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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文352

2011-12-29 14:15:00 | 戦争文学
『魚雷艇学生』(島尾敏雄 新潮文庫)

 これもブックオフの¥100コーナーで拾ったもの。久々に大岡昇平の戦記文学などを読みたいなと思っていてこちらが目につき、大変な見落としをしていたものだとすかさず手に取った。表紙の紹介が期待を膨らませた。
『死の淵から奇跡の生還をとげた著者が、悪夢のような苛烈な体験をもとに、軍隊内部の極限状況を緊迫した筆に描く』
 しかも野間文芸賞、川端康成文学賞受賞作という。私のアンテナもひどく小さかったものだなと思った。
 海軍予備学生に志願した著者の自伝的作品である。阿川弘之などにも似たような作品があるが、やはり比較の基準になってしまうのは『きけわだつみのこえ』だった。すると妙な違和感に「おや?」となるのだ。
 老人がかつての苦労話や思い出を、やや誇らしげに、懐かしげに語るような雰囲気。美化こそされていないにしても、少なくとも“悪夢のような苛烈な体験”が “緊迫した筆”で描かれているとは思えなかった。
 小説というより記憶を頼りに回想する長編のエッセイだろう。記憶が曖昧な部分もあり、それを包み隠さず覚えていないと書く。書く立場をもリアリティに徹するならこうなるのだろうが、あまりにこうした忘却が目についてしまい気になった。
 特攻隊という特異な体験が過大評価されているように感じた。もっと若いころの同じ著者のものを読んでみたいと思った。文章については淡々と過不足なく、感傷に傾くこともなくて悪くないのだが、期待し過ぎていたのが悪かった。
 わだつみ会の会員がその機関誌に投稿する昔語りもこんな口調に似ている。やはり生ある者と遺文でしかもの言えぬ側、比較するのがいけないのかもしれない。



読書感想文349

2011-12-12 20:32:00 | 戦争文学
『折れた八月』(小久保均 おりじん書房)

 再読したくて単身赴任先にまで持ってきた。初めて読んだときの既視感は今回どう変わっているだろうかと、頁をくった。 『木の葉落とし』
 『折れた八月』
 『夏の形見』
 収録された三編は、幼年学校入校前、幼年学校、復員した広島と、時系列に連なる。
 わずか一年に満たないうちに、15歳の少年が体験した強烈過ぎるあれこれ。それが過不足なく描かれている。
 この作品からかつての得た“既視感”は、今回冷たく突き放されたように思う。勝手に自らを重ね合わせようとしていた私の甘さが露呈した、と言い換えてもいい。
 著者の厳しさは自らへの厳しさであるとともに、甘えるような感情移入をも許容しないものだった。それが今回の読後感である。
 内的な衝迫を、抑制し、吟味し、点検し、いじめ抜き、ようやく濾過されてきたような短編なのである。かなわないと思った。
 はたして私にそこまで執着する内的衝迫があるだろうか。生きていくためにも書かねばならないなにものかが、あるだろうか。既視感以前だと、私は反省せざるを得ない。
 ただし、突き放されて読んで、見えることもあった。
 『木の葉落とし』に至った少年を育んだものは何か。著者ならば安易に時代のせいにはしないだろうが、作品中にそういった背景は描かれない。
 また、少年らしからぬ残酷かつスレたもの言いが散見され、後付けの不自然さ、あるいは醗酵しすぎて旬を逸した感じを持った。その辺りに関しては、デビュー作『楽園追放』を再び読んで比較してみたいと思う。




読書感想文346

2011-11-10 12:40:00 | 戦争文学
『菊村到戦記文学集 沈黙の空』(菊村到 講談社)

『硫黄島』という名作を残しながら、推理小説作家に転向してしまった菊村到。古本屋で探しても推理小説しかみつからない。試しにアマゾンでヒットしたものをくまなく探してみたら、本書をみつけた。ようやく見つけた、という感じである。
 表題作の他12編を収める短編集だが、既読のものは『ある戦いの手記』だけ。非常な期待を持って頁を開いた。以下各々の感想を。

『捕虜をいじめたか』
 語り手の親戚、浜田の相談話に基づく話。
 戦中、捕虜収容所の通訳を勤めた浜田。その後任である山田という男が浜田との人違いで戦犯として逮捕され、浜田に復讐しようとしているという。
 語り手は会見の場に用心棒として同席するわけだが、山田は現れない。しかも浜田はそれ以降、精神に変調を来していく。
 菊村到らしい作品だと思う。心当たりはないが、後ろめたい。それを過ぎたこととしてやり過ごせない。著者が意図したかどうかは別として、この通底するテーマは戦後の日本人一般を鋭く衝いてやまないはずだ。突き放すような結末は神経質な余韻を残し、読む側に様々な憶測や躓きをさせる。やや荒削りな短編ながら、読後感は強烈だ。

『屠殺者』
 結婚式場で狂態を演じる男・有本と、いわばその被害者である語り手の私。有本の手記を中心に据えながらも、やはりラストはぼかされ投げ出されてしまう。
 戦中の味方殺しと人肉食にまつわる手記は、有本の狂態を説明し、その失踪を正当化するに見えて、実は借金から逃げるための方便だったという可能性をも残して話は切られている。
 ぼかすには強烈過ぎて、しかしつきつめるにはあまりにも苦しいテーマである。『硫黄島』にも用いられるモチーフ、問題意識が、ここでは消化不良気味に沈潜している。

『天皇陛下万歳!』
 こちらも結婚式での失態をきっかけに語られる戦記。
 感傷とルサンチマンと、やり場のないいらいらしたものが蟠る。それが文学へと飛躍していくかに見えて、飛躍しきれない印象を受けた。筋が安易過ぎたのも一因だろうが、最後に『ふいにはげしい自己嫌悪におちこんだ』と書いて、読者をまた違う意味で突き放してしまう。読む側は語り手に感情移入しようとしつつ読むのだが、それが裏切られて、自己嫌悪に付き合わされた感じになってしまうのだ。
 しかし、著者の意図はどうあれ、この作家はこういう立ち方をしていたのだと思う。媚びようとはしない。苛立ちや不安を、いわば糧にするような立ち方。

『狙撃』
 掌編である。他の作品よりも静謐な感じがするのはなぜだろう。
 人物を描こうという意思は感じられない。ここでは江尻という男の殺意が、同棲する女によって踏み絵のように試されていく過程だけが描かれる。
 酷薄である。しかし、良い小説だと思う。鏡を見続けることを自らに強いるような、執拗な執筆態度が、無駄のない輪郭のなかにくっきりと浮かんでくるのだ。

『無名戦記』
 深刻がる姿勢を客観視する視点を得よう、という実験なのだろうか。この作品は他人の戦記を主題とし、最後に語り手は戦記の話し手にこう問う。
〈かれは戦場でいくつかの身近な人間の死にもふれている筈だし、またかれ自身、人間というものを、確実に殺しているのだ。
 そのような死の重さが、かれの内部で、どういうかたちで、解消されてしまっているのか。
「あなたは、戦争によって少しも傷ついていない、という感じがしますね」〉
 これに対し相手はこう答える。
〈「戦争によって傷つくというのは、深刻癖のある一部のインテリの幻影か、妄想でしょう。戦争は、ぼくにとって、青春であり、生活だった。その中で、ぼくは、ただ生きてきただけですよ」
 かれは、いくぶん腹立たしげにそう答えた。〉
“かれ”を非難するのがこの短編のテーマではあるまい。遠藤周作が『海と毒薬』で描いたものとは反対に、ここでは他者は完全に語り手との関係性を離れている。中間小説的な作風がもたらすものなのかもしれないが、ここまで自らを孤立させるような語り手がもし菊村到本人であるなら、それこそ著者が“どういうかたちで、解消”していったのかを知りたいと思った。
 これら戦記文学を書くことによって、という解釈は正しいのだろうか。

『インパール挽歌』
 挽歌とは名ばかりの、やや通俗小説風な作品である。内容は異なるものの『無名戦記』に似た印象を持った。
 他者はいかに戦争体験を総括しているのか、というモチーフが感じられる。
〈その熱っぽさは私を不安にした。この人の内部ではまだ戦争は終わってはいない。戦争の幻影がこの人の胸の底のほうで重たく揺れている。敗残の将軍とはおもえぬいきいきした輝きが表情全体にみなぎりはじめる。〉
 牟田口中将と思われる老人『M』に戸惑いつつも、少なからず戦争を引きずっているだろう著者をはじめとした戦中派は、合わせ鏡を見るように、結果的には自らのスタンスを知るかもしれない。戦争の亡者であるかのような『M』もまた、戦中派のタイプのひとつであるから。
とはいえ小説としては手抜きを否定しがたい作品である。

『たたかう男』
 同時進行で二つの話が交互に語られながら、しだいにそれらが接近し、ラストで結合する。こういう組み立て方をした小説は他にも幾つか読んだことがあるが、菊村到のその技術に関しては上手いと思った。どう重なり、いかなる裏付けが得られるのかと、緊迫した雰囲気の中で読めた。
 しかし突飛な終わり方は、某かを暗喩するのでもなさそうで、ちょっと安くさい読み物になりかねない。惜しい作品である。

『グルカ兵の影』
 サスペンス風の戦記だが、好短編である。
 人間にとって幸福とは何か、と青臭い自問自答を始めた四十歳の元伍長が、元小隊長の経営する貸金会社に就職する。
 屁理屈のような自己正当化で戦争と、戦後の自らを救おうとする語り手の欺瞞が、ラストの事件で鮮やかに暴露され、自分で振り上げた両刃の剣に完膚なきまで叩きのめされるラスト。純文学とはいえなかもしれないが、こうした作品がきっかけで推理小説に転じていったのかと、納得してしまっても良いくらいに見事な作品だ。

『ある戦いの手記』
 最近読んだばかりなので、飛ばそうと思ったが、やはり頁を繰っていた。この作品の粘り着くような文体は、初めて読んだ15歳以来、私を捉え続けている。
 作中、ある不可抗力によって語り手は自らの自由を、自由な選択を失わされている。その不可抗力とは時代であり戦争であり予備士官学校であり、また語り手の弱さなのでもあるが、区隊長である井田中尉をその代表として捉え、憎しみを生きる糧にしていく。井田中尉もまた、許されざる候補生である“ぼく”を打倒すべき敵ででもあるかのように扱い、互いの憎悪は粘着していくのだ。
〈いわば存在の秘密といったようなものを、かれはつかんだのではなかったか〉
 語り手は最後に井田中尉をこう回想する。存在の秘密とはなんだろうか。幾度も読んでいながら、ここがまだ読み解けない。おそらく二人を生かしていた力の源泉と、その意外な親和性のことだろうとは思うが。
 この本に収録されているものの多くが中間小説であるぶん、本作は際立ってみえる。何度読んでも良い。

『後に続くものを信ず』
 伝記のような話である。
 菊村到は新聞記者でもあった。本作はまさに新聞記者によるドキュメンタリーという体裁である。
 良し悪しはどうあれ、興味深く読めた。取材して裏付けを取りながらストーリーが組み立てられる。ミステリーという分野は、意外と職業的に得た文体にマッチしたのかもしれない。そう思わせる小品である。

『沈黙の空』
 救いのない話である。戦争というものが個人だけでなく、その周辺をも傷つけ、破綻させていくものだったのだということを、極端なほどに描いている。
 損なわれた人間が損なわれたことを自覚できずに招く悲劇。しかしそれが中年のヒロイズムみたいなものに支えられていて、悲しみが狂気じみていくのだった。

『悲しき暗殺者相沢中佐』
 陸軍期待の永田鉄山少将を単身執務室に乱入し斬殺した人として、名前だけは知っていた。同時期のテロやクーデター未遂に比較して、クローズアップされることもなく、右翼の亡者みたいな印象しかなかった。永田鉄山の死を惜しむ声が多く、その行為が青年将校らの場合と異なり、同情されなかったのだろう。
 こちらも伝記風のものだが、なんとなく相沢中佐の孤独に寄り添いたい雰囲気が感じられる。判官贔屓というやつだろうか。少なくとも言えるのは、著者の描く主人公は、いつでも孤独者ということだ。

『辻政信はどこにいる』
 こちらも伝記、あるいはドキュメンタリー風の作品である。軽いタッチで、大衆誌向けに書かれたもののようだが、戦地に還るアウトローを描くというのは、『硫黄島』以来一貫したテーマだったようである。
 ここにきて初めて私は、菊村到の戦記文学の限界を見た気がする。そのスタイルから自らを解放したかったのではないかと。自家中毒の文学。それは中間小説的な作品を書いても蟠り続けていたのである。



読書感想文333

2011-08-14 13:58:00 | 戦争文学
『硫黄島・あゝ江田島』(菊村到 新潮文庫)

すり切れるまで読んだ本のひとつである。今回は収録の逆順に読んでみた。違った印象を持つかもしれないと思ったのもあるし、最後に収められている『ある戦いの手記』がひどく好きだからだ。

『ある戦いの手記』
 士官学校出の若い区隊長と予備士官学校学生たる語り手との、粘着した確執。憎しみを糧に生きようとする語り手だが、まったく理解し合えない二人ながら、糧とする核の部分が繋がっていて、不思議な親和性をすら感じてしまう。
 その不思議な親和性は、語り手が予備士官学校からの脱出を計って区隊長に発見された瞬間に凝縮された形でスパークする。見事な短編だと思う。
 他者をこうした形で表現するのは本短編集の特質だ。それは自然な意味では他人を描くスタンスではない。戦後を生きる上で自らの立ち位置を再生する戦中派の、ひとつの営みを、文学で昇華しようという切実なもの。それが私の心を打ち続ける。

『きれいな手』
 カトリック信者の日本兵が戦犯として処刑されるまでの数時間を描く。
 罪、信仰あるいは転向といった大きなテーマとともに、戦争犯罪を“きれいな手”を自称する語り手によって描く。作者の意図はどうあれ、短編では描き切れぬ深く重い問題に触れており、不完全さは否めない。
『ある戦いの手記』ほど迫るものがないのは、作者自身の戦争体験とは多分に異なる世界の出来事だからだろうか。実体験のみを重く見るのは好まないが、こうした文学を読むとき、それは無視できないかもしれない。

『奴隷たち』
 ソ連の捕虜収容所における脱走の顛末。
 実際に脱柵して捕らえられた三人と、脱走を計画しながら体調不良を理由に行動を共にしなかった小隊長の反目、あるいは隔絶を描く。
 実は脱走は成功しないと知っていた小隊長の偽善がソ連兵や捕らえられた三人によって暴かれていく。あらゆる言い逃れを封じるストイックさ。その息苦しいまでのひたむきな描き方は、典型的な戦中派の態度のように思える。私が著者や梅崎春生あるいは小久保均に惹かれるのはその苦しいまでの真面目さゆえだ。

『しかばね衛兵』
 通底する問題意識は共通している。小隊長の無謀な命令で溺死した同僚を話の中心に据えながら、抱きついてきた死者を突き放したことを畏れ、悔いる兵士。台湾人の脱走兵を捜索する任務にいきりたつ台湾人小隊長の孤独。戦争という極限の状況で訪れるひとつの事件を題材に、現れる人間模様は、短切にしかし痛烈に表現される。

『あゝ江田島』
 幾度も読んだが、忘れがたく、あまりにも肌身にしみついてしまった作品である。
 青春の回想という体裁であるが、その青春が私のそれと重なり過ぎるのだ。
 今回読んでみて、いかに私がその青春を清算できずにいるのかを再確認してしまった。また当作品の空気が私の心情に与えた影響の大きさを。
 課題は山積している。比喩的に言うならば、私の中の戦争は終わっていないのだ。少々気障な言い方かもしれないが。

『硫黄島』
 芥川賞受賞の出世作。新聞記者の視点から描くその世界観は客観的ながら、むせぶようなウェットさは健在で、そのバランスが良かった。
 これだけのものを書きながらサスペンス作家に転向した著者に対する疑問を解消できずにいたが、硫黄島で自殺する男の内に秘めた某かを推し量るうち、菊村到の飛躍もわかるような気がした。
 硫黄島に発った男は決して死ぬつもりではなかった。やり直すために、総括するために、いわば新しい生を生きるために発ったはずなのだ。
 重厚で粘着する暗い文学の書き手だった著者が、一転してエンターテイメント色の濃い作品を書くようになっていったのも、こうした一連の戦争文学によって凝視する過程を経た上での帰結だったのだろう。それは著者自身にとっては、経ねばならない過程だった。われわれは著者の軌跡を、責任を果たそうともがき苦しんだ人の生き方として、そのまま受け入れるべきなのだ。エンタメに鞍替えしたことを悔いるのは外野のエゴというべきだろう。

 私も年をとったのだろうか。今回は作品を作品として噛みしめつつ、菊村到の、書かねばならなかった切実さと、こうしたテーマに筆を置いたその経緯に思いを馳せて読んでいた。
 なにごともなかったように戦中のアイデンティティを脱ぎ捨てて衣替えした人々のさなか、本作のような経過を経ねばならなかった著者の生き様を、私は敬いたい。
 いずれ、サスペンスのほうも手にとろう。ひとりの書き手が、いかなる変貌を遂げ得るのか。それを確認したい欲求に駆られている。




読書感想文290

2010-10-21 06:32:00 | 戦争文学
『春の城』(阿川弘之 新潮文庫)

 以前、『雲の墓標』を読んで芳しくない感想を持ったので、続いて著者のものを読もうという気は起きなかった。本作を手にしたのは、百円の古本を仕入れているときに見つけ、自伝的な作品ということが察せられ、そこに興味を抱いたからだ。『雲の墓標』が小説的であったその反動で、未消化なままでも良いから、もっと切実なものを読み取りたかったのである。
 淡々として気負わない文体は、志賀直哉に師事したというだけあって、癖がなく、透明で、いわば“文体”を感じさせない。読書中、無自覚に読み過ごしてしまいがちだったが、見事だと思う。
 本作は四章だてで、学生時代を一、海軍軍令部勤務時代を二、中国での受信所勤務と広島のひとたちの被爆記を三、作家を目指し戦後を歩み始めた四の各章からなる。次々と、すいすい読んでいったので、あまり意識しなかったが、それぞれがひとつの短編としても読めそうである。
 どうしても、学生あがりの兵隊の物語は、『きけわだつみのこえ』のフィルター越しに読もうとしてしまう。だからたいてい、そのスタンスに軽い失望を禁じ得ない。
 小説としての上手さには感心するが、語り手があまりに健全だ。“わだつみ”の学生兵らと違って、疑問も持たず素直に軍務に馴染み、勉学への未練は微塵もなく、大学を出たので海軍に就職しましたよ的なスムーズさ。これがたまたま安全で小綺麗な配置に就いたことで助長されたようにも見え、やや不快にすら感じた。
『きけわだつみのこえ』の文中には、本も読まずに食い物と女の話に執着する学生兵を批判するくだりが散見できる。また士官として誇らしげに剣を吊り、肩で風切る輩を冷笑したりもする。作中の語り手はおそらく批判を受け冷笑される側だろうが、しかしそれが当時の学生兵の典型だったのかもしれない。
 文体を感じさせないくらいの淡白な文を書く著者ゆえに、作中人物にも特異性や個人的思い入れを持たせず、平均的青年を描くことで、より多くの読者が共感できるようにしたのだろうか。
 阿川弘之は復員後、被爆記を書くためにせっせと聞き取りしたという。それが本作に使われているのだろうが、どこかで読んだような話に感じられるた。他人の体験談に頼らざるを得なかったため、無意識のまま、使い古された語彙に頼って、聞いたふうな話になってしまうのかもしれない。