goo blog サービス終了のお知らせ 

よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文913

2024-12-18 21:33:13 | 純文学
『掏摸』(中村文則 河出文庫)
 
 この著者の作品はときどき読んできた。本作は、古書店でもよく目についていたが、何故か食指が伸びなかった。多数から評価された作品だからだろうか。下らぬ天の邪鬼な性格が妙な反抗心を湧かせる。
 出張先で入ったBOOKOFFで手にした。帰りの飛行機で読むのに手頃な文庫本を探していたのだ。
 最初から最後まで、頁を繰らずにはいられない緊張感に満ちていた。
 久々に、電車を乗り過ごしそうになるような引力を感じさせた。
 とはいえ、これは純文学なのどろうかと首を傾げた。著書が芥川賞作家だから、本作も純文学であろうと無批判に読み始めたが・・・
 やや雑な描写に、つまずくことが少なくなかった。ミステリー的な展開に、丁寧な情景・心理描写は疎かにされているように感じた。
 面白かったし、著者に益々興味を抱いたのは否めないが・・・
 続編的な作品とされる『王国』は、近いうちに手にしよう。
 

読書感想文909

2024-11-03 22:22:53 | 純文学
『羊をめぐる冒険(下)』(村上春樹 講談社文庫)

 かつてのように、引き込まれてしまうという読書ではなかったけれど、本作は今でも村上春樹作品中の秀作であると感じる。
 上巻の感想でも書いたように、作品はファンタジー的マテリアルによって成り立っている。とはいえ、注意深く見なければ気にならないくらい溶け込んでいるし、私のいう時代性・政治性というのも、読む者の思念の一滴が化学反応を起こさせて展開するように、気づかぬよう加えられている添加物だ。つまり、ノンポリシーまたは予備知識のない読者は、ただシックで都会的な作中人物たちの、ファンタジックで少し切ない冒険譚として読めてしまうのだ。知らぬが仏というべきか。
 こうした多面性が、著者の意図したものなのかはわからないが、やはり、前期三部作もまた、よく作り込まれた容れものだったといえよう。
 ただし、この容れものは、時代と政治の形状にも変化するのだ。
「1972年のピンボール」を再読し、その感想で私は「僕」と「鼠」の役割分担に触れた。前者は闘争から社会復帰していく者、後者はドロップアウトしていく者。
 では、「冒険」を経て、二人はどういうカタルシスを得(与え)るのか。すべてを失ったかに見える「僕」が地元の砂浜の切れっぱしで泣く場面で物語は幕を閉じる。これは単なるレクイエムなのか。否、二人は、ファンタジーの世界で、闘争を完遂したのである。羊を葬るという戦果がそれだ。
 それも物語を構成するマテリアルに過ぎないといえなくもなかろう。しかし、80年代の読者は、少なくない者が、友人や先輩や後輩を社会変革を目指した闘争で失った。素知らぬ顔でバブル景気を迎えつつありながらも、もやもやした罪悪感や悲哀は引きずっていたのではないか。(春樹作品が海外でも人気なのは、それぞれが、似たような背景を持っていたからではないか。中国人なら天安門事件。韓国なら民主化に至るまでの長い闘争)
「鼠」は、「僕」の助力を得て、羊(に象徴されるなにものか)をほふった。本作でも示唆されているが、かつてはチンギス・ハーンとして大陸を席巻したような、圧倒的に侵略的ななにかだ。現代風にいえばファシズムとなるだろうか。
 レクイエムに、こうした慰めも添えられているのが、この三部作の終え方だったのだろうと思う。もしかしたら、サリンジャーが欧州戦線で負ったPTSDから回復するために「ライ麦畑でつかまえて」を書かねばならなかったように。60年代末の学生時代、何らかの傷を負った村上春樹自身が、自らこうした区切りを必要としていたのかもしれない。
 単に私が深読みし過ぎているのかもしれないが。
 
 

 

読書感想文908

2024-11-03 10:25:12 | 純文学
『羊をめぐる冒険(上)』(村上春樹 講談社文庫)

 確か、読むのは三度目で、前回は14年前、震災の前年だった。
 災前と災後では、さまざまなことが変わった気がする。世の中もだし、自分自身も、青年から中年となった。職場でも、いわゆるぺーぺーだったのが、いまは下っぱながら幹部の立場だ。
 その変化が、文学を鑑賞する眼に影響を与えるのは自然なことだ。想像力を失ったとか、感性が鈍くなったと嘆いても仕方がない。読み方の変化を楽しむしかなかろうと思っている。
 で、どんな変化を今回は感じたのか、以前の感想文をひもといてみた。
 二十代の私は、面白く、夢中で読んだ。三十代のときは、ややドライな視点で、七十年代の若者の傾向なんかを念頭に読んだ。春樹作品をそれなりに読んだ後だったので、その癖が、少しずつ鼻につき始めていたのだろう。
 そして今回は、前期三部作を通読する中で、本作の、一見すると気づきにくい時代性を垣間見ることができた。(それについては下巻の感想で言及しよう)
 また、多くの作品で首をひねってきたファンタジー性の意義について、私なりの位置付けをすることができた。
 たとえば、「ピンボール」に登場する双子の女の子がそうだったように、本作では美しい耳を持つ21歳のモデル兼コールガールが旅の道連れとして登場する。「ああ、やはりか」と再認識したのは、このガールフレンドも、物語を進める上でのマテリアルに過ぎないのだ。彼女が小説における神の視点みたいなものを主人公に提供し、示唆を与え、冒険が組み立てられていく。当然、彼女は記号のようなものであり、耳の美しさなんて、なんの伏線ですらない。顔さえ思い浮かばない。素性も知れない。必要ないのだ。マテリアルに過ぎないのだから。おせっかいな読者は、勝手にその顔をイメージし、想像を膨らませるだろう。
 ということで、今回は小説の技術上の手法と、時代性=政治性に着目させられた。後者については、ある意味感心した部分もあるので、丁寧に考えてみたい。

読書感想文903

2024-09-21 20:20:38 | 純文学
『1973年のピンボール』(村上春樹 講談社文庫)

 さほど読みたいとは思わないが、先日、『風の歌を聴け』を読んだ流れで、やや義務感みたいなものもあって再読した。この年齢になって感じ方は随分と変わっており、新たな気づきもあったので、それを確かめていこうという着眼で読み進めた。
 これは一つの読み方に過ぎないのではあるが、70年の安保闘争による分断、社会復帰していく者(僕)とドロップアウトしていく者(鼠)の後日談として。
 さて、私は『風の歌を聴け』を読み、“これを純文学と呼べるのだろうか”と躓いたが、それはかつて前期三部作だけは“純文学”であろうと思い込んでいた自分の感覚への違和感でもあった。
 村上春樹作品をエンタメっぽく感じさせるのは、翻訳臭さとファンタジー的な小技への依拠である。だが、本作を再読してみて、少し考えを改めた。ファンタジー的なものは物語を構成する上での必要な要素なのだと。
 たとえばある日突然「僕」の両隣に寝ていた双子。荒唐無稽な設定ではあるが、二人との会話によって、「僕」は語らせられ、二人の提案によって、「僕」はクルマを借りて貯水池に行き、配電盤を水葬する。
 もしもこれが、「僕」ひとりでの独り言や、単独での配電盤水葬劇だったらどうか。感傷的でイイ気な男の臭い物語に堕するのだ。したがって話をシックにまとめるためには、双子というファンタジーが必要な材料だったといえる。
 配電盤もそうだ。いきなり電気工事の人が訪れ、配電盤の在りかを捜索し、新しいものと換えていく。散文的に描けば、配電盤はマルクスの「資本論」であったり、党の綱領であったり、1969年に沸騰した社会変革の夢であったろう。
 しかしそれらをリアリズムの手法で描けば、かえって文学から遠ざかる、そういう世相だったのであろう。
 わざわざ、1960年を「ボビー・ヴィーが「ラバー・ボール」を唄った年だ。」と書くのは、気取りではないのだろう。そのようなヴェールを纏わなければ、描けないものがあったのだ。
 そういう解釈を経て総括すると、春樹作品はよくできたスポンジのようなものに感じる。
 社会復帰していく当時の読者たちの様々な物語が、そのスポンジに吸収され、あたかもよくできた純文学作品の体を成すわけである。曖昧さとファンタジーさは、時代が変わっても読む者の負託に応える。誰しも、何かと決別していくのであるから。
 したがって、散りばめられた伏線にいちいち個別の回答は与えないし、世界を解釈もしない。「鼠」の苦悩も、曰くありげにその周縁をもやもやと書くだけだ。
 ピンボールの台とすら話が

できる「僕」だから、双子もまた、ただの人形だったのかもしれない。
 

読書感想文899

2024-09-01 06:52:47 | 純文学
『風の歌を聴け』(村上春樹 講談社文庫)

 歴史やその他の教養系ばかり読んでいて、読書が進まなくなってきた。加藤周一も『読書術』で書いていたように、新鮮な気持ちで読書を継続するには、一度に複数の本を並行して読めば良い。気分転換になって、飽きがこないし、たぶんジャンルが違えば脳の使われる場所も異なり、一方を休めながら一方を活性化することができる。
 というわけで、自室の本棚から選んだのが本書だった。深く考えたわけではないが、選択の条件は、
①純文学的な小説(それをどう定義付けるかは微妙な問題なので、初出の掲載誌で判断)
②軽く読めそうなもの、
③また読みたいと思えるもの。
 ①と③は大量に蔵書しているが、しかも②を兼ねるものは多くないのだろう。
 実際、教養系の新書と交互に読むうち、1日で読了してしまった。

 数年前に読んだ気がしていたが、当ブログで確認すると、15年ぶりだった。たぶん3回目である。
 久々に読み始めての印象は、『これは純文学なのか?』というクエスチョン、そして『翻訳の文体みたいだな』である。後者は、村上春樹のデビュー時に少なくない評者が言ったことで、私はその予備知識を今回実地に確認した。
 翻訳風の文体は、作風をも西欧風にして、結果として、リアリティーを失わせる。作り物感でいっぱいなのだ。
 70年の安保改定に向けた闘争を経てきた若者たちの一部は、本書がリアリティーに欠けるのは知った上で、こうした飄々としたタッチの小説を求めていたのかもしれない。地に足のつかない作風ながら、本作は実は時代性を反映している。リスタートするために、或いは冷却するために。
 という歴史的前提を踏まえずに読むと、本書はただの軽い文体で描かれた翻訳風のお上品な小説となってしまうだろう。
 さて、今回は余計な予備知識のフィルターを通して読んでしまったが、『僕』と『鼠』の役割分担に初めて気づいた。前者は、学生として社会復帰していく者、後者は闘争の後ドロップアウトした者だ。
 著者の周囲にもそういった2分類があったであろう。大学は続けながら自営業を始めたという著者は、そのどちらでもない立ち位置にいたのかもしれないが。
 となると、この前期三部作の読み方も自ずと変わってくるかもしれない。