『菊村到戦記文学集(上) 硫黄島』(講談社)
新潮文庫の短編集『硫黄島・あゝ江田島』を長年にわたって愛読してきた。数年前、こちらの講談社のものを見つけ、先日再読したのがきっかけで上巻を探した。以前は高値で手を出せなかった気がするのだが、運良く格安で手に入れることができた。収録十六作品のうち、未読のものが十四もあり、わくわくと頁を繰った。
と、期待は肩透かしになった。初出一覧を見れば予測はついたろうが、表題作をのぞくほとんど全ての作品が、大衆誌に出ている。下巻でもそうだったが、同一人物とは思えぬほど、菊村到は純文学とそうでないものとを書きわけている。後年、サスペンス作家に転身したところをみれば、純文学ではないほうが、本人も得意だったのだろうか。
『英雄たち』は比島山中での敗走を描く。心境の機微をスピーディーに描いて緊張感を誘うが、深刻なテーマが回収されることなく伏線的に張りめぐらされていて、読み終えての心残りは否めない。長編に綴られるべきもののスケッチという体なのである。
『硫黄島の太陽』は、題名から期待が膨らんだものの、名作『硫黄島』に連なるものはひとつもなく、安っぽい模倣(当時流行ったのであろうカミュ作品の)が更に作品の質を貶めていると感じた。文筆“業”として、とにかく雑誌の締切に追われて書かれたものなのか。しかし、需要があるからこういう戦記も書かれたのだろう。
『炎の島タラワ』、『赤い服の日本兵』、『生き残った男』、『艦影見ゆれども』、『幻のスイス終戦工作』、『流弾』はいずれも戦史上のエピソードを小説という入れ物で紹介するようなもので、通勤電車の片手間に流し読みされるような小品だ。戦史叢書や誰かの手記などで学習したものをそれっぽく読みやすくしただけと言ったら言い過ぎか。
『死者の土地』もフィリピンでの絶望的な逃避行を描く。生きるために味方同士でも命のやり取りが行われ、それが乾いた文体で描かれていく。題材からいって深刻なのだが、深入りしないスタンスで、通勤の片手間に読むのに差し障りはない。そういう読み物が、時と場合により求められるのだろうが、これだけの問題意識を喚起しながらも、味方を撃つ作中人物の内心は【はっきりと何かに対決を迫られているのを感じた。かれはいつもそこを避けて通って来たような気がした。しかしもう避けることは許されない】と、淡々と語って済まされてしまう。惜しいとは思うが、それは読者の勝手な希望であろう。
『無風海面』は戦争の記憶を媒介にした一種のサスペンス小説。引きずり続ける葛藤や内心の傷が現在に歪みとして表れてくる様は切実だった。菊村到の得意とする手法なのだろうか。
『きれいな手』は表題作同様、新潮文庫にも収録されている。フィリピンで処刑される男の一日をその回想を交えて濃密に描く好短編だが、宗教的に重大なテーマを内包していて、それは“転向”の問題にも連なるものかもしれず、短編ではどうしても消化不良の感が否めない。
『われ敗れたり』は終戦の日の新聞社を寸描する。戦後、新聞社に務めた著者が、同僚らに聞いた話を作品化したのだろうか。短編小説としてどうという以前に、あの日を日本人はいかに迎えたのかと考え直させられた。
『小さな十字架』は、もしかしたら私小説だろうか。戦後、フィリピンに収監されている戦犯を訪問・取材する数日間を描いているが、記者時代の菊村到もフィリピンで現地取材しているのだ。そのためか、描写はリアルで動きに満ちているし、語り手の感じ方には切実さがみられる。特に、自分の『心の傾斜』に憂鬱を感じるラストの場面は印象的だった。『自分たちに背負わされた十字架の重さ』というテーゼが淡々と書かれてしまうあたりが大衆誌に載っていそうな小説らしいが、その含むところは重い。
『夜の檻の中で』も戦犯との面会を取材する記者が語り手。こちらは中国なのだが、いま、さらりと読み返して気づいたことがある。それは『小さな十字架』もこちらも、明るい話ではないけれど、生き残った人間は、戦後の生活を、一から、新たに開拓していこうとしていて、そこに一縷の希望が残されており、戦争の傷は、その希望という瘡蓋によって癒されようとしていたのかもしれない、ということだ(あるいは忘却か)。いずれにせよ、多くの日本人は、戦後の生活、復興に精一杯になり、“傷”に忘却の瘡蓋を張ったのかもしれない。
最後に表題作『硫黄島』。これまで何度も読みながら素通りしていたが、情景描写の巧みさに感心した。
【富田の眼に涙がじわじわしみ出て、それがやわらかく光をはじいた。そのきらめきは、私に、はじめて片桐があらわれたとき、かれの紺の背広の肩さきで、つつましやかに緻密な光を放っていたあのこまかな雨の水玉を思い出させた。】
感慨にふけりながら最後の頁を迎えたとき、冒頭の場面が色鮮やかに甦る。映画の手法なのかもしれぬが、これまで繰り返し読んできた私には、このフラッシュバックが幾層にも重なって甦るかのような、特異な感銘の体験となった。良い作品というのは、心の中で熟成されるものなのかもしれない。素敵な発見だった。
新潮文庫の短編集『硫黄島・あゝ江田島』を長年にわたって愛読してきた。数年前、こちらの講談社のものを見つけ、先日再読したのがきっかけで上巻を探した。以前は高値で手を出せなかった気がするのだが、運良く格安で手に入れることができた。収録十六作品のうち、未読のものが十四もあり、わくわくと頁を繰った。
と、期待は肩透かしになった。初出一覧を見れば予測はついたろうが、表題作をのぞくほとんど全ての作品が、大衆誌に出ている。下巻でもそうだったが、同一人物とは思えぬほど、菊村到は純文学とそうでないものとを書きわけている。後年、サスペンス作家に転身したところをみれば、純文学ではないほうが、本人も得意だったのだろうか。
『英雄たち』は比島山中での敗走を描く。心境の機微をスピーディーに描いて緊張感を誘うが、深刻なテーマが回収されることなく伏線的に張りめぐらされていて、読み終えての心残りは否めない。長編に綴られるべきもののスケッチという体なのである。
『硫黄島の太陽』は、題名から期待が膨らんだものの、名作『硫黄島』に連なるものはひとつもなく、安っぽい模倣(当時流行ったのであろうカミュ作品の)が更に作品の質を貶めていると感じた。文筆“業”として、とにかく雑誌の締切に追われて書かれたものなのか。しかし、需要があるからこういう戦記も書かれたのだろう。
『炎の島タラワ』、『赤い服の日本兵』、『生き残った男』、『艦影見ゆれども』、『幻のスイス終戦工作』、『流弾』はいずれも戦史上のエピソードを小説という入れ物で紹介するようなもので、通勤電車の片手間に流し読みされるような小品だ。戦史叢書や誰かの手記などで学習したものをそれっぽく読みやすくしただけと言ったら言い過ぎか。
『死者の土地』もフィリピンでの絶望的な逃避行を描く。生きるために味方同士でも命のやり取りが行われ、それが乾いた文体で描かれていく。題材からいって深刻なのだが、深入りしないスタンスで、通勤の片手間に読むのに差し障りはない。そういう読み物が、時と場合により求められるのだろうが、これだけの問題意識を喚起しながらも、味方を撃つ作中人物の内心は【はっきりと何かに対決を迫られているのを感じた。かれはいつもそこを避けて通って来たような気がした。しかしもう避けることは許されない】と、淡々と語って済まされてしまう。惜しいとは思うが、それは読者の勝手な希望であろう。
『無風海面』は戦争の記憶を媒介にした一種のサスペンス小説。引きずり続ける葛藤や内心の傷が現在に歪みとして表れてくる様は切実だった。菊村到の得意とする手法なのだろうか。
『きれいな手』は表題作同様、新潮文庫にも収録されている。フィリピンで処刑される男の一日をその回想を交えて濃密に描く好短編だが、宗教的に重大なテーマを内包していて、それは“転向”の問題にも連なるものかもしれず、短編ではどうしても消化不良の感が否めない。
『われ敗れたり』は終戦の日の新聞社を寸描する。戦後、新聞社に務めた著者が、同僚らに聞いた話を作品化したのだろうか。短編小説としてどうという以前に、あの日を日本人はいかに迎えたのかと考え直させられた。
『小さな十字架』は、もしかしたら私小説だろうか。戦後、フィリピンに収監されている戦犯を訪問・取材する数日間を描いているが、記者時代の菊村到もフィリピンで現地取材しているのだ。そのためか、描写はリアルで動きに満ちているし、語り手の感じ方には切実さがみられる。特に、自分の『心の傾斜』に憂鬱を感じるラストの場面は印象的だった。『自分たちに背負わされた十字架の重さ』というテーゼが淡々と書かれてしまうあたりが大衆誌に載っていそうな小説らしいが、その含むところは重い。
『夜の檻の中で』も戦犯との面会を取材する記者が語り手。こちらは中国なのだが、いま、さらりと読み返して気づいたことがある。それは『小さな十字架』もこちらも、明るい話ではないけれど、生き残った人間は、戦後の生活を、一から、新たに開拓していこうとしていて、そこに一縷の希望が残されており、戦争の傷は、その希望という瘡蓋によって癒されようとしていたのかもしれない、ということだ(あるいは忘却か)。いずれにせよ、多くの日本人は、戦後の生活、復興に精一杯になり、“傷”に忘却の瘡蓋を張ったのかもしれない。
最後に表題作『硫黄島』。これまで何度も読みながら素通りしていたが、情景描写の巧みさに感心した。
【富田の眼に涙がじわじわしみ出て、それがやわらかく光をはじいた。そのきらめきは、私に、はじめて片桐があらわれたとき、かれの紺の背広の肩さきで、つつましやかに緻密な光を放っていたあのこまかな雨の水玉を思い出させた。】
感慨にふけりながら最後の頁を迎えたとき、冒頭の場面が色鮮やかに甦る。映画の手法なのかもしれぬが、これまで繰り返し読んできた私には、このフラッシュバックが幾層にも重なって甦るかのような、特異な感銘の体験となった。良い作品というのは、心の中で熟成されるものなのかもしれない。素敵な発見だった。
