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コラム備忘録【12/24】

2018年12月24日 19時15分18秒 | マリーンズ2018
≪2018/12/24≫

伝説の「10・19川崎球場」もう一方の主役、有藤氏が語った「あの日」【前編】

リー退団、落合トレード…過渡期を迎え士気が下がったチーム状況

 野球人の情が創出したストーリーだった。1988年10月19日、川崎球場。あの時「球史に残るヒール」と言われたロッテオリオンズには、人間臭さがあった。主役として語られる近鉄サイドからではなく、敵役となった敵将・有藤通世が語った「あの日」。

「こういうと語弊があるかもしれなけど、正直な話、勝っても負けても、ロッテにとっては関係ない試合だったんですよ。順位も決まっていましたからね」

 長い月日が経っても、いまだに記憶が色あせずに甦る1日。それが「10・19川崎決戦」だ。

 シーズン最終試合のダブルヘッダー第2試合、近鉄バファローズ(現オリックス・バファローズ)はロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)と引き分けてシーズン優勝を逃した。30年目となる2018年10月19日には当時を偲び、川崎球場跡地(現富士通スタジアム川崎)にファンが集まり記念イベントも開催されたほどだ。

 80年代はリーグ優勝6回、日本一5回という、まさに西武ライオンズ(現埼玉西武)の黄金時代。毎年のように「どこが西武を止めるのか?」がパ・リーグの大きな命題だった。そんな中、個性派集団、近鉄の躍進はファンから大きな支持を集めた。両チーム関係者のモチベーションの違いは明白で、試合前は「まるで他人事のようだった」と当時のロッテ監督、有藤氏は振り返った。

 80年代のロッテは、Aクラス4回、うち2位が3回の成績を収めており、そこまで悲観する時期でもなかった。そこから長い暗黒期が始まってしまうとは、誰も想像すらしていなかっただろう(05年にクライマックスシリーズで年間1位になるまで、95年の2位を除き全ての年でBクラス)。87年、優勝を期待され監督就任したのが、引退直後の生え抜きスター、有藤だった。

 しかし、チームを支えた大砲レロン・リーの退団、落合博満のトレードと時期が重なり打線が弱体化。有藤監督時代の3年間は万年Bクラス争いをすることとなり、チーム全体の士気が下がっていたのは否定できない。

劣悪な川崎球場の環境、汚いロッカー、カビの生えた用具…

 加えて、本拠地球場に対する大きな不満も大きかった。当時のパ・リーグ本拠地は現在のように恵まれていない球場ばかり。ゴキブリが出没したという近鉄本拠地・日生球場など、多くの話題も振りまいたが、中でもロッテ本拠地・川崎球場はワーストに近かった。

「当時のロッテ戦はご存知の通り、毎試合、ガラガラの状態だった。とにかく環境が悪かったと思うね。川崎も今では駅前なんかも整備されているけど、当時はギャンブルと風俗の街だから。昼間から酔っ払いがいるんだから。球場もひどかったよ。狭いのはもちろんだけど、我々、選手が使うロッカーなども汚かった。湿気もすごくて、遠征に出ていると置いておいた用具にカビが生えていたこともあった。通路なんて大きい選手がすれ違うのがやっとぐらい。まぁ、球場改修をして少しは綺麗になったけど」と有藤氏。

「スタンドも歩いたことがあるけど、トイレや売店の数も少ないし、今の球場からしたら考えられない。狭い分だけグラウンドが近くて見やすいのかもしれないけど、あれではお客さんなんて来ないよ。当時のお客さんの数なんてベンチから数えることもできたし、ほとんど招待券なんじゃないかな。当時は川崎市も協力する姿勢がほとんどなかったらしいしね。あれでよく球団経営なんてできたと思う」と、当時の環境を振り返る。

「あの試合の日も、優勝が決まりそうと言っても相手は関西の近鉄。しかも、西武が有利な状況だったわけだから、そんなにお客さんも来ないんじゃないか、と思っていた。実際、第1試合のプレーボールはいつもより客も多いかな、というくらい。西武ファンが来ていたのもベンチから見えたくらいだからね。気づいたらなんか騒がしいなという感じだったな」

その年、その試合まで近鉄に全敗していたロッテ

 今でも語り継がれる伝説の一戦であるが、第1試合まで普段の試合と変わらなかった。唯一、近鉄の勝敗次第で優勝の行方が左右される可能性があったということ。そして、近鉄ファンが大勢球場へ押しかけて当日券が売り切れになったということが普段との違いだった。それでも、第1試合プレーボールの15時時点では、ここまでの騒ぎになるとは誰も思っていなかった。当時は日本シリーズ常連であった西武ファンが、高みの見物をするのも理解できる状況だったのだ。

 リーグ優勝を左右する勝敗は、試合前から見えているかのような状況であったが、有藤氏には余裕があったという。それは長年の野球人の経験というか、勘のようなものでもあった。

「目の前で優勝されて、川崎球場で胴上げされるのは嫌だった。でも、それに関しては頭になかったというか、まぁそれまでも相手の胴上げは見ているからね。それとは別に、試合のことはどこか楽天的に、簡単に考えていた。なぜかというと、そこまで近鉄がロッテにずっと勝っていた。プロ野球生活を長くやっていると、なんとなくその辺の雰囲気も分かる。シーズンを通じて全ての試合を負けるというのはありえない。だから、そろそろ1つくらいは勝つ頃だろうなって」

 雨天順延の影響もあり、近鉄はシーズン終盤、10月7日から19日の13日間で15試合の強行日程となった。そのうちロッテ戦を9試合残していたが、運命の19日、ダブルヘッダーを迎えるまで1つもロッテに負けなかったのだ。だからこそ、有藤には試合の勝敗以上に気にかかることがあった。選手の個人成績である。

(山岡則夫 / Norio Yamaoka)

山岡則夫 プロフィール
 1972年島根県出身。千葉大学卒業後、アパレル会社勤務などを経て01年にInnings,Co.を設立、雑誌Ballpark Time!を発刊。現在はBallparkレーベルとして様々な書籍、雑誌を企画、製作するほか、多くの雑誌やホームページに寄稿している。最新刊は「岩隈久志のピッチングバイブル」、「躍進する広島カープを支える選手たち」(株式会社舵社)。Ballpark Time!オフィシャルページ(http://www.ballparktime.com)にて取材日記を定期的に更新中。

(フルカウント)

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≪2018/12/24≫

伝説の「10・19川崎球場」もう一方の主役 有藤氏が語った「あの日」【後編】

こだわったタイトル争い「少しでも選手にチャンスを与えないと」

 野球人の情が創出したストーリーだった。1988年10月19日、川崎球場。あの時「球史に残るヒール」と言われたロッテオリオンズには、人間臭さがあった。主役として語られる近鉄サイドからではなく、敵役となった敵将・有藤通世氏が語った「あの日」。

 最下位のチーム成績とは異なり、同年、ロッテ勢にはタイトルホルダーもいた。西村徳文(現オリックス監督)が55個で盗塁王、小川博が204個で奪三振王を獲得。中でもシーズン終盤、首位打者争いの渦中であった高沢秀昭の起用方法に苦心した。タイトルを争った阪急・松永浩美に11打席連続敬遠も行っている。

「試合前はチームの勝敗よりも、個人成績のことが頭にあった。うちにとって大事だったのはタイトルがかかっている選手。そして、来季に向けての契約などもありますから、少しでも選手にチャンスを与えないといけないということ」

 特に有藤氏の思いは、1打席の結果で左右される首位打者争いにあった。

「特に気を使ったのは、やはり高沢の首位打者争い。僕も打者だったから打率の上がり下がりは、嫌というほど経験してきた。少し感覚が鈍っただけで結果が出なくなって、打率は下がる。本塁打や打点と違って、打率は下がるから首位打者というのは本当に難しいんだよ。試合前に頭を悩ませたのは高沢の使い方だけだった。とにかく首位打者を獲らせてやろうと思った」

 第1試合からスタメン出場した高沢だったが、3打席凡退し4打席目に代打交代。試合中に関係者が高沢の打率を計算し、第2試合も出場した上で首位打者を獲得できる状況を優先してのものだった。その試合で最終打者となったのが高沢の交代選手だった、というのにも皮肉だ。そして第2試合では、近鉄優勝の夢を打ち砕いた同点本塁打を放ち、打率.327で首位打者も獲得した。

「本当に頭が真っ白だった。審判に何を言ったのかすら覚えていない」

「牛島には本当に悪いことをした……」

 そしてもう1人、有藤氏の口から出てきた選手名があった、牛島和彦である。87年に24セーブで最優秀救援投手、88年も25セーブで最多セーブ数を記録した球界きってのクローザー。88年はポイント数で近鉄・吉井理人に最優秀救援投手を譲ったが、セーブ数ではリーグトップに立っていた。そのため牛島には、「この日の登板はない」、ということが伝えられていたという。

「牛島は投げさせるつもりもなかったし、本人にも出番はないことを伝えていた。彼自身、毎年たくさん投げていたから、疲労もあるだろうしね。でも、試合展開や球場の雰囲気もああいう風になっていって、僕自身も少し冷静さを失った。やはりそこまで近鉄に負け続けていたのもあったんだろうね。試合前には勝っても負けてもいい、と思っていたけど、逃げきれそうな状況だったので牛島を投げさせることにした。1死からだったし、牛島も当然、気持ちの準備もできてなかったはずだよね」

 同点であれば9回で試合打ち切り引き分け、この時点で西武優勝が決定する。同点で迎えた9回表、1死から二塁打で走者が出た場面でのスクランブル登板だった。そして、牛島は2人目の打者、代打・梨田に勝ち越し適時打を許し、ロッテは敗れた。

 迎えた第2試合。4-4の9回裏、二塁塁上でのタッチプレーをめぐり有藤氏は抗議を行った。この時に試合時間は3時間30分を過ぎていた。「試合開始から4時間を過ぎた場合、次の回には入らない」。当時のレギュレーションで定められていたため、近鉄には時間との戦いもあった。しかし、結果は引き分けに終わり、近鉄優勝がなくなってしまう。

「本当に頭が真っ白だった。審判に何を言ったのかすら覚えていない。もちろん何分、試合時間が残っていて、それを過ぎると次の回へ入れないなんてのもなかった。とにかく判定がおかしい、と思って抗議に出たのまでは覚えている。気が付いたら少し冷静になって、抗議を止めようと思ってベンチに帰り始めていた、そうしたらスタンドからの怒号がすごかった」

意地、誇り、矜持、雰囲気…様々な要因が絡み合い生まれたドラマ

 この抗議は大きくクローズアップされ、優勝の可能性が皆無になったが10回裏を戦わざるをえなかった近鉄選手たちへの同情、そして有藤氏への批判めいたものもあった。しかし、その日の有藤氏の采配、行動は、様々なものが絡み合って偶発的に起こってしまった。野球人の意地、誇り、矜持、球場の雰囲気……そういった、目に見えない多くのものが牛島登板、そして抗議などを作り出してしまったというのは乱暴だろうか。

 当事者の話を聞くほど、理屈やフィクションではない人間臭さが伝わってくる。最高峰のプロの世界とはいえ、究極のシチュエーションで冷静さを保つことは並大抵でない。情や気持ちの変化も戦況に大きく絡んでくるということだ。

 あれから30年が経つ。昭和の名場面は平成をまたいでいく。しかし「10・19」に劣らないほどの勝負、名シーンが、今後も生まれてくるだろう。来るべき19年シーズンの開幕が今から待ち遠しい。

 最後に、有藤通世氏は野球人代表として語ってくれた。

「今の千葉なんて順位が決まった消化試合でも、そこそこお客さんが来てくれる。どこの球場もそう。やっぱり羨ましいよね。人間だから、見ている人がいれば気持ちも高まるよ。だから、どんどん球場に来てほしいし、選手もそれに応えてほしい。選手のさらなる力を発揮させてくれるはずだから」

(山岡則夫 / Norio Yamaoka)

山岡則夫 プロフィール
 1972年島根県出身。千葉大学卒業後、アパレル会社勤務などを経て01年にInnings,Co.を設立、雑誌Ballpark Time!を発刊。現在はBallparkレーベルとして様々な書籍、雑誌を企画、製作するほか、多くの雑誌やホームページに寄稿している。最新刊は「岩隈久志のピッチングバイブル」、「躍進する広島カープを支える選手たち」(株式会社舵社)。Ballpark Time!オフィシャルページ(http://www.ballparktime.com)にて取材日記を定期的に更新中。

(フルカウント)

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≪2018/12/24≫

潜入!ロッテチア新メンバー7人はこうして選ばれた

クリスマス前の真剣勝負だ! ロッテのチアリーダー「M☆SPlash!!」の追加メンバーオーディションの最終審査が23日、千葉・イオンモール幕張新都心で行われ、7人の新メンバーが誕生した。約120人の応募の中から、2度のオーディションを勝ち抜いた33人(1人欠席)が、にぎわう買い物客を魅了。絶対に負けられない女たちの戦いに、入社1年目の久永壮真記者(24)が鼻の下を伸ばすことなく? 潜入した。

あれ…合格者発表時間の午後3時15分になっても、審査員が戻ってこない。受験者の友人や「推し」の子を応援するファンの緊張は頂点に達した。「イブイブ」の甘~い空気などまったくなし。予定を15分オーバーした午後3時30分に7人の合格者が発表された。

目立った存在がいた。受験番号13番のYUUNAだ。レジェンド福浦と同じ習志野高校出身で、3年時にはバトン部で主将。ZOZOマリンのスタンドから声援を送った。小学2年生以来、毎年欠かさず同球場を訪れており大先輩の2000安打を目の前で見た。「外野で応援していたら、目の前に転がってきたんです」。

幕張に運命を感じている。大ファンの有安杏果(元ももクロ)のラストライブの会場も幕張。「福浦さんのように、チアで出来る偉業を達成したいし、有安さんのように小さな巨人と呼ばれるようになりたい」。ファンを沸かせた2人のような活躍を誓う。

ネットで生中継され、投票も可能な中から選ばれた7人。フルオープンでチアを選ぶ球団は珍しい。審査員を務めた梶原球団広報は「合格者は7人と決まっていたが、もっと取りたい子もいて審査が難航した。7人に絞るのは涙の決断だったが、いいドラフトだった」と最終審査を振り返った。選手の活躍同様に、新生「M☆SPlash!!」の姿を楽しみに取材へ通おう。【久永壮真】

◆審査方法 1次は書類審査だけ。2次審査では、規定演技、自由演技、面接の3つが行われた。最終審査ではグループごとに球団応援歌の「WE LOVE MARINES」を踊った後、個人のフリー演技審査。全審査終了後に最終PRを行い、7人が選ばれた。


アイドル、セクシー、パワフル…/ロッテ新チア7人

クリスマス前の真剣勝負だ! ロッテのチアリーダー「M☆SPlash!!」の追加メンバーオーディションの最終審査が23日、千葉・イオンモール幕張新都心で行われ、7人の新メンバーが誕生した。約120人の応募の中から、2度のオーディションを勝ち抜いた33人(1人欠席)が、にぎわう買い物客を魅了。絶対に負けられない女たちの戦いに、入社1年目の久永壮真記者(24)が鼻の下を伸ばすことなく? 潜入した。

<YUUNA>

【梶原広報】アイドル性がある。合格者の中で輝きを放っていた。もう1つ“上”にいく。

【久永記者】元SKE48松井玲奈似。身長が低い分、ハキハキと、大きな声でアピール。ロッテオリオンズのユニホームを着ていてロッテ愛を感じた。

<YUKI>

【梶原広報】身長の低さが“もえた”。小さい中にもパワフルさがあり、力強く感じた。

【久永記者】女優の永野芽郁にも見える容姿。体は小さいがそれを感じさせない大きな動きで目立っていた。あごと目の下のほくろがチャームポイント。

<MOEKO>

【梶原広報】笑った時につぶれて、なくなる目がチャーミング。俺はああいう目は好き。

【久永記者】E-Girlsの鷲尾伶菜似。明るい音楽に合わせて、笑顔で踊る姿が印象的。自身のことを『アメコミに出てきそう』と言うなど明るい性格。

<MINAMI>

【梶原広報】セクシーで大人な雰囲気。長い手足のダイナミックなダンスに魅了された。

【久永記者】168センチと長身で、スタイル抜群。ウエディングプランナーとして3年間働いていたそうで、笑顔がステキ。女優の戸田恵梨香似。

<KANAKO>

【梶原広報】とてもパワフルだった。これこそまさにThis is cheerleader。

【久永記者】女優の杉咲花似の愛くるしさ。バック転などの高難度の演技が印象的。笑うと右側にだけできるえくぼに、思わず吸い込まれそうに。

<KANA>

【梶原広報】長身なのに、軽やかな動きだった。気がついたら魅了されていた感じで。

【久永記者】女優の二階堂ふみ似の容姿。遠くから見ても分かる大きな目で、審査員1人1人の目を見ていたのが印象的。素人から見ても表現力があった。

<HONAMI>

【梶原広報】リズム、スタイル、愛嬌(あいきょう)の3拍子がそろう。チア界の3冠王。

【久永記者】女優の土屋太鳳似の容姿。1回見たら忘れられないような、くっきりとした目鼻立ちが印象に残っている。絶対合格したい熱意を一番感じた。

(以上 日刊)

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