『二十三の戦争短編小説』(古山高麗雄 文春文庫)
この著者の作品は、おそらく初めて手にした。朝日新聞が慰安婦問題の特集を組んでいて、文学作品に描かれた慰安婦という記事の中で紹介されていた。すぐにAmazonを開いたら品切れになっていた。大新聞の影響力はすごいなと思った。
以下、それぞれ寸感を。
『墓地で』
著者の処女作であるらしい。長らく編集者だったのが、勧められて書いたら好評を得た、という。
こういう雰囲気の戦争文学は初めて読む。最初は戸惑った。私の引き出しにある戦争文学は、戦中派特有の、鬱屈した文体を纏い、あるいはやり場のないものをパセティックに昇華させようとする、そういったものだった。
しかし本作は、贅肉を削ぐように、観念的なものを削いで、即物的に兵隊を、戦争を語る。その文体がまた良い加減さと真面目さの淡いを走っていくようで、戸惑いながらも、気づくと没入させられている。
後で、これが戦後20年以上経っての作品と知り、なる程と思った。ろ過され、発酵され、精選された言葉たち。それはある意味で厳密さを欠くのかもしれないが、同じように、時を経なければ描けないこともあるのは確かだと思う。
『プレオー8の夜明け』
芥川賞受賞作である。知らなかった。風変わりな題名だけに、受賞作一覧で見たような記憶はあるが。
戦後の、ベトナムにおける戦犯刑務所での日々を描く。飄々として突き放すようでありながら、前作同様、人間くさい作風だ。
しかし深く自省し、洞察するという視座は最初から持たない、そう意図されているように感じる。ありのままを、抽出する。写真家が膨大な写真の中から作品を選ぶようにして、ある瞬間が取り上げられる。そこに著者は、余計な解釈、戦中派的な自嘲、揶揄、鬱屈は込めないのだ。
【「徴用たと言うんたよ。うち慶尚南道で田んぼにいたんたよ。そしたら徴用たと言て、連れて行くんたよ。汽車に乗て、船に乗たよ。うち、慰安婦になること知らなかたよ
」
悠揚迫らぬ、とはあのことだな。春江には、暗い陰がなかった。愉快そうに笑いながら彼女は続けた。
「運たよ。慰安婦なるのも運た。兵隊さん、弾に当たるのも運た。みんな運た。」】
と、この作品がいま、政治的な論争の中でテキスト的にスポットライトが当てられてしまっているのは、幸か、不幸か。
『白い田圃』
自らは現地人と対等に在ろうとする反軍的な語り手と、それを容赦しない陰惨な現実のせめぎ合い。それがラストの拷問の場面に集約される。
『拉致されて、屈辱的なことをやらされている点では同じだ』と、彼は慰安婦をも同族視しようと努めている。
という前提を重ねていって、しかしアウトプットは憲兵に命じられての拷問、というラスト。きっと、語らぬだけで、こういう話は幾万の兵隊の心に、シコリを、傷を残しただろうと思う。忘れてしまえた人もあったのだろうけれど。
『蟻の自由』
死んだ妹に書き続ける手紙、という体裁の作品。
語り手自身も、死ぬことを望んでいて、死んだほうがマシだと思わざるを得ない戦場の様相が描写される。次第に死者と生者の境目がぼやけていく。こういう描き方もあるのかと感心させられた。
『今夜、死ぬ』
生きては帰れないような作戦を夜に控えた“おれ”のモノローグ。
軍隊生活を振り返りつつ、昔の思い出などが咀嚼されていく。走馬灯を散文的に表せばこうなるのだろうか。最後の、ささやかな抗いが、なんだか切ない。
『水筒・飯盒・雑嚢』
私小説である。戦後の現在が語られていて、戦争は素直に回想の中で描かれるので、かえってリアリズムに徹していて、読んでいて安定感があった。やはり私小説というのが、日本文学の定型なのだろうか。読んでいて、善し悪しとは関係ないところで、なんだか落ち着くのである。
兵隊のコンプレックスというかトラウマみたいなものを、回想と再会のエピソードの中にさりげなく散りばめている。上手さはないが、味わえる短編だ。
『退散じゃ』
ゴシップに巻き込まれた自分を戯画化するかのように描く。現在と回想とが綺麗にブレンドされている。そういう自然さに、後から感心してしまう。
『戦友』
これも回想を軸にして、あるテーマを浮かび上がらせようとするもの。
回想は、感傷や押しつけがましさや正当化と紙一重で、作品化は意外と難しいと思う。だが著者の場合、そういうものが削がれていて、すっきりした文体に仕上がっている。見落としそうな部分である。
『優勝記略』
これも、戦友会の案内に触発されるようにして過去が語られる筋。悪くはないのだが、冒頭と結末で軽く触れる“妻や妻に隠れてつきあっている女”という一節に、ひっかかるものを感じた。
私小説であるから、そういう女が実在するんだろうと思われるのは当然だ。話の筋立て上、登場させざるを得ないならともかく、もののついでに蛇足的に、書かれている。意図的に、何かの効果を狙ったか、あるいは意味もなくか、いずれにせよ不愉快な一節に感じた。
先に私は私小説を持ち上げるようなことを書いたが、こういうとき、その特有の匂いに、鼻をつまみたくなる。
と、九/二十三作まで感想を書いて疲れてしまったので、あとは割愛する。
最後に苦言を呈してしまったが、よく鍛錬された文体で、淡々と思うところを語り、記憶を掘り起こし、自問し、自答するこの作風は、私には好ましかった。
特に、戦中から“翼賛語”を嫌い、反戦意識、反骨精神を持っていた著者による苦しい軍隊生活と、その批判は適切で、こういう戦争文学も珍しいなと感じた。
『きけわだつみのこえ』に収録されているような学生らが生きて小説を書けば、こういったものになったかもしれないなと感慨深くもあった。