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拾い読み★2012-362≪コラム記事≫

2012年12月27日 20時18分28秒 | マリーンズ2011~15
【夢の扉】ロッテD3・田村、兄弟の“絆”胸に



 第7回はロッテのドラフト3位、田村龍弘捕手(18)=光星学院高=を特集します。3人兄弟の末っ子として生まれ、中学卒業後に大阪から青森の強豪校に越境入学。1年秋の東北大会で1試合3本塁打を放つなど、頭角を現し、2年夏から3季連続で甲子園準優勝の立役者になった。そんなヒーローも実は、高校入学後1カ月で挫折を味わい、退部寸前まで追い込まれた。苦境を乗り越えた背景には兄弟の“絆”があった。
 強打の捕手としてプロの門をたたいた田村。瞳を輝かせる表情からは兄への感謝の思いが、にじみ出た。
 「兄貴たちを見習ったように、ロッテの皆さんのいいところを吸収して頑張っていきたいです」
 大阪出身の3兄弟の末っ子。小学2年のとき、長兄・将太さん(21)、次兄・直樹さん(19)の影響で野球を始めた。“努力家の長男”、“センスの次男”がお手本だった。母・多津代さん(43)いわく「中学のとき、周りから吉本(興業)でもいいんじゃない、といわれたぐらいでした」と性格も明るく人気者だった。
 兄の背中を無邪気に追ってきた末っ子だったが、高校の進路で“決断”のときが来た。「僕は(そうそう帰れない)遠いところに行って野球をやると決めたんです。根性もつけたかった」。地元・大阪の高校からの誘いを断り、青森に越境入学することを決めた。
 尊敬する兄2人は大阪で野球の強豪校に進んだが、野球をやめ、学校も中退した。「ショックでした。何より親が悲しんで…。(自分は)親に迷惑をかけたくないと…」。あえて家族から離れることで、自らへの甘えを断った。
 だが、そこは高校1年生。入学後1カ月で野球部の監督に退部を申し出た。親には「帰って仕事する」と連絡した。「(周囲と)会話がなかったりするのは、本当にキツくて。息抜きする場所がなかった」。練習はもちろん、厳しい上下関係にもなじめなかった。
 そんなとき、長兄から電話がかかってきた。「やめるん? やめんなよ! 期待しているのにもったいない」。涙声の兄の言葉に「泣いてくれたんです。あれは忘れられない」と振り返る。その後、次兄からも連絡を受けた。自らの反省、後悔の念を口にする兄2人の思いは、痛いほど心に響いた。
 それからは頑張れた。辛いときは、中学の友達がくれた手紙も読み返した。「プロに行ってな」。励ましの言葉を力に、1年秋の東北大会では1試合3本塁打の離れ業。チームからの信頼を得ていった。
 「青森で精神的にも成長したと思います。誰からも愛される選手になってほしいです」とは多津代さん。青森から夢の扉を開いた田村が、千葉でたくましくなっていく。 (箱崎宏子)

★田村の近況
 10月の岐阜国体・準々決勝で、春夏の甲子園大会決勝で敗れた大阪桐蔭高と対戦。2-4で負けたが、高校最後の打席(九回裏)で阪神D1位・藤浪から二塁打を放った。今後は来年1月3日、所属したボーイズリーグ・狭山ボーイズの初練習に参加し、6日に阪神D2位・北條とともに同ボーイズ主催の壮行会に出席する。その後、ロッテの寮に入り、10日から新人合同自主トレに参加する。

田村 龍弘(たむら・たつひろ)
 1994(平成6)年5月13日、大阪府出身、18歳。小学2年時に野球を始め、狭山三中ではオール狭山ボーイズに所属。3年時に世界少年野球大会出場。光星学院高では1年春からベンチ入りし、2年秋からは主将を務めた。甲子園には2年春から4季連続で出場し、3度の準優勝に貢献。今秋のドラフトでロッテから3位指名され、契約金5000万円、年俸600万円で契約した。1メートル74、77キロ。右投げ右打ち。
(サンスポ)
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