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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文555

2016-06-24 21:20:00 | 戦争文学
『ポロポロ』(田中小実昌 中公文庫)

 早稲田通りの店頭ワゴンセール品で見つけた。昨年、新聞での書評を読んで興味を持ち、まずは初期作品からと、『上陸』という短編集を手にした。
 それっきり、当初読むはずだった『ポロポロ』を探さなかった。第一印象が良くなかったのである。今回¥100での奇遇がなければ、読むチャンスは巡ってこなかったかもしれない。
 正直こちらも『上陸』同様、さほど食欲をそそる作品とは感じなかった。たぶんそれは、私が勝手に期待している、学徒兵による戦記文学のイメージからかけ離れすぎた作風のためだろう。
 書かれたのは戦後三十年の後。曖昧な記憶を誤魔化しもせず、曖昧なまま書いてしまう。そのスタンスが文体にも現れており、悪くいえば緊張感の持てない読書をしてしまいそうになる。
 だが、しきりと著者は作中で首を傾げている。この言葉は“物語”の言葉ではないか。すでにこれは“物語”られているのではないか。クリスチャンでありながら武士であることはどうなのか。等々、根源的な何かの周囲を嗅ぎまわるかのようにして。
 解説で評者が記号論的といっている。表題作はその代表例だろう。
 投げ出すような脱力感。その奥のところで激しく内向している。そういう作品集だ。ものごとを「」に入れて捉えることを、そもそも疑ってかかるスタンス。いままであまり接したことのない作風である。



読書感想文533

2016-01-23 22:24:00 | 戦争文学
『出発は遂に訪れず』(島尾敏雄 新潮文庫)

 先日読んだ野呂邦暢の評論で取り上げられていた代表的な戦争文学のうちの一冊。未読だったのでさっそく手にしたが、同じ著者の『魚雷艇学生』はいまいちだった記憶がある。過度の期待はせずに紐解いた。
『島の果て』
『単独旅行者』
『夢の中での日常』
『兆』
『帰巣者の憂鬱』
『廃址』
『帰魂譚』
『マヤと一緒に』
『出発は遂に訪れず』
 以上9編が収められているが、解説によればこれらは次のような四種類に分類できるという。
1 戦争体験を素材とするもの。
2 夢幻的なもの。
3 家族を描くもの。
4 紀行文学的なもの。
 このうち1の他は正直退屈だった。特に2は当時流行った実存主義小説の和製版のようで、捉えどころがみつからなかった。私の読みが浅いのかもしれないが。
 最後に収録されている表題作は、緊張感のある文体に支えられ、表現しきろうという意思が感じられた。書かれた年代も他のものより後であり、強烈過ぎた体験が、時の経過という濾過器を通したためか、より洗練されている。その変化を鑑賞できるのは、最初に収められた『島の果て』を読んでいるからで、この編集の工夫は良かったなと、読み終えてから思った。
 それで、『島の果て』はもう一度、頁を繰った。驚くべきことに、早くも終戦の翌年に発表されている。それなのに微妙なディフォルメによって、見事に小説化できている。体験を、その意義を、処理したり、心を整理する暇もなかったはずだが。
 こうして再び本短編集を振り返れば、著者が『出発は遂に訪れず』を得るためにも、これら八編は紡がれねばならなかったのだろうと思う。まさに、体験を意義づけ、心を整え、自らの“文学”を確立するために。
 もし戦後間もない頃のエッセイや日記を載せた著作があるなら読んでみたい。いったいどうやって、燃え尽き力尽きることなく、体験を消化し、また昇華していったのか。燃え尽き易く、いつも消化不良に悩んでいる私には、この著者の心の在処が気になる。



読書感想文492

2015-04-20 17:13:00 | 戦争文学
『上陸 田中小実昌初期短編集(田中小実昌 河出文庫)

 新聞の何かの記事で『ポロポロ』という代表作が取り上げられており、著者の経歴を見ればいわゆる学徒出陣、これは読まずにおれぬと積ん読本たちの存在も度外視して入手した。代表作よりも同人雑誌に載った処女作が読みたくなり、こちらを選んだ。
 ちょっと肩透かしを食らったみたいな読後感に、どう感想を書けばいいやら悩んでいる。学徒出陣のイメージとは大きく乖離した作風に戸惑った。習作っぽさが拭えない気もしたが、私の違和感がそういう印象を与えたせいかもしれず、評価が定まらない。
 掴みどころのない結末は、実存主義文学の作風をコピーしたようなよそよそしさを思い起こさせる。外野から客観視して茶化すような文体と、そういう地に足のつかない雰囲気。
 と、書いてみて、そういう雰囲気を表現しようとしていたのかなと、ふと思った。1950年代を描くテクニックとして。
 いずれにせよ、琴線に触れる部分の見いだせない短編集だった。米軍基地における日本人労務者を扱ったりと、特異な設定は興味深かったけれど。






読書感想文472

2014-10-10 12:46:00 | 戦争文学
『二十三の戦争短編小説』(古山高麗雄 文春文庫)

 この著者の作品は、おそらく初めて手にした。朝日新聞が慰安婦問題の特集を組んでいて、文学作品に描かれた慰安婦という記事の中で紹介されていた。すぐにAmazonを開いたら品切れになっていた。大新聞の影響力はすごいなと思った。
 以下、それぞれ寸感を。

『墓地で』
 著者の処女作であるらしい。長らく編集者だったのが、勧められて書いたら好評を得た、という。
 こういう雰囲気の戦争文学は初めて読む。最初は戸惑った。私の引き出しにある戦争文学は、戦中派特有の、鬱屈した文体を纏い、あるいはやり場のないものをパセティックに昇華させようとする、そういったものだった。
 しかし本作は、贅肉を削ぐように、観念的なものを削いで、即物的に兵隊を、戦争を語る。その文体がまた良い加減さと真面目さの淡いを走っていくようで、戸惑いながらも、気づくと没入させられている。
 後で、これが戦後20年以上経っての作品と知り、なる程と思った。ろ過され、発酵され、精選された言葉たち。それはある意味で厳密さを欠くのかもしれないが、同じように、時を経なければ描けないこともあるのは確かだと思う。

『プレオー8の夜明け』
 芥川賞受賞作である。知らなかった。風変わりな題名だけに、受賞作一覧で見たような記憶はあるが。
 戦後の、ベトナムにおける戦犯刑務所での日々を描く。飄々として突き放すようでありながら、前作同様、人間くさい作風だ。
 しかし深く自省し、洞察するという視座は最初から持たない、そう意図されているように感じる。ありのままを、抽出する。写真家が膨大な写真の中から作品を選ぶようにして、ある瞬間が取り上げられる。そこに著者は、余計な解釈、戦中派的な自嘲、揶揄、鬱屈は込めないのだ。
【「徴用たと言うんたよ。うち慶尚南道で田んぼにいたんたよ。そしたら徴用たと言て、連れて行くんたよ。汽車に乗て、船に乗たよ。うち、慰安婦になること知らなかたよ

 悠揚迫らぬ、とはあのことだな。春江には、暗い陰がなかった。愉快そうに笑いながら彼女は続けた。
「運たよ。慰安婦なるのも運た。兵隊さん、弾に当たるのも運た。みんな運た。」】
 と、この作品がいま、政治的な論争の中でテキスト的にスポットライトが当てられてしまっているのは、幸か、不幸か。

『白い田圃』
 自らは現地人と対等に在ろうとする反軍的な語り手と、それを容赦しない陰惨な現実のせめぎ合い。それがラストの拷問の場面に集約される。
『拉致されて、屈辱的なことをやらされている点では同じだ』と、彼は慰安婦をも同族視しようと努めている。
 という前提を重ねていって、しかしアウトプットは憲兵に命じられての拷問、というラスト。きっと、語らぬだけで、こういう話は幾万の兵隊の心に、シコリを、傷を残しただろうと思う。忘れてしまえた人もあったのだろうけれど。

『蟻の自由』
 死んだ妹に書き続ける手紙、という体裁の作品。
 語り手自身も、死ぬことを望んでいて、死んだほうがマシだと思わざるを得ない戦場の様相が描写される。次第に死者と生者の境目がぼやけていく。こういう描き方もあるのかと感心させられた。

『今夜、死ぬ』
 生きては帰れないような作戦を夜に控えた“おれ”のモノローグ。
 軍隊生活を振り返りつつ、昔の思い出などが咀嚼されていく。走馬灯を散文的に表せばこうなるのだろうか。最後の、ささやかな抗いが、なんだか切ない。

『水筒・飯盒・雑嚢』
 私小説である。戦後の現在が語られていて、戦争は素直に回想の中で描かれるので、かえってリアリズムに徹していて、読んでいて安定感があった。やはり私小説というのが、日本文学の定型なのだろうか。読んでいて、善し悪しとは関係ないところで、なんだか落ち着くのである。
 兵隊のコンプレックスというかトラウマみたいなものを、回想と再会のエピソードの中にさりげなく散りばめている。上手さはないが、味わえる短編だ。

『退散じゃ』
 ゴシップに巻き込まれた自分を戯画化するかのように描く。現在と回想とが綺麗にブレンドされている。そういう自然さに、後から感心してしまう。

『戦友』
 これも回想を軸にして、あるテーマを浮かび上がらせようとするもの。
 回想は、感傷や押しつけがましさや正当化と紙一重で、作品化は意外と難しいと思う。だが著者の場合、そういうものが削がれていて、すっきりした文体に仕上がっている。見落としそうな部分である。

『優勝記略』
 これも、戦友会の案内に触発されるようにして過去が語られる筋。悪くはないのだが、冒頭と結末で軽く触れる“妻や妻に隠れてつきあっている女”という一節に、ひっかかるものを感じた。
 私小説であるから、そういう女が実在するんだろうと思われるのは当然だ。話の筋立て上、登場させざるを得ないならともかく、もののついでに蛇足的に、書かれている。意図的に、何かの効果を狙ったか、あるいは意味もなくか、いずれにせよ不愉快な一節に感じた。
 先に私は私小説を持ち上げるようなことを書いたが、こういうとき、その特有の匂いに、鼻をつまみたくなる。

 と、九/二十三作まで感想を書いて疲れてしまったので、あとは割愛する。
 最後に苦言を呈してしまったが、よく鍛錬された文体で、淡々と思うところを語り、記憶を掘り起こし、自問し、自答するこの作風は、私には好ましかった。
 特に、戦中から“翼賛語”を嫌い、反戦意識、反骨精神を持っていた著者による苦しい軍隊生活と、その批判は適切で、こういう戦争文学も珍しいなと感じた。
『きけわだつみのこえ』に収録されているような学生らが生きて小説を書けば、こういったものになったかもしれないなと感慨深くもあった。




読書感想文454

2014-04-19 11:09:00 | 戦争文学
『海冥 太平洋戦争にかかわる十六の短篇』(小田実 講談社文芸文庫)

 小田実に戦争小説の著作があるとは意外だった。そもそも私の中で『なんでも見てやろう』の著者にして進歩的政治活動家というイメージくらいしかなく、もともとは小説家だったというのも知らなかった。
 ベ平連や九条の会に関わり、様々な著作があって、店頭や新聞でその名は度々目にしてきた。亡くなったときの記事も読んだ気がする。しかし、だいぶ前に『なんでも見てやろう』を読んで以来、たぶん一度もこの人の作品に手を出さなかったのは不思議だ。
 おそらくは、こうして講談社文芸文庫から出る程度にしか、流通していなかったのは直接の原因だろう。ということで、安い文庫本コーナーばかり漁っていると、読み落としがたくさん出てくるのである。気をつけよう。
 さて作品は、太平洋の島々に関する十六編の短編を連ねる。連作ではないし、それぞれが何かを補完し合うわけでもない。共通するのは、玉砕と、餓死と、そして生き残った人々と、回想とである。著者は銃後であの戦争を経験し、直接の軍隊経験はない。だからこうしたスタイルがしっくりくるのだろう。
 具体的なことはあまり描かない。それは陰惨な軍隊生活を経ない書き手ゆえの描けなさ(弱点)であると同時に、新しい視点を与えた強みでもあるだろう。経験に拠らないドライな視座とでもいえばいいのか、それがかえって戦争の過酷さを婉曲にじわりじわりと感じさせる。
 おそらくは戦後の平和な生活が作品の足場になっているから、読む側に、共有可能な“痛み”や“後ろめたさ”や“自省”を促し、それがこの作品の婉曲さを、かえってリアルなものにしているのだろう。
 たとえ当事者でなくとも、こうして我々は当事者となりうる。倫理的にも示唆に富む作品だった。