≪コラム記事≫

2017年10月20日 21時44分39秒 | マリーンズ2017

ロッテ・井口、引退惜別インタビュー
誰よりも野球を愛した21年間――


 誰よりもファンに真摯であり、誰よりも野球が大好き。偉大な足跡を残した井口資仁が、ついにバットを置いた。直後に千葉ロッテの新監督就任が発表されたが、指揮官としての新たな挑戦の前に、ここでは選手時代の21年間の思い出を振り返ってもらう。


昨年オフには引退を伝える

 6月20日の引退表明から3カ月。井口がついに現役引退の日を迎えた。ファンに真摯であるがゆえの引退表明は、大きな声援という形で報われる。この3カ月は、21年のキャリアを誇る井口にとっても、新たな経験を得ることができた日々だった。


 引退を球団に伝えたのは昨年のオフで、表明はあのタイミングになりましたが、自分の中ではずいぶん前から2017年シーズンを最後にしようと思っていました。ボロボロになるまでやり続けるという選択肢もありますけど、動ける間にやめたいという思いがあったし、選手以外の次のステップに進まなければいけないと考えていましたから。

 自分としては突然、引退を表明して、残り1、2試合で終わりというのは、これまで応援してくれたファンに対して失礼だという思いがありました。1試合でも多く自分のプレーを見てもらいたい、地方の方にも来てもらいたい。実際、引退を表明したあとは、それまで以上に大きな声援をもらって、やりがいになりましたね。

 最後にヤフオクドームへ行ったとき(8月27日)にはグッとくるものがありました。相手の先発が復帰戦の和田(毅)だったことも巡り合わせを感じましたし、ファンの歓声もびっくりするくらい大きくて。試合後には選手、コーチが並んでセレモニーのようなこともしていただき、ありがたかったですね。8年間やらせてもらって、育ててもらった場所ですし、一番ホームランを打っている球場。でも、「なんで今は(テラスが付いて)こんなに狭いんだ。当時からこの広さなら40本くらい打てたな」なんて思ったりもしましたけど(笑)。

 引退試合までの1カ月はロッテ浦和球場(2軍本拠地)でバットを振り込んでいました。若手にもっと頑張ってほしい、チャンスを与えてあげたいという思いもありましたね。若手が先発で出ても、5、6回で代打を送られてしまったりする。それでは若手に責任感は生まれないし、最後は井口、福浦(和也)みたいになっていたので、それではいけないなと。個人的にも2軍というのはプロに入ってからの1、2年しか経験していなかったので、今のファームではどんな練習をしているのか、1軍で結果が出ていない選手や若手がどういう思いで取り組んでいるのか。そんな話をしながら、若い選手たちと同じメニューをこなすことができたのはすごくいい経験になりました。今後に生きる1カ月になったと思います。

 引退試合はマリンフェスタで本来なら青ユニフォームの予定だったのですが、球団が選んでいいと言ってくれたので、ピンストライプにしてもらいました。やっぱりマリーンズと言えばタテジマですから。ただ、みんなが背番号「6」を着けてくれたのはサプライズでしたね。メジャーではジャッキー・ロビンソン・デーなどで全員が同じ背番号を着けることがありますが、日本でもこんなことができるんだって。試合前は「次は誰が6に似合うかな」なんて話をしていました(その後、監督としても背番号6に)。

 最初にこのチームで「6」を背負うことになったときは、重い背番号だと思っていました。僕にとってロッテの6番は、やはり落合さん(博満)さんのイメージがすごく強い。マリーンズと言えば、ミスター・ロッテの8番か、6番。そういう番号を着けさせてもらったという思いがずっとありました。


最後のホームランは「昔のような感覚」

 自らの手で、自らの引退の花道を華やかに彩った。9月24日、ZOZOマリンでの引退試合(北海道日本ハム戦)。2点を追う9回裏、無死一塁で大音量の「ホームラン」コールに迎えられて打席に立った井口資仁は、増井浩俊の4球目、149キロのストレートを捉えた。ボールはセンターバックスクリーン右へ飛び込む同点2ランに。延長12回の劇的なサヨナラ勝利を呼び込んだ。


 浦和でいい“キャンプ”を送ることができたので、打撃の感覚は上向いていたのですが、1カ月も実戦から離れていたのは不安材料でした。でも、第1打席でレフト前にヒットを打つことができたので不安はなくなった。「当たるものだな」と思いましたね(笑)。「右方向に大きい打球が打てるように」ということはずっと口に出していたので、そこからはファンの方も「ホームラン」コールを送ってくれました。

 6回の打席から逆算すると、最後は9回のツーアウトで回ってくる順番だった。「最後のバッターになるのはさすがにまずいね」なんて話をベンチでしていたら、9回に清田(育宏)がヒットを打ってくれて。今度は後ろの(中村)奨吾と「ゲッツーもまずいね」なんて言いながら打席に入りました。「うまくつなげたらいいな」くらいの感じだったんですけど、打った瞬間はこの何年かなかったような手応えで。ボールをうまく押し込めたというか、昔のような感覚でしたね。今年は右方向の打球が失速していたので「捕られるかな、でも感覚はよかったから(フェンスを)越えてくれるかな」と思いながら走っていました。

 右方向への打球は昔から自分の持ち味でした。青学大時代もそうですけど、小中高のころから右方向に大きいのを飛ばしていたので、自分の持ち味は自分で分かっていた。でもプロに入って、「ボールを強くたたかなければいけない、ホームランの期待に応えなければいけない」と思って自分のバッティングを崩してしまったこともあります。この1、2年は試合に出る機会も少なくなり、代打で結果を欲しがるような打撃になることもあった。求められる役割が変わる中で、打撃のスタイルも変わりつつありました。

 でも、最後は右方向への強い打球という自分のスタイルで打ちたいと思ったし、浦和で1カ月やってきたことがそのまま、それ以上のものを出すことができた。「やっぱりダメだったな」って思われるよりは、「まだできる」って言われながらやめたかったので、ちゃんと打てて終われたのは良かったですね。


記憶に刻まれる3つの試合

 長きにわたったプロ生活の中で、数々の思い出が刻まれてきた。常勝を誇ったダイエーでの切磋琢磨の8年、夢を追いかけたメジャーでの4年、バットを置くまでのロッテでの9年――。21年間もプレーを続けられたのは、「誰よりも野球が好き」だったから。そして、井口の野球の楽しみ方と経験は、来季からの監督という新たな挑戦においても、大きな糧となるだろう。


 ダイエーで8年、メジャーで4年、ロッテで9年。いろいろな思い出があります。ダイエー時代は今思い返しても本当にすごいメンバーでした。チーム内の競争がすごかったし、その中で成長できたのは大きかったです。「うまくなりたい」という気持ちがみんな強かった。バッティングケージやマシンの取り合いでしたから。右打者で言えば城島健司とかと互いに数字を設定して競っていた。その結果として、終わってみたらみんながすごい数字になっている。自分の数字で言えば3割4分を打った03年はキャリアハイに近いかもしれませんが、自分ではホームラン30本に3本足りなかったという印象です。常に30−30やトリプルスリーという目標がありましたから。

 2001年には盗塁王になってホームランも30本打ちましたけど、打率が2割6分1厘。それまでの4年間は全然結果を残せず、プロに通用する自分のバッティングを探している段階でした。でも、セカンドにコンバートされて、体のバランスが良くなりバッティングにもいい影響が生まれた。走るほうでも当時の島田誠コーチと「まずは30走ろう」という話をして、そこから増やしていってこの数字(44盗塁)になった。別に走らなくても誰かに何かを言われるわけではないのですが、自分の中でも野球観として「足を使わないと勝てない」というのがあるし、当時の自分としても足を使わなければ選手としてやっていけないと感じていました。自分にとって一つのターニングポイントとなった年ですね。

 メジャーでの経験は本当にいろいろと勉強になりました。まずは何より、みんなすごくハングリー。キャンプに行くと100人くらい選手がいて、「こんなにいるのか!」と思ったのに、気付けばあっという間に選手の数が減っている。それでも自分のスタイルを変えることなく、守備でも打撃でも準備していったものがしっかり出せたかなと思います。

 打撃については入団前から2番でということを言われていましたけど、バントが多いわけではないし、右打ちは自分のスタイルでもある。守備についても、向こうの天然芝はすごくきれいなのでイレギュラーは少ないし、前に出なければいけないというのもしっかり準備して行きましたから。日本人でメジャーに挑戦したほかの内野手たちは、サードやショートでトライしながらセカンドを守らされたりしましたけど、僕は最初からセカンドでトライできたのは大きかったかもしれません。そこでしっかりとレギュラーが取れたので、自分で言うのもおかしいですが、セカンドとして一人前になれていたのかもしれません。

 ホワイトソックスでは1年目から世界一になることができました。でもポストシーズンは本当に長かった。いつまで試合するんだっていうくらい、1カ月が果てしなく長かったですね。ヒューストンで優勝を決めたときも、「とにかく寒い」ということと「やっと終わった」っていう感じでしたから(笑)。でも、シカゴに戻って優勝パレードをやったら200万人くらいのファンが集まった。あの規模感は日本では味わえない。メジャーのスケールの大きさというのをあらためて感じました。

 日本に帰ってきて、ロッテでは2010年に日本一になり、13年には(日米通算)2000安打を打つこともできました。ただ、21年間のプロ生活を振り返ってみると、もちろんチャンピオンになった日も思い出深いのですが、本当に心に残っている試合は自分にとっての節目の日。3つ挙げるなら、1つはホークスでのデビュー戦。満塁ホームランを打ったということよりも、ケガで1カ月出遅れていたので、とにかく同期に遅れを取りたくないと思いながらのプロ21年間のスタートでした。

 2つ目はメジャーでの最初の試合。夢を追いかけてアメリカに行って、やっとフィールドに立てた。すると球場にでかいアメリカ国旗があって、戦闘機は飛んでくるし、「やっぱり違うな。これがメジャーか」と感じたのを覚えています。最後はやはり引退試合ですね。入団したときからいた選手でもないのに、しっかり引退セレモニーをしてもらって、球団には本当に感謝しています。

 この歳まで現役を続けてこられたのは本当に幸せなことだし、誰よりも野球が好きだからここまでやることができました。今でも「こうやったら、もっとこうできるんじゃないか」と考えたります。それに野球の面白いところは、試合を見ている誰もが監督になれるし、いろいろな見方ができるところ。だから楽しい。僕もベンチで「自分だったらこうするな」とか考えながら見ていたし、自分のチームや相手のチームが動いたら「ここでこうやって動くんだ」とか勉強になることもたくさんありました。ファンも含めて、そういった野球に対する考え方や見方は人それぞれ違う。だから楽しいんだと思います。

 21年間、福岡と千葉のファンをはじめ、多くの方にたくさんの声援を送っていただき、本当にありがとうございました。これからはまた違った形で、しっかりと恩返しがしていけたらいいなと思います。


(取材・構成=杉浦多夢)

(週刊ベースボール)

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