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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文283

2010-09-07 00:16:00 | 戦争文学
『焔の中』(吉行淳之介 旺文社文庫)

 小島信夫に続いて、読んでみた。無論、“第三の新人”つながりである。
 彼らがどういった時代性の中で、いかなる問題に直面していたのか。就中、その世代を取り巻いた政治性に興味があった。学徒出陣のジェネレーションが、戦後において自由な文筆をものするとき、何を語るのか。やや残酷な興味、いいかえれば過剰な期待が私にあった。
 そういった私の規定性が、作品の読み方を狭くしたきらいがあるようだ。表紙の解説から、短絡的に学徒兵による闘いの物語を想定していた。ところが語り手(著者本人らしい)は入営4日目にして喘息の診断で帰郷となる。これは本作におけるエピソードのひとつに過ぎないのだが、思い込みが外れて肩透かしを食らってしまったようで、不覚にも集中力を失ってしまった。
 著者は若き日、『トニオ・クレーゲル』を愛読したという。本書は戦後十年経って、“そろそろあの時期を掘りかえしてみたい”と書かれたものだ。とりたてて戦争を描こうというのではない。青春が、その時期に重なってしまっただけなのである。その意味で、これは吉行淳之介なりの『トニオ・クレーゲル』だったのだろう。
 喘息による帰郷、相次ぐ空襲、命からがらの日々に仕返しするように、女の身体を求める。ことさら時代性を突くわけではなく、二十代前半の青年に共通する問題を描くところ、実は著者のこだわりなのだろうと思う。その視点は、べたべたしていながらも聡明で、力みがなく爽やかでさえある。
 戦争が終わって、最後に主人公はこう考える。
『死ぬことについてばかり考えさせられてきた僕は、今度は生きることを考えなくてはならぬ時間の中に投げ出されてしまったのだ。』
 それを文学青年的に悲壮ぶるでもなく、したたかにこう結ぶ。
『素朴な自尊心なぞ抱いていては、到底これからの時間の中で生き延びて行くことは不可能のように思える。僕は歪んでゆく内部に頼らなくてはならぬのだ。』
 漱石の『それから』を彷彿とさせるラストは、戦後への船出を思わせる。どこかへ向かうために、あるいはどこかから出るために、著者にとっては書かねばならぬ作品だったのだろうと思う。

読書感想文218

2009-08-20 12:26:00 | 戦争文学
『人間の条件(上)』(五味川純平 岩波現代文庫)

 長編である。その長さの前で躊躇し、いままで読まずにいた。あまり出来の良いとはいえない映画を観てしまったのも、敬遠の遠因だった。
“人間の条件”と謂い、理想を高らかに謳うおめでたい小説ではない。戦乱の渦中で、家庭を守るために社の尖兵となって、帝国主義の歯車として苦悩する左翼学生崩れが主人公だ。
 矛盾の中、あくまで人間でありたいと希求する彼の行いは、しかし裏目に出て自らを呵責へと陥れていく。
 上巻の最後、中国人捕虜の処刑をやめさせるために立った彼を待っていたのは、憲兵の拷問と徴兵免除の撤回であった。中巻においては軍隊での生活が描かれるはずだ。早く読みたいものである。
『神聖喜劇』と比較すると、読ませるための著者のサービス精神が豊富で、長いながらも先へ先へと興味を尽きさせない工夫がされ、いっきに書き上げたという筆力の執念に畏れ入るばかりだ。


読書感想文192

2008-11-08 08:37:00 | 戦争文学
『戦艦大和』(吉田満 角川文庫)

 戦記文学の白眉と称される『戦艦大和の最期』と、いくつかのエッセイを収録した文庫である。
 十代の頃は好んで戦記ものを読んだが、特攻などを扱う戦争映画の、エンタメ的感傷性に鼻持ちならなくなって、本作には長らく手を出さなかった。
 悲惨さより美しさや抒情を前面に出した、復古的とも受け取れる映画には、何らの反省も訴えかけてくるものもない。私は、本作を、そういった戦記ものに同類であろうと高をくくっていたのである。先入観というやつだ。
 巷にあふれる戦記ものから漂う、無反省の武勇談義と感傷性は、私に警戒感を植え付けるに充分だった。なにしろ、十代の私は、そういった戦記に感情移入し、足下を見失うような生き方をしていたのだから。
 
 出張先で、持っていった本を読んでしまい、ふと入った店で目についた。他にろくなものが見当たらなかったので、買ってみた。こういう機会が、以外と予期せぬ発見をもたらす。
 文語調には当初、反感を覚えた。その格調の中に、なにものかが誤魔化されているように感じたからだ。だが、戦闘が佳境に入るにつれ、これは文語体で書き綴っていくしかなかったのだと思えた。誤魔化し以前に、口語で気易く書ける題材ではないし、実際そこには、日常的な話し言葉の入る余地がなかった。結果的に、浪花節みたいな詠嘆調の臭みが気にならないのは、文語体の効用だったともいえよう。
 私はそれより、併録されている幾つかのエッセイに感銘を受けた(それは『戦艦大和の最期』というテクストが前提になっているエッセイだが)。著者は文壇での賞賛とは裏腹に、戦後の厭戦的風潮の中、はからずも戦争責任を追究されたりした。それに触発されてか、徹底的な総括・回答が、『一兵士の責任』他のエッセイに見られる。

《戦争協力の責任は、直接の戦闘行為あるいは、軍隊生活への忠実さだけに限定されるのではなく、さらに広汎に、われわれがみずからをそのような局面まで追いつめていったすべての行動、あらゆる段階における不作為、怠慢と怯懦とを含むはずなのだ。
 私の場合でいえば、戦争か平和かという無数の可能性がつみ重ねられながら一歩一歩深みに落ちていった過程を通じて、まず何よりも政治への恐るべき無関心に毒されていたことを指摘しなければならない。(中略)他の人について論じるのは、本論の主旨ではない。しかしこの意味では、おそらく大多数の国民が、ひとしく戦争協力の責任を問わるべきではないだろうか。》

 悲劇的な戦闘から生還した著者だけに、言葉の重みに、リアルな実感がある。
 続いて、著者はこう論じている。

《またこのような、根源的な戦争責任を認めればこそ、さらに開戦謀議や、残虐行為などの責任問題を現実に処理することが、はじめて本来の意味をもつことになる。》

 つまり責任の所在を一部に押しつけては、何らの教訓にもならないということだ。盲従し、ともすれば諸手を挙げて応援したのは誰だったのか。
 著者は『散華の世代』の最後にこう書いている。

《あの長い戦争の時期を通じて、一歩一歩微妙な段階へ通過するたびに、決定的な大戦争の道に傾いてゆくのを、自分なりの立場で阻止するために、指一つでも動かしたことがあっただろうか。およそそのようなことに、どれほどの関心を持っていたか。国の進路は作られ与えられるものでなくて、本来われわれ自身が作るべきものであったはずだ。太平洋戦争の意義は、このような覚醒のための契機としてならば、肯定される余地をもっている。》

 覚醒のあとに、眠り(思考停止)がやってくるのは、歴史の法則であろうか。
 だとすれば私たちは、その法則に抗わねばならない。


読書感想文175

2008-08-01 14:22:00 | 戦争文学
『雲の墓標』(阿川弘之 新潮文庫)

『きけわだつみのこえ』を繰り返し読むうち、“学徒出陣”にまつわる小説も読みたくなって、代表的なものとして本作が最も手に入りやすかった。文庫本で、どこにでも売っているからだ。それだけ、需要のある作品なのだろう。
 感想に入る前に、気の利かない苦言を呈さねばならない。
 映画でも小説でも、クローズアップされるのはいつも航空隊であり特攻隊である。本作もその例に漏れず、食傷気味の題材に、長らく手が出なかった。飛行機に乗れたのはごく一部で、他の大多数は艦艇で海の藻屑と消え、あるいは南の島で、大陸のどこかで、補給の途絶えた絶望的な殲滅戦を戦ったのである。したがって、まず第一に、私はパイロットや特攻隊のみを特別視し、悲壮ぶることに疑問を感じている。第二に、そういう悲壮感を売り物にし、あるいは無反省な感傷に浸るのみの受け手を、そういった文化状況を、疑問に思う。
 ただ涙してスッキリし『平和って尊いわねえ』とほざいているような人々が、国家の宣伝を見抜けずに招いたのが63年前の悲劇だ。
 さきに、例に漏れずと書いたように、本作は召集猶予を解除された学生が、航空隊を志願し、特攻隊に編入され、戦死を遂げるまでの日々を日記の形式であらわした小説である。
 実際に学徒出陣を経験した著者だけに、その感慨はリアルで、苦悩に作りもの臭さはない。
 しかし『きけわだつみのこえ』が実際に亡くなった人たちによる、実際の日記や書簡であるのに対して、こちらは生き残った著者が、戦後に、死の危険を脱してから書いたものである。リアルではある。しかしその相違はハッキリしている。
 死のにおい、とでも呼べばよいのだろうか。それが本作からは、小説化されたプロットの中で、かすかに想像される程度だ。死んでしまった人たちの遺書は、もっと頑なに、彼らの生を想わせる。それは彼らに刻印された“死”がもたらすものだろう。
 阿川弘之は戦死しなかった。特攻にも関わらなかった。書くべきことを、書いてほしいと思った。苦しみながら闘い、そして生き、戦後の日本を見ることができた学徒兵出身のものかきとして、書くべきことは少なくないはずだと、傲慢にも思ってしまった。


読書感想文143

2007-09-29 18:58:00 | 戦争文学
『生きている兵隊』(石川達三 中公文庫)

 中央公論社が組んだ特集“戦争を考えるフェア”の一冊である。
 私はその中の、石原莞爾『最終戦争論』、大岡昇平『ミンドロ島ふたたび』とともに三冊を買いもとめた。
『生きている兵隊』に関しては、伏字で掲載されるも軍部の圧力で発禁、よほどの内容であろうと興味を持った。本書は伏字部分も原文通りに復刻した完全版である。
 
「戦闘間一番嬉しいものは掠奪で、上官も第一線では見ても知らぬ振りをするから、思う存分掠奪するものもあった」
「ある中隊長は『余り問題が起こらぬように金をやるか、又は用をすましたら後は分からぬように殺しておくようにしろ』と暗に強姦を教えていた」
「戦争に参加した軍人をいちいち調べたら、皆殺人強盗強姦の犯罪者ばかりだろう」

 これらの引用は小説ではない。陸軍省秘密文書第四0四号と題する昭和14年の報告書である。『生きている兵隊』は、このような現実を、兵士の言動を通して生々しく描き、ことに、人間性を失ってゆく過程については様々なパターンを通して、リアルに、切実に書き尽くしている。
 中でも私が感心したのは、戦闘後の兵士を襲った心的恐慌を過不足なく描く筆力である。当時はまだ“トラウマ”とか“PTSD”といった概念はほとんど知られていないはずだが、まさにそれらの症例を見るように、兵士の苦悩が描かれているのだ。
 陸軍は、発禁の処分だけでは飽きたらず、本書を“反戦的”“反軍的”と称して石川達三を起訴、禁固四ヶ月に処した。南京大虐殺の一端を描く本書は、虐殺を対外的にも対内的にも秘匿したい軍部にとって、著者の意図に関わらず、内部告発と受け取られた。
 いま読めば、ことさら反軍的な内容ではない。否定も肯定もしないルポタージュである。軍はただ、臭いものに蓋をしたかったがために、“反戦的”“反軍的”のレッテルを貼ったのだろう。
 その傾向はエスカレートし、知性と科学を重んじる者を“非国民”呼ばわりする時代が訪れ、日本は敗れた。
 著者は憂国の志をもって本書を執筆した。国家は聞く耳を持たなかったが、石川達三の勇気は、物書きにとって鑑とすべきところだろう。