毎日が日曜日・でも多忙です!

おかげさまで、毎日を元気に楽しく過ごしています。普段の出来事、思いつくことなどフリーの立場で記録したいと思います。

朝の作業がまた増えた

2016-05-30 11:14:28 | 日記

 毎日が日曜日となってからは、早寝早起きの習慣が定着した。それに伴い日常生活にも変化が訪れた。

 夜9時にはベットに向かう。朝5時起床。すこし早いがよくしたもので目覚まし時計は必要ない。起きるとすぐに、玄関わきの郵便受けの新聞を取りに行き、時間をかけて角から角までゆっくりと目を通す。6時30分からラジオ体操。1日も欠かさず続いている。体操が終わると朝の散歩。散歩のコースは特に決めていない。時間にして約1時間、距離にして約5㌔から6㌔を歩く。散歩にカメラは欠かせない。散歩の途中で雉とであったこともある。4季それぞれの美しい花々をカメラに収める。しばらく歩くと身体全体が汗ばんでくる。帰ってすぐにシャワーをあびる。雨の降る日の散歩はお断り。NHK朝の連続テレビドラマ「ととねえちゃん」を欠かさず見るのも仕事の一つ。朝の食事はその後になる。

 ところが4月14日午後9時過ぎに起きたとてつもない大地震。その揺れの大きさには驚いた。その怖さといったらたとえようがない。震度7の地震を体験したものでなければその怖さは分かるまい。4月16日深夜、再び震度7の本震が襲った。前々日の余震の揺れどころではない。怖かったより恐ろしかった。時計を見ると大きな揺れは20分くらいは続いた。これまでに経験した過去の地震の揺れる時間はせいぜい秒単位。家具類が倒れ、食器類が棚から落ちてくる。ギシギシと軋む古い木造の我が家、食器などの割れる大きな音で、逃げることも、隠れることもできず、ただただベットにしがみついて揺れの収まるのを待った。

 気象庁の発表では、本震発生に引き続いて、途切れることなく震度5以上の余震が続いたという。本震の揺れ20分と思ったのは、その間に、何回も絶え間ない余震が続いていたということだろう。本震の起きた16日に発生した震度1以上の余震は202回、翌日は138回で、その中には震度6強と6弱がそれぞれ2回、震度5強が1回、5弱が5回含まれている。その後も余震活動は活発で、1日に10回~50数回の余震が引き続いて発生している。

 地震発生から1月半近くたつたいまも、気象庁は「地震活動は全体として減少傾向にある」とする一方で「熊本、阿蘇地方では震度6弱程度、大分県中部では震度5強程度の余震に少なくとも今後1カ月は注意するよう呼びかけている」。テレビ画面の横の青い画面に「熊本地震今後も警戒」と白い文字が出る。この白い文字はいつになったら消えるのだろうか。

   (NHKテレビから)

 テレビから「熊本地震今後も警戒」の白い文字が消える日が1日も早いことを祈っている。

 話はそれたが地震の後、朝目が覚めて最初の仕事に、熊本地方気象台の「地震情報(各地の震度に関する情報)」と「最大震度別地震回数表」を開く作業が加わった。PCを見ながら1日も早い地震の収束を願い、一喜一憂の毎日が続く。因みに前々日は8回、昨日は13回、今日は午前11時までに4回の地震が起きている。いつまでたっても不安の消えない、気の滅入る毎日が続いている。


映画「うつくしいひと」に映る震災前の熊本城

2016-05-27 10:02:54 | 日記

  好い天気に誘われ、毎日のように起きる地震の怖さをひと時でも忘れようと、市内中心街にあるDennkikanに映画を見に夫婦で出かけた。

 上映中の映画は「うつくしいひと」。熊本県出身の映画監督行定勳さんの作品。都市部で活躍中の熊本にゆかりのある俳優さんや著名人が出演している、熊本を舞台にした、現在と過去の思い出が交差していくというノスタルジックなラブストーリー。昨年10月から、熊本城、夏目漱石旧居、江津湖、菊池渓谷、阿蘇の草千里、通潤橋といった熊本の代表的な名所で撮影が行われ、年明けに完成した49分の中編映画。

 出演者は熊本出身の高良健吾さん、ほか橋本愛、石田えりさん。政治学者の姜尚中さんという顔ぶれ。

 4月14日に、ご存じのとおり2回にわたる震度7の熊本地震が発生し、今も活発な余震が続いており、県内各地はもとより大分でも家屋倒壊、土砂崩れなど大きな被害が出ている。

 なかでも熊本県民のシンボルでもある天下の名城熊本城は、周囲の石垣が崩れるなど壊滅的な被害を受けた。以前の優雅で雄大な姿は突然消えてしまった。その復旧には20年ないし30年はかかるという。

          (写真をクリックしてください)

 阿蘇地方でも大規模な土砂崩れがあり、阿蘇大橋が崩落。益城町や熊本市ではたくさんの家屋が倒壊、1万人を超える被災者の方々が今も各地の避難所で不自由な避難生活を送られている。

 熊本城は熊本県民のシンボル。映画「うつくしいひと」は、くしくも、震災前の美しい熊本城の姿を映像に残してくれた。まさに、この映画、被災を受けた熊本でブームとなり、被災者を力気づけてくれた。

 Dennkikanは何回行っても、観客はいつもまばらな小さな映画館、これで経営は成り立つのだろうかと心配するほどだが、この映画「うつくしいひと」は違った。入場料500円の一部が熊本地震の義援金として寄付されるというが、140人ほどの座席は満席だった。立ち見の人もいる。札止めになった日もあった。

 49分の映画はあっという間に終わった。映画のストーリーよりも、むしろ震災前の熊本の美しい風景が、県民の心をとらえたのではあるまいか。


久しぶりに聴く娘のピアノにワインで乾杯

2016-05-25 16:41:19 | 日記

  熊本市現代美術館のホームギャラリーで21日午後5時からピアノを弾くと娘からメールが入った。

  熊本市現代美術館は、熊本市中心市街地の真ん中、最も交通量の多い通町筋と上通りとの交差点、市内唯一のデパート「鶴屋デパート」の向かいに建つ、九州で唯一の「現代」を冠した美術館。ホームギャラリーでは毎日午後5時から30分間、ピアノボランティアによるピアノ演奏が行われている。

 今年五十路を迎えた娘だが、3歳のころからピアノを習っていた。だがあくまでも趣味の範囲内。忙しい仕事の合間を見ては練習に励んでいたようだ。

 熊本市現代美術館が開館したのは平成2年。長崎県の島原から熊本に転勤したばかりの娘が、ピアノボランティアの募集があることを知るとすぐに応募したそうだ。幸いメンバーには登録されたのだが、メンバーのほとんどの方は正規の音大を卒業されている方だと知った。趣味でピアノを弾いているのは娘だけのようだという。

 それからは1月に数回、忙しい仕事の合間を見ては、指定された時間にピアノを弾いてきたそうだ。親ばかかもしれないが、〝うちの奥さま”と一緒に何回か、演奏を聞きに行った。娘が薩摩川内に転勤になってからは、しばらくだが娘のピアノを聞くことができなかった。

 今年4月、薩摩川内市内に勤めていた娘が2年ぶりに熊本に返ってきた。今日のピアノ演奏は熊本に帰ってから最初の指名だったという。

 美術館のホームギャラリーには30数名のかたが、演奏のはじまるのを待っておられた。静かな雰囲気が漂っている。5時になって娘の演奏が始まった。

 久しぶりに聞く娘のピアノ、まったく音痴の私には上手かどうかは分からない。何曲演奏したかも覚えていない。ただ、最初の曲では少しばかり緊張しているようだった。

 30分の演奏は瞬く間だった。演奏が終わったときには大きな拍手を送ろうと待ち構えていたのだが、前に座っていた中年の男性が素早く立ち上がり手をたたいた。先を越されてしまったが、なによりも拍手をいただいことがわがことのように嬉しかった。

 演奏会のあとは、京都で学ぶ孫を除いた我が家の家族全員が、上通りのピザの店「Joulium」でピザを肴にワインで乾杯した。

  

 


「季節の花と出会う」朝の散歩が楽しくなった

2016-05-24 09:51:06 | 日記

 五月晴れの日、気持ちよい青空の広がる朝の散歩。季節の花が待っていたかのように咲いている。赤い小さなザクロの花が咲いているのを見つけた。昨年、この木にはたくさんの大きなザクロの実がついていた。

 4月は花の季節。だが、熊本地震とその余震に取り紛れ、朝の散歩は花の咲いたのも気づかず、ただ通り過ぎるだけに終わっていた。ツツジの花が咲いていたのも、そして散ったのもよくわからなかった。近くの公園でいつも見かけた「なんじゃもんじゃ」の花、今年も咲いていたのだろうかと疑いたくなる。

         (我が家の団地の公園のツツジとなんじゃもんじゃの花・いずれも昨年撮った写真です・写真をクリックしてみてください)

 熊本地震に引き続いての余震は1日に200回を超える日もあったが、昨日あたりからは10数回に減っている。ただ、気象庁が「今後1月程度は震度6弱の地震に注意するよう」と呼び掛けていることから、余震の不安は今も去らない。4月14日の震度7の地震の怖かったことは体験したものでなければわかるまい。怖かった時のことを思い出すと、震度6弱との言葉を聞くだけで震いがくる。

 沖縄、奄美地方ではすでに梅雨入りしていて、九州の梅雨入りももう間近。道路わきに植えられた梅雨の花、紫陽花もたくさんのつぼみをつけている。既に開いた花もある。

    

 八景水谷(ハケミや)公園の蓮池、ピンクの蓮の花が、地震ですさんだ気持ちを引き立ててくれる。坪井川遊水公園のお花畑は白い菖蒲の花が満開だ。昨年ここにはピンクの芝桜がいっぱいだったような気がする。

       

 

 

 


沖縄本土復帰から44年、沖縄の怒りと悲しみをともに

2016-05-21 10:03:08 | 日記

   沖縄の本土復帰から44年を迎える。ことしで39回目を迎えた「5.15平和行進」が、沖縄県名護市を出発点に、13日にスタート。3日間で県外参加者1200名余りを含む延べ約4500人が、〝平和への願い”を込めて歩を進めた。

  昨年5月15日本土復帰の日の地元新聞「琉球新報」の「社説」を思い出した。その一部を転記させていただく。 

 ことしは戦後70年の節目の年である。

 私たち沖縄県民は悲惨な地上戦により住民の4人に1人が犠牲となった。

 戦後27年間は米軍占領統治下に置かれ、日本国憲法は適用されなかった。本土復帰から43年目を迎える今も、米軍基地あるが故の事件や事故に苦しみ続けている。

 米軍基地があるが故の事件や事故」その言葉には、沖縄県民の苦しみと、恐怖と、怒りと、悲しみ、憤りが強く感じられる。

 またしても、沖縄県うるま市の女性会社員が米軍軍属の男に性的暴行を受けたうえ殺され遺棄されるという、おぞましい事件が発生した。許されるべきことではない。人として強い憤りを感じる。

 それにしても〝おきなんちゅう”の苦しみ、恐怖、怒り、悲しみを、〝やまとんちゅう”は遠いところの話と受け止めているのではなかろうか。よそ事ではない。この事件を契機として、沖縄の苦しみと怒り、沖縄の心を知り、一緒になって分かちあう。どうすればよいか一緒になって考えよう。

 沖縄県と政府が対立する辺野古移設問題にしても、沖縄の怒りを共に分かち合うならば、必ず円満な形の解決を見いだすことができると信じるが、いかが。