『共同幻想論』(吉本隆明 角川文庫)
読むのは十年ぶりくらいだろうか。
ある懸念によって、再読の手を伸ばした。というのは、本来、ケースに応じて丁寧に考え、慎重に表現すべき事象について、私は軽易にこの言葉に頼る傾向がある。まるでかつての左翼学生が、なんでもかでも上部構造云々で片付けていたように。
再読して自分の理解が正しいのか確かめてみる必要があるなと常々感じていたのだ。
とはいえ大著である。通勤電車で読むにはふさわしくない。ついつい背表紙を眺めながら数年が経過してしまった。それでもこの度、本棚から取り出せたのは、文庫本の物理的気安さのためだ。本は積んでおいても意味はない。たとえノートを取れない環境でも、読まないよりはいい。通勤電車で少しずつ、紐解いていった。
面白かった。純粋に、読んでいて引き込まれた。まるで思想書のヴェールを纏うかのような本書であるが、読み方によっては「遠野物語」及び「古事記」の評論でもある。文芸評論ではあるが、可能性の矢が次々にその文脈から放たれてきて、読む側の能力によって矢は掴まれたり逃されたり、下手をすると射られてしまうのだ。
このような読み方もあるのか。という純粋な驚きと感銘。横断していくドライブ感。たとえば「禁制論」は最後にこう締め括られている。
わたしたちの心の風土で、禁制がうみだされる条件はすくなくともふた色ある。ひとつは、個体がなんらかの理由で入眠状態にあることであり、もうひとつは閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちでもかんがえていることである。この条件は共同的な幻想についてもかわらない。共同的な幻想もまた入眠とおなじように、現実と理念との区別がうしなわれた心の状態で、たやすく共同的な禁制を生みだすことができる。
八十年前の書籍ではあるが、本質的なところでは何ら古びていない。
現代の私たちは、“閉じられた弱小な生活圏”にあるといえる。SNSという電脳空間がそれだ。そこでは情報が偏り、狭まり、人は自ら考えることができなくなる。“入眠状態”に等しい。
吉本隆明が「遠野物語」と「古事記」を脱構築してみせた手法とその抽出物には、何度も息を飲まされた。
面白く読めたが、やはり電車で読むべきものではなかった。ノートどころか、付箋もろくに貼れなかった。ひとつの文芸評論を読む態度で、ただただ唸らされていたのである。