『ピアッシング』(村上龍 幻冬舎文庫)
最近、自分の好みにとらわれないよう、あえてあまり興味をそそらないものを読んだりしている。本書もその方向性から選んだものだ。
村上龍は私の中で当たり外れの落差が激しい作家、という認識があって、全部読んでみようという気にはなれないでいる。
本書は94年発行の書き下ろし長編小説。“精神的外傷をテーマに、届かない言葉を抱えた男と女の聖なる交わりを描く”と表紙の解説にある。村上龍らしいなと思った。そしてそのテーマは私に少なからず痛みを伴った好奇心を誘う。『限りなく透明に近いブルー』でドラッグをひとつの媒介として描こうとした同じ作者が、トラウマを材料にどう書いていくのか。
私のそうした興味は馬の鼻先に吊るした人参のように、本書をいっきに読ませてしまった。
考える余裕を与えないスピード感。改行を廃した文体は、そのドライブ感を加速させる。描写が上手いとか、何かが巧みだという感慨もなく、ただただ活字に振り回される。しかも飽きさせずに。
この技術には驚かされる。トラウマを描く手法に、実験用マウスのようなディフォルメ感があって鼻についたが、そうした構図の不味さも考える余裕を与えず、雪崩れるままに最後を迎える。
《「何をしてるんだ?」
川島昌之が低い声で聞いた。
「ピアッシング」
佐名田千秋はじっと乳首を見つめたまま、そう答えた。》
自分自身の何かを知りたいという思惑があったことを読み終えて気づいた。読後感のある虚しさが、何も知り得なかったことに由来するのかなと考えたからだろう。
そんなことを小説に求めるほどには、ガキじゃないはずなのだが。

最近、自分の好みにとらわれないよう、あえてあまり興味をそそらないものを読んだりしている。本書もその方向性から選んだものだ。
村上龍は私の中で当たり外れの落差が激しい作家、という認識があって、全部読んでみようという気にはなれないでいる。
本書は94年発行の書き下ろし長編小説。“精神的外傷をテーマに、届かない言葉を抱えた男と女の聖なる交わりを描く”と表紙の解説にある。村上龍らしいなと思った。そしてそのテーマは私に少なからず痛みを伴った好奇心を誘う。『限りなく透明に近いブルー』でドラッグをひとつの媒介として描こうとした同じ作者が、トラウマを材料にどう書いていくのか。
私のそうした興味は馬の鼻先に吊るした人参のように、本書をいっきに読ませてしまった。
考える余裕を与えないスピード感。改行を廃した文体は、そのドライブ感を加速させる。描写が上手いとか、何かが巧みだという感慨もなく、ただただ活字に振り回される。しかも飽きさせずに。
この技術には驚かされる。トラウマを描く手法に、実験用マウスのようなディフォルメ感があって鼻についたが、そうした構図の不味さも考える余裕を与えず、雪崩れるままに最後を迎える。
《「何をしてるんだ?」
川島昌之が低い声で聞いた。
「ピアッシング」
佐名田千秋はじっと乳首を見つめたまま、そう答えた。》
自分自身の何かを知りたいという思惑があったことを読み終えて気づいた。読後感のある虚しさが、何も知り得なかったことに由来するのかなと考えたからだろう。
そんなことを小説に求めるほどには、ガキじゃないはずなのだが。
