野球への情熱を燃やし続ける 2000年ロッテ同期入団の2投手
15年前にロッテ入りした2人の投手が今オフ、投手コーチに就任した。といってもNPBの話ではない。社会人野球の新日鉄住金かずさマジックに“復帰”した下手投げの渡辺俊介と、BCリーグ・福島入りした左腕・加藤康介だ。
年齢は渡辺俊の方が2歳上だが、2人は00年ドラフトで入団した同期。新日鉄住金かずさマジックの前身、新日鉄君津からドラフト4位で入団した渡辺俊は、1、2年目は苦しんだが、3年目に9勝を挙げて頭角を現した。05、10年の2度の日本一にも貢献。プロ入り前のシドニー五輪や、WBCでも2度代表入りするなど国際大会でも活躍した。13年に退団後、渡米。メジャー入りの夢こそ叶わなかったが、独立リーグで2年間過ごし、貴重な経験を積み日本に帰ってきた。
頭のいい投手だった。記憶力が抜群で、新聞記者の名前と顔などは一発で覚えていた。ポーカーフェースだったマウンド同様、酒席でも崩れることなく冷静で、相手のグラスの中身の減り具合なども常に気にしていた。確か、01年に初勝利を挙げた後、中洲で祝杯を挙げたが「これからが大事なんです」と自分に言い聞かせるように、繰り返し話していたのが印象的だ。
一方、日大からドラフト2位(逆指名)で入団した加藤は、渡辺俊とは違い1年目から開幕ローテーション入り。2度目の先発となった4月3日の近鉄戦(大阪ドーム)でプロ初勝利を挙げると、その後も白星を重ね9勝をマーク。2年目も11勝した。だが3年目以降はケガに泣かされ、4年間でわずか4勝。07年の開幕直後にオリックスに金銭トレードで出され、横浜(現DeNA)、阪神と渡り歩いた。それでも阪神時代の13年には61試合に登板するなど、しぶとく投げ続けた。
こちらは集中すると周りのことが目に入らなくなるタイプ。新人の頃はブルペンで自分の世界に入り込み、100球でも200球でも投げていた。はにかみ屋で口下手だったが、酒が入ると人が変わったように話し出すところが面白かった。
00年に入団した投手は、もうNPBには誰もいなくなった。だが、2人は現役を引退したわけではない。ともに兼任コーチだという。来季でプロ入りから16年目。同期入団後、対照的な道を歩んだ2人が、若手にどのような言葉を紡ぎ、生き様を背中で語るのか。一度、その姿を見てみたい。
(スポニチ)
2015年は2選手が達成 来季2000安打到達の可能性がある選手は?
今年は中日・和田、楽天・松井稼が到達
ソフトバンクの日本一連覇で幕を閉じた2015年シーズンは西武・秋山翔吾のシーズン最多216安打やヤクルト山田哲人、ホークス柳田悠岐のトリプルスリー同時達成など多くの見どころがあった年でもあった。
今年は名球界入りの資格の一つとなる2000安打を達成した選手も2人出た。
偉業まで残り15本でシーズンを迎えた中日・和田一浩は6月11日のロッテ戦で初回に先制の2点タイムリー、2回の第2打席でレフト前ヒットを放ち、史上45人目となる2000安打を達成。ヒーローインタビューで「まさかこの数字に到達できるとはプロに入ったころは思っていなかったので、よくここまでこれたと思っています」と感慨深げに振り返った。和田は最終的に2050本まで安打を積み上げ、43歳で現役を退いた。
一方、楽天・松井稼頭央は残り80本でシーズンに入り、7月28日のソフトバンク戦の第1打席でセンター前に弾き返し、史上46人目の偉業を達成。「あくまで2000という数字は通過点なので、これからもその数字を伸ばしていきたい」と話した。今季を終えて2034本、日米通算では2649本に安打数を伸ばしている。
最も近いのは広島新井の残り29本、ロッテ福浦&中日荒木は…
そして2016年も節目の記録に到達する可能性がある選手たちがいる。最も近いのは広島の新井貴浩だ。今季終了時点で1971安打で2000安打まで残り29本。阪神から広島に復帰した今季は117本のヒットを放っており、コンディション等が万全ならば来季の達成は確実と言っていいだろう。
続いて数字上で近いのはロッテの福浦和也。1912安打で残り88本に迫っている。ただ主に代打として起用されている40歳はここ4年で50安打以上を記録した年がなく、来季中の達成は厳しいかもしれない。
次いで近いのは中日・荒木雅博の1890安打で残り110本。ただ、今季は97試合の出場にとどまり、53安打で終わった。亀澤恭平が台頭する中、出番が減少したことも影響。プロ21年目を迎える来季、再びレギュラーに定着できなければ、あと1シーズン内での達成は厳しくなる。また巨人の阿部慎之助も1813安打まできているが、再来年の到達が現実的なところだろう。
2000安打への到達は険しい道のり。今季、オリックスの谷佳知は1928本、巨人の井端弘和は1912本まで安打数を積み上げながら現役を退いた。果たして2016年はどの選手が節目の記録を達成するのか。各選手の偉業への挑戦にも注目したい。
【了】
(フルカウント編集部●文 text by Full-Count)
今江敏晃「楽天に行ってもロッテのガムは噛み続けます」
事実上の”移籍宣言”だったFA宣言を終えた、ある日の練習。今江敏晃がグラウンドに出ると、いつも今江を熱心に応援してくれているマリーンズファンの姿が目に入った。
「いつも応援してくれていたのに、ごめんね」
今江がファンに詫びると、思いがけない言葉が返ってきた。
「なんで謝るの? 私たちは別にロッテだからじゃなくて、今江選手を応援していたんだから。謝らないでくださいよ!」
11月22日に行なわれたロッテのファン感謝デーでも、今江を待っていたのはマリーンズファンからの励ましの声だった。
「ファンの方から『どこへ行っても応援しているよ』と言われて、ものすごくうれしかったですね。もちろん、なかには『なんで行っちゃうんですか?』という声もあったんですけど、そう思ってもらえること自体が、ありがたいことですからね」
そして今江は冗談めかして、こう続けた。
「今はもう、『ロッテ戦では打たないでね』とよく言われます」
PL学園を卒業して以来、14年間所属した球団を離れ、2016年から東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍することになった今江敏晃。日頃からマリーンズへの愛着を公言していた今江のFA宣言は、多くのファンの動揺を誘ったに違いない。
「人生でもこれ以上に悩んだことはないというくらいに悩みました。今までのすべての悩みが小さいと思えるくらいに……」
11月10日、今江はFA権の行使を宣言。ロッテはFA宣言をした上での残留を認めていないため、事実上の移籍表明となる。今江は会見中に涙を流した。
その17日後、楽天球団が今江と契約合意に達したことを発表した。契約の決め手になったのは金銭ではなかった。
「立花(陽三)球団社長からは『絶対に必要な戦力』と言っていただいて、星野(仙一)さんからは『ぜひ来てほしい』と。それは自分が一番欲していた言葉でした。野球選手として必要とされるということは、本当にうれしいことですから」
移籍を決断する経緯について多くを語らない今江だが、裏を返せば「一番欲していた言葉」をロッテからはもらえなかったということなのだろう。そのことを聞くと、今江は苦笑を浮かべて「ご想像にお任せします」と言葉を濁した。
FA権を行使するか否か、悩みを深める前の10月26日、今江はある会合に出席している。それは2005年のロッテ日本一にかかわった者たちによる「同窓会」だったという。当時監督を務めたボビー・バレンタイン氏も来日し、多くのV戦士たちが旧交を温めた。また、10月26日は10年前にロッテが日本一に輝いた日でもあった。
「なんだか落ち着きましたね(笑)。僕は一番年下と言ってもいいくらいなので、当時は何も考えずに、失うものはない……ぐらいの感じでやっていたので。それを先輩方がサポートしてくれて、すごく頼もしかったし、居心地がよかったです」
2005年は今江が初めて年間通してレギュラーに定着した年でもある。不振に悩んでいるときはバレンタイン監督がすっと現れ、「お前はいい選手なんだから、自信を持ってやれ。それ以上に言うことはないんだ」と声を掛けてくれた。
日本シリーズでは8打席連続安打の新記録を樹立して、MVPを獲得。2010年の日本シリーズでもMVPを受賞したが、今江にとって2005年がマリーンズ時代で最も思い出深い年だったという。
「ロッテというチームは基本的に規則もあまり厳しくなく、自由に楽しくやろうという雰囲気があって、それがいいところだったのかもしれませんね」
チームを去ることになってもマリーンズへの愛情を隠さない今江だが、すでに思いは東北の地に向いている。12月9日の入団会見の直後には、250人の楽天ファンの前で「入団報告会」を行なった。これは今江の入団を受けて、急遽決まったイベントだった。
「球団のいろんな方から『来てくれてうれしい』と言ってもらえたんですけど、それが交渉の場だけのうわべの言葉じゃないんです。球団も若い人が多くて気さくに接してくれて、すごく楽しいです」
入団報告会では、PL学園の先輩である松井稼頭央からのビデオレターも上映された。入団会見で「新たな歴史の1ページをつくりたい」と抱負を語った今江の言葉を受ける形で、松井は「1ページ目は僕らがもうつくったので、一緒に2ページ目をつくりましょう」と機転の利いたメッセージを送った。場内は楽天ファンの大爆笑に包まれ、今江は「さすが稼頭央さんです。僕は2ページ目をつくります」と破顔一笑した。
もともと東北には縁もあった。2011年の東日本大震災発生以来、毎年、福島県いわき市を慰問するなど支援を続けていた。その社会貢献活動が評価されて、11月にはゴールデンスピリット賞を受賞している。
「震災が起きたとき、僕は埼玉にいたんですけど、関東にいてあの衝撃でしたから……。ひとりの人間として、あの日の東北の光景は忘れられないし、忘れちゃいけないと思っています。東北という地に何かできることはないかと常に思っていましたし、今回の楽天への移籍というのも、何か縁がつながっているのかなと感じます」
これから迎える2016年、今江に求められる役割は、2015年のチーム打率.241(リーグ最低)に終わった打線の底上げになる。
しかし、これまで年間打率3割以上を4度も記録している今江だが、一方で2割5分前後の低打率に終わる年も多々ある。このムラの激しさがアベレージヒッターとしての今江の評価を落としている感は否めない。今江にその原因について聞くと、「それが見えていたら、こんなことは起きていないですよ」と笑いながらも、自己分析をしてくれた。
「自分で言うのもなんですけど、良くも悪くも器用なのが問題なんだと思います。たとえば1試合のなかで4打席あったら、そのときのピッチャーに応じて打ち方を変えますし、それで対応できてしまうので、ガチッとした自分の形というものがつくれない。バットもシーズン中に何種類も使いますし、ひとつのことを貫こうというのは僕には無理だと思うんですよ。和田さん(一浩/元中日)やガッツさん(小笠原道大/元中日)みたいに常に同じ打ち方ができればいいんですけど、僕にはそれができない。そこは僕の長所でもあり、短所でもあると思います」
2005年に打率.310をマークしてブレークした今江は、続く2006、2007年は2割5分前後と低迷した。2008年には高橋慶彦コーチ(来季よりオリックスコーチ)のアドバイスを受けて、スタンスを極端に広げるフォームに変更すると、打率.309と活躍。「今までよりもボールを下から見る感覚を得て、突っ込むことがなくなった」と手応えを得たが、翌2009年は打率.247と再び下降。以降も今江は絶えず細かな変化を繰り返している。
2015年は死球を受けて左手を骨折した影響もあり、98試合の出場にとどまった。気がかりなのは、打率は.287とまずまずの成績だったものの、本塁打がわずか1本だったことだ。
「今年は結果を欲しがって、手でパチンと打ちにいくような打ち方でした。でも来年はしっかり振ろうと練習していて、ここまでは近年にないくらい手応えをつかんでいます。かなりいい方向に行っているんじゃないかな」
一年一年、そして一日一日、変化を続ける今江敏晃。そして今度は環境が大きく変わる2016年に、果たしてどんな変化を見せてくれるのだろうか。興味は尽きない。
一方で、変わらないこともある。今江といえば、試合中にチューインガムをふくらませているシーンを記憶しているファンも多いことだろう。この習慣は楽天移籍後も継続するという。
「僕は攻撃中と守備中に1イニングで2枚ガムを噛むので、1試合で最低18枚はガムを噛んでいるんです。試合中に風船をふくらませて、パチパチ割ることでリラックスできるんですよ」
もはや一種のルーティンと化したガム。今江は楽天に移籍しても、これまでと同じように「ロッテ社製」のガムを噛み続けるという。
菊地高弘●文
(Sportiva)
15年前にロッテ入りした2人の投手が今オフ、投手コーチに就任した。といってもNPBの話ではない。社会人野球の新日鉄住金かずさマジックに“復帰”した下手投げの渡辺俊介と、BCリーグ・福島入りした左腕・加藤康介だ。
年齢は渡辺俊の方が2歳上だが、2人は00年ドラフトで入団した同期。新日鉄住金かずさマジックの前身、新日鉄君津からドラフト4位で入団した渡辺俊は、1、2年目は苦しんだが、3年目に9勝を挙げて頭角を現した。05、10年の2度の日本一にも貢献。プロ入り前のシドニー五輪や、WBCでも2度代表入りするなど国際大会でも活躍した。13年に退団後、渡米。メジャー入りの夢こそ叶わなかったが、独立リーグで2年間過ごし、貴重な経験を積み日本に帰ってきた。
頭のいい投手だった。記憶力が抜群で、新聞記者の名前と顔などは一発で覚えていた。ポーカーフェースだったマウンド同様、酒席でも崩れることなく冷静で、相手のグラスの中身の減り具合なども常に気にしていた。確か、01年に初勝利を挙げた後、中洲で祝杯を挙げたが「これからが大事なんです」と自分に言い聞かせるように、繰り返し話していたのが印象的だ。
一方、日大からドラフト2位(逆指名)で入団した加藤は、渡辺俊とは違い1年目から開幕ローテーション入り。2度目の先発となった4月3日の近鉄戦(大阪ドーム)でプロ初勝利を挙げると、その後も白星を重ね9勝をマーク。2年目も11勝した。だが3年目以降はケガに泣かされ、4年間でわずか4勝。07年の開幕直後にオリックスに金銭トレードで出され、横浜(現DeNA)、阪神と渡り歩いた。それでも阪神時代の13年には61試合に登板するなど、しぶとく投げ続けた。
こちらは集中すると周りのことが目に入らなくなるタイプ。新人の頃はブルペンで自分の世界に入り込み、100球でも200球でも投げていた。はにかみ屋で口下手だったが、酒が入ると人が変わったように話し出すところが面白かった。
00年に入団した投手は、もうNPBには誰もいなくなった。だが、2人は現役を引退したわけではない。ともに兼任コーチだという。来季でプロ入りから16年目。同期入団後、対照的な道を歩んだ2人が、若手にどのような言葉を紡ぎ、生き様を背中で語るのか。一度、その姿を見てみたい。
(スポニチ)
2015年は2選手が達成 来季2000安打到達の可能性がある選手は?
今年は中日・和田、楽天・松井稼が到達
ソフトバンクの日本一連覇で幕を閉じた2015年シーズンは西武・秋山翔吾のシーズン最多216安打やヤクルト山田哲人、ホークス柳田悠岐のトリプルスリー同時達成など多くの見どころがあった年でもあった。
今年は名球界入りの資格の一つとなる2000安打を達成した選手も2人出た。
偉業まで残り15本でシーズンを迎えた中日・和田一浩は6月11日のロッテ戦で初回に先制の2点タイムリー、2回の第2打席でレフト前ヒットを放ち、史上45人目となる2000安打を達成。ヒーローインタビューで「まさかこの数字に到達できるとはプロに入ったころは思っていなかったので、よくここまでこれたと思っています」と感慨深げに振り返った。和田は最終的に2050本まで安打を積み上げ、43歳で現役を退いた。
一方、楽天・松井稼頭央は残り80本でシーズンに入り、7月28日のソフトバンク戦の第1打席でセンター前に弾き返し、史上46人目の偉業を達成。「あくまで2000という数字は通過点なので、これからもその数字を伸ばしていきたい」と話した。今季を終えて2034本、日米通算では2649本に安打数を伸ばしている。
最も近いのは広島新井の残り29本、ロッテ福浦&中日荒木は…
そして2016年も節目の記録に到達する可能性がある選手たちがいる。最も近いのは広島の新井貴浩だ。今季終了時点で1971安打で2000安打まで残り29本。阪神から広島に復帰した今季は117本のヒットを放っており、コンディション等が万全ならば来季の達成は確実と言っていいだろう。
続いて数字上で近いのはロッテの福浦和也。1912安打で残り88本に迫っている。ただ主に代打として起用されている40歳はここ4年で50安打以上を記録した年がなく、来季中の達成は厳しいかもしれない。
次いで近いのは中日・荒木雅博の1890安打で残り110本。ただ、今季は97試合の出場にとどまり、53安打で終わった。亀澤恭平が台頭する中、出番が減少したことも影響。プロ21年目を迎える来季、再びレギュラーに定着できなければ、あと1シーズン内での達成は厳しくなる。また巨人の阿部慎之助も1813安打まできているが、再来年の到達が現実的なところだろう。
2000安打への到達は険しい道のり。今季、オリックスの谷佳知は1928本、巨人の井端弘和は1912本まで安打数を積み上げながら現役を退いた。果たして2016年はどの選手が節目の記録を達成するのか。各選手の偉業への挑戦にも注目したい。
【了】
(フルカウント編集部●文 text by Full-Count)
今江敏晃「楽天に行ってもロッテのガムは噛み続けます」
事実上の”移籍宣言”だったFA宣言を終えた、ある日の練習。今江敏晃がグラウンドに出ると、いつも今江を熱心に応援してくれているマリーンズファンの姿が目に入った。
「いつも応援してくれていたのに、ごめんね」
今江がファンに詫びると、思いがけない言葉が返ってきた。
「なんで謝るの? 私たちは別にロッテだからじゃなくて、今江選手を応援していたんだから。謝らないでくださいよ!」
11月22日に行なわれたロッテのファン感謝デーでも、今江を待っていたのはマリーンズファンからの励ましの声だった。
「ファンの方から『どこへ行っても応援しているよ』と言われて、ものすごくうれしかったですね。もちろん、なかには『なんで行っちゃうんですか?』という声もあったんですけど、そう思ってもらえること自体が、ありがたいことですからね」
そして今江は冗談めかして、こう続けた。
「今はもう、『ロッテ戦では打たないでね』とよく言われます」
PL学園を卒業して以来、14年間所属した球団を離れ、2016年から東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍することになった今江敏晃。日頃からマリーンズへの愛着を公言していた今江のFA宣言は、多くのファンの動揺を誘ったに違いない。
「人生でもこれ以上に悩んだことはないというくらいに悩みました。今までのすべての悩みが小さいと思えるくらいに……」
11月10日、今江はFA権の行使を宣言。ロッテはFA宣言をした上での残留を認めていないため、事実上の移籍表明となる。今江は会見中に涙を流した。
その17日後、楽天球団が今江と契約合意に達したことを発表した。契約の決め手になったのは金銭ではなかった。
「立花(陽三)球団社長からは『絶対に必要な戦力』と言っていただいて、星野(仙一)さんからは『ぜひ来てほしい』と。それは自分が一番欲していた言葉でした。野球選手として必要とされるということは、本当にうれしいことですから」
移籍を決断する経緯について多くを語らない今江だが、裏を返せば「一番欲していた言葉」をロッテからはもらえなかったということなのだろう。そのことを聞くと、今江は苦笑を浮かべて「ご想像にお任せします」と言葉を濁した。
FA権を行使するか否か、悩みを深める前の10月26日、今江はある会合に出席している。それは2005年のロッテ日本一にかかわった者たちによる「同窓会」だったという。当時監督を務めたボビー・バレンタイン氏も来日し、多くのV戦士たちが旧交を温めた。また、10月26日は10年前にロッテが日本一に輝いた日でもあった。
「なんだか落ち着きましたね(笑)。僕は一番年下と言ってもいいくらいなので、当時は何も考えずに、失うものはない……ぐらいの感じでやっていたので。それを先輩方がサポートしてくれて、すごく頼もしかったし、居心地がよかったです」
2005年は今江が初めて年間通してレギュラーに定着した年でもある。不振に悩んでいるときはバレンタイン監督がすっと現れ、「お前はいい選手なんだから、自信を持ってやれ。それ以上に言うことはないんだ」と声を掛けてくれた。
日本シリーズでは8打席連続安打の新記録を樹立して、MVPを獲得。2010年の日本シリーズでもMVPを受賞したが、今江にとって2005年がマリーンズ時代で最も思い出深い年だったという。
「ロッテというチームは基本的に規則もあまり厳しくなく、自由に楽しくやろうという雰囲気があって、それがいいところだったのかもしれませんね」
チームを去ることになってもマリーンズへの愛情を隠さない今江だが、すでに思いは東北の地に向いている。12月9日の入団会見の直後には、250人の楽天ファンの前で「入団報告会」を行なった。これは今江の入団を受けて、急遽決まったイベントだった。
「球団のいろんな方から『来てくれてうれしい』と言ってもらえたんですけど、それが交渉の場だけのうわべの言葉じゃないんです。球団も若い人が多くて気さくに接してくれて、すごく楽しいです」
入団報告会では、PL学園の先輩である松井稼頭央からのビデオレターも上映された。入団会見で「新たな歴史の1ページをつくりたい」と抱負を語った今江の言葉を受ける形で、松井は「1ページ目は僕らがもうつくったので、一緒に2ページ目をつくりましょう」と機転の利いたメッセージを送った。場内は楽天ファンの大爆笑に包まれ、今江は「さすが稼頭央さんです。僕は2ページ目をつくります」と破顔一笑した。
もともと東北には縁もあった。2011年の東日本大震災発生以来、毎年、福島県いわき市を慰問するなど支援を続けていた。その社会貢献活動が評価されて、11月にはゴールデンスピリット賞を受賞している。
「震災が起きたとき、僕は埼玉にいたんですけど、関東にいてあの衝撃でしたから……。ひとりの人間として、あの日の東北の光景は忘れられないし、忘れちゃいけないと思っています。東北という地に何かできることはないかと常に思っていましたし、今回の楽天への移籍というのも、何か縁がつながっているのかなと感じます」
これから迎える2016年、今江に求められる役割は、2015年のチーム打率.241(リーグ最低)に終わった打線の底上げになる。
しかし、これまで年間打率3割以上を4度も記録している今江だが、一方で2割5分前後の低打率に終わる年も多々ある。このムラの激しさがアベレージヒッターとしての今江の評価を落としている感は否めない。今江にその原因について聞くと、「それが見えていたら、こんなことは起きていないですよ」と笑いながらも、自己分析をしてくれた。
「自分で言うのもなんですけど、良くも悪くも器用なのが問題なんだと思います。たとえば1試合のなかで4打席あったら、そのときのピッチャーに応じて打ち方を変えますし、それで対応できてしまうので、ガチッとした自分の形というものがつくれない。バットもシーズン中に何種類も使いますし、ひとつのことを貫こうというのは僕には無理だと思うんですよ。和田さん(一浩/元中日)やガッツさん(小笠原道大/元中日)みたいに常に同じ打ち方ができればいいんですけど、僕にはそれができない。そこは僕の長所でもあり、短所でもあると思います」
2005年に打率.310をマークしてブレークした今江は、続く2006、2007年は2割5分前後と低迷した。2008年には高橋慶彦コーチ(来季よりオリックスコーチ)のアドバイスを受けて、スタンスを極端に広げるフォームに変更すると、打率.309と活躍。「今までよりもボールを下から見る感覚を得て、突っ込むことがなくなった」と手応えを得たが、翌2009年は打率.247と再び下降。以降も今江は絶えず細かな変化を繰り返している。
2015年は死球を受けて左手を骨折した影響もあり、98試合の出場にとどまった。気がかりなのは、打率は.287とまずまずの成績だったものの、本塁打がわずか1本だったことだ。
「今年は結果を欲しがって、手でパチンと打ちにいくような打ち方でした。でも来年はしっかり振ろうと練習していて、ここまでは近年にないくらい手応えをつかんでいます。かなりいい方向に行っているんじゃないかな」
一年一年、そして一日一日、変化を続ける今江敏晃。そして今度は環境が大きく変わる2016年に、果たしてどんな変化を見せてくれるのだろうか。興味は尽きない。
一方で、変わらないこともある。今江といえば、試合中にチューインガムをふくらませているシーンを記憶しているファンも多いことだろう。この習慣は楽天移籍後も継続するという。
「僕は攻撃中と守備中に1イニングで2枚ガムを噛むので、1試合で最低18枚はガムを噛んでいるんです。試合中に風船をふくらませて、パチパチ割ることでリラックスできるんですよ」
もはや一種のルーティンと化したガム。今江は楽天に移籍しても、これまでと同じように「ロッテ社製」のガムを噛み続けるという。
菊地高弘●文
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