『幸福論』(ラッセル 安藤卓雄訳 岩波文庫)
岩波文庫別冊『一日一文』に取り上げられており、読書欲をそそられた。
哲学的なものと思いきや、案外現代的な自己啓発本であり、良くも悪くもスラスラ読めた。
伝統的な道徳(宗教)が強いる内向性こそが幸福を妨げるという。外交的に、多くのことへ興味関心を向けることで、人生は楽しいものになると。他方で、ただ享楽的に生きよというのでなく、若き日々には成長のための努力・学習が必要であることも説く。
“何か真剣な建設的な目的を持っている青少年は、その途上で必要だとわかれば、進んで多量の退屈に耐えるだろう。しかし、ある少年が娯楽と浪費の生活を送っている場合は、建設的な目的が彼の精神の中で芽生えるのは容易ではない。なぜなら、そういう場合は、考えがつねに次の快楽に向いていて、遠いかなたにある達成に向かわないからだ。”
若い頃の自分に読ませたい。二十歳ころの私は、大いなる目的を持ちながら、しかし快楽に溺れ、多量の退屈を忌避し、様々な可能性の芽をつぶしていた。
それにしても、自己啓発本というのは、マルクスが『ドイツイデオロギー』で批判した種々のイデオロギーに共通している。それは、“解釈を変えよ”というもので、世の中を変革しようという方向性は一切持たない。その意味で、あくまでも保守的なのだ。
本書は古い道徳観を批判的に見る風だが、『愛情』という一節では、親に愛されなかった人間の末路を悲観的に書いている。本人にはどうしようもない部分においてこのように話を展開されてはたまらない。
また、著者は人間誰しも賢くなれるものと前提しているらしい。
“賢明な人は、メイドが拭き取らなかったほこり、料理人が料理しなかったポテト、煙突掃除人がはらわなかった煤などは、見て見ぬふりをする。”
くだらぬことで感情的になるのは無益だというのだ。そんなことは理屈としてはわかる。しかし賢明な人間じゃないから、なんとかしたくてこういう本を読んでいるのである。
大半、同感できる内容だったが、やはり保守的で頷けないところもあった。
ニーチェの哲学を噛み砕いて穏便にしたような幸福論に思えた。