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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文932

2025-05-15 09:53:50 | 評論・評伝
『共同幻想論』(吉本隆明 角川文庫)

 読むのは十年ぶりくらいだろうか。
 ある懸念によって、再読の手を伸ばした。というのは、本来、ケースに応じて丁寧に考え、慎重に表現すべき事象について、私は軽易にこの言葉に頼る傾向がある。まるでかつての左翼学生が、なんでもかでも上部構造云々で片付けていたように。
 再読して自分の理解が正しいのか確かめてみる必要があるなと常々感じていたのだ。
 とはいえ大著である。通勤電車で読むにはふさわしくない。ついつい背表紙を眺めながら数年が経過してしまった。それでもこの度、本棚から取り出せたのは、文庫本の物理的気安さのためだ。本は積んでおいても意味はない。たとえノートを取れない環境でも、読まないよりはいい。通勤電車で少しずつ、紐解いていった。
 面白かった。純粋に、読んでいて引き込まれた。まるで思想書のヴェールを纏うかのような本書であるが、読み方によっては「遠野物語」及び「古事記」の評論でもある。文芸評論ではあるが、可能性の矢が次々にその文脈から放たれてきて、読む側の能力によって矢は掴まれたり逃されたり、下手をすると射られてしまうのだ。
 このような読み方もあるのか。という純粋な驚きと感銘。横断していくドライブ感。たとえば「禁制論」は最後にこう締め括られている。

 わたしたちの心の風土で、禁制がうみだされる条件はすくなくともふた色ある。ひとつは、個体がなんらかの理由で入眠状態にあることであり、もうひとつは閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちでもかんがえていることである。この条件は共同的な幻想についてもかわらない。共同的な幻想もまた入眠とおなじように、現実と理念との区別がうしなわれた心の状態で、たやすく共同的な禁制を生みだすことができる。

 八十年前の書籍ではあるが、本質的なところでは何ら古びていない。
 現代の私たちは、“閉じられた弱小な生活圏”にあるといえる。SNSという電脳空間がそれだ。そこでは情報が偏り、狭まり、人は自ら考えることができなくなる。“入眠状態”に等しい。
 吉本隆明が「遠野物語」と「古事記」を脱構築してみせた手法とその抽出物には、何度も息を飲まされた。
 面白く読めたが、やはり電車で読むべきものではなかった。ノートどころか、付箋もろくに貼れなかった。ひとつの文芸評論を読む態度で、ただただ唸らされていたのである。
 


読書感想文927

2025-03-27 13:47:57 | 評論・評伝
『〈戦前〉の思考』(柄谷行人 講談社学術文庫)

 


 10年ぶりに読んだ。
 柄谷行人の謂う〈戦前〉が、いよいよ〈戦中〉に変換されつつあるのではと感じ、何らかの示唆を得たくて、通勤電車で毎日少しずつ読んだ。
 講演を書き起こしたものがメインなので、文体は平易で、この著者の書籍としては大変読みやすい。通勤電車で、良くも悪くもスラスラ読み進めてしまった。10年前は大量の付箋を貼りながら読んだのに、今回は栞代わりに使っていた付箋1枚だけを貼った。
 それは憲法第九条について言及した以下の一節だ。

──しかし、まさに当時の日本の権力にとって「強制」でしかなかったこの条項は、その後、日本が独立し簡単に変えることができたにもかかわらず、変えられませんでした。それは、大多数の国民の間にあの戦争体験が生きていたからです。しかし、死者たちは語りません。この条項が語るのです。それは死者や生き残った日本人の「意志」を超えています。もしそうでなければ、何度もいうように、こんな条項はとうに廃棄されているはずです。(「自主的憲法について」)

 死者は語らない。条項が語っている。言霊とでもいうべきものを感じた。
 著者はネーションについて、執拗に「想像の共同体」と呼び、それを担ったのが近代文学であるとしている。
 単なる物語、活字だと思って軽視していると、足下をすくわれる。
 本書は、1990~93年初出の講演や雑誌掲載記事をまとめたものだ。世の中はまだバブリーな雰囲気を残していて、湾岸戦争を対岸の火事のように見、ソ連崩壊によって米露が手を握り、ゴルバチョフが人気を博していた、そういう世相だ。その頃の評論の多くは、読めたしろものではなかろう。
 しかし本書は異なる。〈戦前〉が間延びして今に至るまで続いたせいなのか、まったく古びていない。それどころか、的外れがほとんどない。
 あとがきで著者は書いている。
 戦前を反復しないためには、「〈戦前〉の思考」が必要なのである。
 はたして私たちは、戦前の反復を防ぎ得ているのだろうか。
 

読書感想文907

2024-10-31 06:25:54 | 評論・評伝
『物語 ウクライナの歴史』(黒川祐次 中公新書)

 ウクライナという5字に敏感になって、2年半以上が経過した。そういう世相に乗って、多くの書籍が発行されているが、玉石混淆の体である。
 その点で、ある意味信頼して読めるのが、ウクライナ侵略が生起する前に著されたものだ。
 中には、安倍首相時代における日露の友好ムードを受けて、今では笑止としか言えない太平楽なロシア観を語るものもあるし、そもそもウクライナを問題視する書籍が少ない。という意味で、元駐ウクライナ大使が綿密な歴史的検証の上で執筆した本書は、資料的価値がとても高いと感じる。なにしろ今回の侵略どころか、2014年のクリミア危機すら見る前に書かれている。不要なバイアスが限りなく少ない貴重な見解に満ちているのだ。
 読み終えて感慨深いのは、露宇の戦争は歴史的必然だったというのを否定できないことだ。2年半前、私を含む大勢が、ロシアによる本格的侵攻を想定外のこととして受け取った。ひとえにそれは、本書が教えてくれるような、ウクライナという土地の歴史を知らなすぎたことが招いた思考停止だった。ロシア史や、本書を紐解いていくにつれ、私はそのように反省せざるを得なかったのである。
 発見と驚きと、伏線回収に満ちた読書だった。新書なのに、付箋だらけとなった(数えたら、42枚も貼ってあった)。
 キエフをキーウと呼び換える世相の中で、私たちがロシアだと思っていたものの多くがウクライナだったことに気づかされている。例えばロシア料理だと信じて疑わなかったボルシチはウクライナ料理だというし、コサックもウクライナを象徴する人々であった。これらに加えて本書も多くのウクライナ著名人について言及している。
 ソ連のフォン・ブラウンと称されたコロリョフは、ウクライナ人の母から生まれているし、ロシア革命の立役者トロツキーがオデーサ生まれのユダヤ人であるとは知っていたが、もう一人の主役ジノヴィエフもまたウクライナ出身のユダヤ人なのである。また、スターリンの後を襲う権力闘争に勝つため、クリミアをウクライナに移管したフルシチョフは、ロシア人ながら少年時代からウクライナで暮らし、ウクライナ共産党で頭角を表した。それはともかく、その後を継いだブレジネフも同様ウクライナ東部で生まれ育ったロシア人だったとは驚きである。
 例を挙げれば枚挙に暇がない。チャイコフスキーも、ゴルバチョフも、コサックの血を引いていたというし、ロシアのヘリコプターメーカーを創設したシコルスキーもウクライナ人だ。ロシア文学の父・ゴーゴリはウクライナ人であり、ロシア文学として名高いチェーホフ作品の多くが、クリミア滞在中に書かれている。
 東西南北の民族が交易し、衝突し、流入し、流出し、支配され、あるいは抵抗した、濃密な歴史を持つウクライナは、優秀な人材を排出または引き寄せる地なのかもしれない。ロシアも欧米もウクライナに執着するのは、地政学的価値・大穀倉地帯としての価値のみならず、そういった人的風土も無関係ではないのだ。
 最後に、もうひとつ、本書が教えてくれた私の歴史上の盲点。それは満州やロシア沿海州に在住したロシア人の多くが、ウクライナ人だったこと、という事実だ。彼らは、かつて日本の小作農が北海道や満州あるいはブラジルに移民したように、極東へ移り、または追放され、あるいはソ連のやりかたを忌避して移住してきた。ウクライナで排斥されたユダヤ人の多くも極東へ逃れたという。
 満州の歴史を扱った本を読むと、確かに「小ロシア人」とか「白ロシア人」という記載を見つけることができる。また、大横綱・大鵬は、樺太出身のウクライナ+日本のハーフだった。こうして、「そういうわけだったのか」と符合していく読書でもあった。
 中公文庫の物語シリーズは、是非、他のものも読みたいと思う。
 ただ一方、歴史を扱う本の枕詞に「物語」を乗せたことの意味については、考えさせられる。歴史は所詮、ある立場から描かれた物語なのだろうか、と。ナラティブという言葉がよく聞こえてくる、血なまぐさい時代が再び到来しているのだ。

 

読書感想文904

2024-10-19 08:29:34 | 評論・評伝
『スマホはどこまで脳を壊すか』(榊浩平著 川島隆太監修 朝日新書)

 話題になった『スマホ脳』に便乗した本かと思ったが、東北大学の研究者らが長年にわたる研究成果に基づいて著した提言ということで手にした。タイミング的に、出版サイドは便乗してやろうと思ったのかもしれないが。
 さまざまなエビデンスが示され、スマホの悪影響に愕然とさせられる。スマホを使う時間の長さが、学力の低下に比例し、鬱病の発生率に比例する。
 自分の子供が、勉強についていけなくなったり、学校を休むようになったタイミングが、スマホを持った時期に重複しており、親としては危惧していたことが証だてられていき、暗然たる思いである。
 本書を、子供にも読んでほしいが、スマホ依存になるにつれ、活字離れも進んでおり、欲しくて買った本まで積読している。親の勧めるものなど、読みはしないだろう。
 その他にも、著者は認知症患者の増大を危惧している。脳を劣化させるスマホ等の機器を若いときから常用してきた世代。これらが高齢者となるとき。・・・
 単に年金受給者が増えるとかいう問題ではない。健康のために運動することも、老後への投資だというが、デジタルデトックスに努めることもまた、脳を保全するための投資といえるだろう。
 紙の本や新聞を読むことの有意義を再確認もした。

 さて、高校の課題で論文を書くことににった私の子供は、『自己肯定感』をテーマに選んだらしく、それを低下させるものの一つがスマホかもしれないという私のアドバイスによって本書を紐解いてくれた。
 少しは危機感を共有できればいいが。

読書感想文900

2024-09-02 16:20:20 | 評論・評伝
『GHQは日本人の戦争観を変えたか』(賀茂道子 光文社新書)

 副題は『「ウォー・ギルト」をめぐる攻防』だ。
 GHQが、「真相はこうだ」といったラジオ番組を通して、日本人を再教育しようとしたことは知っていたが、心理作戦として「ウォー・ギルト・プログラム」なるものが存在したのは最近になって知った。
 心理戦について研究しようとしている教え子が、これをテーマにして叩き台を持ってきたからだ。
 資料作成の目的やテーマの概要説明から、彼が『正論』などに掲載される、一部の偏向した歴史観に依拠しているであろうことに気づいた。(かつての私がそうであったから、すぐにわかるのだ)
 もっと学術的な論及があるだろうと探して、意外な少なさに驚いた。江藤淳の言ったことが波及して右翼論壇で事実のように語られており、その手の感情的で非学術的な書籍はたんまり出ているのに、研究者によるアカデミックなものは賀茂氏くらいしか見当たらなかった。
 必読書であろうと手にした。

 日本政治外交史・占領史を専門とする名古屋大学大学院の特任准教授である。
 歴史を網羅的に、文献に依りながら紐解いてみせてくれる。歴史をほじくり返して何らかの解釈・意見をするなら、こうした検証を行ってほしいものだが、わざとなのか面倒くさいのか頭が悪いのか、中国や韓国が大嫌いな輩は、それをしないで、他人に聞いた風なことを事実であるような語り口で書く。もはやそれは文芸であう。そう、江藤淳は歴史家でなく文芸評論家だったのだ。
 90年代末、『新しい歴史教科書をつくる会』が結成されたころ、かつて江藤淳が唱えた“GHQによる洗脳言説”というのが持ち上げられ、それこそが“自虐史観”の原因であるという物語が語られるようになったようだ。ある意味『つくる会』のレーゾンデートルのようなものに祭り上げられたと皮肉な思いで眺めてしまう。
 実際には、江藤淳は『ウォー・ギルト・プログラム』のごく一部を拾い読んで、あとは自分の印象や直感だけで、日本人の歴史観は洗脳されたと説いたことを、著者は指摘している。実際に公開されている公文書を丹念に調べる学者ならば、そうでない者のつまみ食いは一目瞭然なのであろう。
 
 この新書を読み終えて思うのは、GHQが思った以上に急拵えの、流動的な組織だったということだ。
 戦後すぐに『ウォー・ギルト』を担任したGHQの職員は、戦争中に心理戦を行っていた者であったり、きわめて左寄りのニューディーラーや、中には共産党員だったことを窺わせる者もいる。
 彼らの思惑や理想が、GHQや本国の要求との兼ね合いの中で薄められたり、改変されたりし、首尾一貫した方針で占領政策が進められたのではないことがよく理解できた。
 また、強度の『ウォー・ギルト』は取り下げられ、日本人が主体的に気づいていくようなソフトな再教育に換わっていく様子も勉強になった。相手の傷に塩を塗り込むのは良くない、という判断である。それはアメリカのフィリピン統治で得た経験則であったし、一方で無差別爆撃や広島・長崎への原爆投下への恨み、批難を抑制するための、賢い占領政策であったろう。
 敗戦国を裁き、民主国家として、逆らわない国に作り直す。これにあたって、アメリカもまた、自らの『ウォー・ギルト』を気にし続けたのだということがわかった。反米の世論を恐れたのであって、彼らが反省したというわけではないのだろうが。

 しかし、よく言われているように、日本人は空気を読むのに聡い民族で、GHQの検閲を受けるまでもなく、次第に自主検閲のようにして忖度することを覚えていったようである。
 長いものに巻かれておれば、商売繁昌でエエじゃないか、というのが、被占領期日本の世相であった。
 洗脳は一方的にされたのでなく、日米が共犯のように行ったと観る方がいいだろう。勿論、官民ともに。